指先は露に濡れ(翔那)





 ある日、砂月が居なくなった。消えたと表現したほうが幾分か正しいかもしれない、今まで当たり前のように那月の中に居て体を共有していた砂月が、宿主にその存在を認識される事もなく消えてしまったのだ。初めは信じられなかった、俺の気づかぬところでは変わらず砂月が現れて那月を守っているのだとそう思っていた。けれども砂月が消えてしまったのは紛れもない事実で、砂月によって均衡を保たれていた彼の心が一層傷つきやすく繊細なものに変わってしまったのもまた事実だった。
「おい、起きろって」
「ん……」
 那月は朝に弱い、それは以前から変わらない事だ。けれども目を覚ました時いつだってふにゃりと柔らかな色を湛えていた瞳が今は、朝露を何度も受けた氷柱のように鋭く細められている。まるで砂月のようで、けれども砂月ほどの恐ろしさは感じさせない。目覚めの悪い夢でも見たのだろうか、晴れない表情を浮かべたままぼんやりとこちらを見やり、おはよう翔ちゃん、とやはり晴れない声音でそう呟いた。
「那月、もしかして体調悪い?」
「いえ……すみません、大丈夫だよ」
 心配しないで、と笑う彼はどこか痛々しい。砂月が消えてもう一週間ほど経つが、那月の笑顔は日に日に無理のある作り笑顔になっていた。それを指摘したことは無いしこれからもするつもりはない、一度意識してしまえば今の彼は本当の笑顔すら簡単に忘れてしまう、そんな気がする。ふらりと起き上がって洗面所へと消えてゆく那月、いつだって大きく見えていた後姿が今はひどく脆い。


 前触れなんて何も無かった。最後に砂月の姿を見た日、彼はいつものように不機嫌極まりないといった様子で眉根を寄せてさんざん俺をチビ呼ばわりし、眠った。おやすみの言葉なんてない、いつも通りだった。朝、那月が目を覚ましてお互い馬鹿みたいなこと言い合って一緒に登校して、本当にいつも通りだったんだ。部屋へと戻った彼が普段よりほんの少し物静かだということに気付いた、その時までは。


「そういえば最近、シノミーの姿を見ないね」
 珍しく女生徒を侍らせることなく共にランチを食すレンが、何の脈絡もなく唐突にそう呟いた。俺の隣で持参の弁当を口に運ぶトキヤは、そうですね、と素っ気なく同調する。
「いつもなら休み時間、用が無くてもおチビちゃんに会いに来るのに」
「忙しいのでしょう、最近はカリキュラムも本格的なものが多いですから」
「なるほど、少し寂しいけれど仕方ないか」
 細いパスタ麺をくるくるとフォークに巻きつけながらため息を吐くレンは、仕方ない、と言いながらどこか探るような視線をこちらへと寄越す。
「……なんだよ」
「別に、さっきからおチビちゃんは静かだなと思っただけさ」
「食うのに忙しいんだよ」
 身の大きなエビフライにざくりとフォークを突き刺す。トキヤが何か言いたげに口開くのが視界の端っこに映るが、特に言葉は発せられなかった。そのまま時間は過ぎてゆく、決して気まずい訳ではないけれど以前にはなかった居心地の悪さを覚えた。砂月が消えてしまったことに二人は気付いていないだろう、那月の様子がおかしくなってしまった事も恐らく知らない。二人にこんな態度を取らせてしまっている原因があるとすればそれは多分、俺だ。当たり前のように居た存在がある日突然消えてしまって冷静で居られるほど俺は出来た人間じゃないし、那月に対する心配と不安で正直なところ日に日に余裕がなくなっていた。
「ああ、そろそろ昼休みも終わるね。先に戻ってるよ」
 まるで校舎を包み込むように響き渡る予鈴に急かされて、レンだけではなく周りの生徒も席を立つ。少し置いてトキヤも立ち上がり、だが歩き出すこともなくじっと隣に留まっていた。なんだろうか、最後の野菜を咀嚼しながら見上げれば、彼にしては珍しく穏やかな視線とかち合った。
「翔、四ノ宮さんと喧嘩でもしているのなら早く仲直りしてくださいね。レンも私も二人の姿を見ていないとどうも落ち着かないのです」
 そう言い残してそそくさと去ってゆくトキヤに、別に喧嘩なんてしてないんだけど、と心の中で返す。もしかしてレンにも同じように思われているのだろうか、何日も仲違いをこじらせてうだうだ悩むような甲斐性無しだと認識されているのだとしたら不本意である。けれどもそれで、良いのかもしれない。仮に二人へと砂月の事実を伝えたとして何がどうともなりはしない、那月自身に変化が起きない限りこの悩みの種が尽きることはないだろうから。


 その変化は思ったよりも早く訪れた。
「翔ちゃん、一緒に寝ちゃ駄目ですか……?」
 砂月が消えて二週間ほど経った夜だった。年頃の男が着るには少々可愛らし過ぎるパジャマを身にまとって、やや強引に俺のベッドへ入り込もうとする那月。今までにも一緒に眠ることは何度かあったが、こんなに縋り付くような声音で求められるなんて初めてだった。そもそも会話すらここ数日ろくに交わしていないのに、突然どうしたのか。既に半身を潜り込ませている那月を今更無下にすることなど出来る筈もなく、諦めたようにいいよと呟けば彼は僅かに頬を緩めた。男二人が眠るには狭いベッド、那月は今にも落ちるんじゃないかと不安になるほど隅へと身を寄せる。
「……もっとこっち来いって」
「大丈夫ですよ、翔ちゃん狭いでしょ?」
「いいから」
 引きずるように無理やり腕を掴めば、観念したのか体をこちらへとずらす。今までならば強引に、嫌だと言ったって俺を抱き枕みたいに束縛して眠っていたのに。ひどく遠慮がちな態度は不安よりも苛立ちの方が大きい。
「あのね翔ちゃん、僕最近よく夢を見るんです」
「夢?」
「うん、僕は翔ちゃんと一緒だったり、ハルちゃんや真斗くんたちも居たり。いつも誰かが居てくれるのに、何か足りないなぁって思うんです」
 お互い背を向け合って、ぽつりと那月は語りだす。夢なんて所詮夢だ、気にすることなど何もない。そう言ってやりたいのにどうしてか彼の抱く夢への執着には、普通のそれとは別の思いが込められているようだった。
「ってごめんね、眠いのにお話しちゃって。おやすみなさい翔ちゃん」
 背中越しに那月が身を丸めるのが分かった。でかい図体を縮こまらせて眠る姿は一見子供のようで、何かから身を守ろうとする自衛本能のようにも思えた。もぞり、寝返りを打つ。布のこすれる音が静まり返った夜の空気を僅かに震わせた。
「那月」
 小さな枕に預けられた二人分の頭、鼻先をふわふわのくせ毛がくすぐる。抱きしめた背中は脆く見えたってやっぱり大きくて、なんだか抱き付いているみたいだった。
「俺が傍に居てやるから、心配すんな」
「それってどういう……?」
「別に、どうもこうもねーよ」
 なんとなく口から出ただけの言葉、救いには程遠いけれども気休め程度にはなるといい。抱きしめる腕にぎゅうと力を込めれば那月は小さく身を捩る、それきり振り向くことも腕を振りほどくこともなく、やがてすうすうと立てられた寝息に俺はどこか安心していた。砂月が消えて、心に開いてしまった穴には風が吹き抜けているだろう。それを埋めてやれる自信なんてないけれど、せいぜい風から身を包んでやれるくらいにはなる筈だ。白いうなじに顔をうずめて、追うように夢へと落ちていった。


「おチビちゃん、シノミーが呼んでいるよ」
 砂月が消えてひと月、少しずつだが那月に笑顔が戻り始めた。ふとした瞬間寂しさを両目に湛える事はあっても零れ落ちはしない、表向きには元気で人懐こい姿を見せている。トキヤやレンも那月の様子に安心したらしく、今まで通り遠巻きに俺等を見守っていた。
「なんだよ、休み時間もう終わるぞ?」
「お昼の約束し忘れていたので、来ちゃいました」
「んな事でわざわざ……この俺様が直々に迎えに行ってやるから、待ってろ」
「はーい」
 右手を精一杯伸ばすと那月は嬉しそうに膝を折る、身長差があるせいで彼がしゃがまないとこんな事すら満足にしてやれないのは少し、悔しい。ぽんぽんと頭を撫でると那月は柔らかな笑顔を浮かべ、やがて鳴った予鈴に名残惜しそうな目をしながら去っていった。その後姿は相変わらず脆い、けれども数日前よりはしっかりとした足取りに思わず安堵のため息を漏らす。休み時間、必ずではないが俺のクラスへとやってくる那月。登校はもちろん昼食や下校時間も一緒、まるで恋人同士みたいだ、なんて可笑しくなる。そういえば砂月が消える前はどうだったか、しょっちゅう一緒にいた記憶はあるがここまでべったりしていただろうか、すっかり思い出せない。悶々と思考しながら席へ着くと、本鈴と同時に担任である日向先生が教室の扉を開けた。
「悪い、スタジオ棟に教室移動だ」
「テストですか?」
「どうだろうな」
 にやにやと笑う様子に間違いないとの確信を持つ。他の生徒も同じように複雑そうな表情を浮かべぞろぞろと教室を出て行った。何も持たないのも手持ち無沙汰なのでせめてもとスコアブックを手に教室を出れば、ご丁寧にノートまで抱えたトキヤと目が合った。真面目な彼のことだから仮に試験だとして、暇な時間を自身のスキルアップに繋げようとするだろう、そのためのメモ帳といったところか。対してレンは何も持たず、両手を頭の後ろに組んで歩く。
「おチビちゃん、自信ありそうだね」
「お前の方が余裕って面してるだろ、バックレるかと思ったのに珍しい」
 隣に並ぶとなぜかトキヤまで寄ってくる、那月ほどではないが十分長身の二人に囲まれたら言わずもがな悲しい思いをすることになる、できれば離れていて欲しいんだけど。無言の訴えは届かず、高みからふふっとレンの笑みが零れた。
「最近、なんだか気分がいいからね」
「女性と上手くいってるんですか」
「なんだいその勝手なイメージ……そういうイッチーもよく笑っているね」
「気のせいです」
 どこか照れを隠すような声音で足早に先を行くトキヤ、その様子にいっそうレンは笑う。少し前までは二人もどこか静かだったのに、やはり心配をかけていたのだろう。那月一人に振り回されているのは俺だけじゃなかったなんて、それは可笑しくもあり嬉しくもあった。スタジオに入ると俺たち三人ひとつにまとめられる、どうやらグループで行うらしく何度か歌った課題曲のインストが流れていた。
「本番にアクシデントなんて日常茶飯事だ、わざと音量調節してないマイクで綺麗に一曲通して歌え」
「……なるほど、だからグループセッションね」
「なんだ神宮寺、自信がないか?」
「リューヤさん、見くびらないで欲しいなあ」
 挑発するような視線を向けるレンは、ライブに臨む直前のアーティストさながらの気迫と自信に満ち溢れていた。一瞬だけこちらを見やり、早くマイクを持ちなとでも言わんばかりに笑む顔はどこぞの誰かと張り合っている時のように、心躍らせているようにも見えた。今更何を言っても無駄だろう、マイクを手に取りスタジオの中央、他の生徒たちに囲まれるように三人並んだ。トキヤはマイクのスイッチを入れて小さく声を当てながら音量をみているようだ、一方のレンはマイクを持ちはするものの確認する素振りを見せない。それぞれらしいな、思いながらスイッチを入れるが直後にイントロが流れ始めてしまい確認など叶わなかった。ぶっつけ本番、上等じゃねーか。息を吸い込み最初の一フレーズを歌う。
「っ……!」
 途端、三人で思わず顔を見合わせる。どうやら自分の音量があまりにも大きすぎたようで二人の声などまったく聞こえていなかった。抑えて歌うことが苦手な自分にとっては中々厄介で、喉を閉じてしまわぬよう気をつけながら絞ってゆく。普段涼しい顔で歌っているトキヤなんて大袈裟なくらい声を張り上げて、けれども決して濁ることなく透き通る声音は流石だった。レンのマイクは音量こそ普通であるがどうやらブレが生じるらしく、極端な音程の上がり下がりに対し細かな調節をしている。天性の感覚が物を言うのだろう、自然な歌声は見事だった。最初こそ苦労したものの二番に差し掛かる頃には互いのパートを引き立てる余裕すら出ていた、最後のフレーズが終わり自然と顔を見合わせる。まだ足りない、もっと歌いたい、訴えるような視線を揃って日向先生へと向ければ彼は苦笑して、全員終わってからな、とチェックボードを指先で叩く。ここのところ筆記ばかりで実践的な授業が少なかったからだろう、ただ純粋に楽しくて仕方ない。その後続いたグループはそれぞれ苦戦を強いられたようで、けれども皆心なしか生き生きとしている。全グループが終わり、今度は別の曲で歌わせてもらう。ダンスを入れながらだと意識が踊りへと向かいがちで、四苦八苦しながらも一曲歌い上げ次を次をとせがめば、日向先生は勘弁してくれよと笑った。
「お前らなー、腹減ってんだよこっちは」
「すみません……とっくに昼休みが始まっていましたね」
 あまりにも夢中だったからだろう、指摘されてようやく時計に気づいた。既に昼休みが始まって数分が経っている、食堂はもう席が埋まってしまっているだろうが購買部へ行くぐらいは……
「あっ」
「どうしたのおチビちゃん」
「やべえ……すっかり忘れてた」
 スコアブック片手にスタジオを飛び出す。ざわめく人の波を掻き分け階段を上った先、Aクラスのドアを勢いよく開いた。数人の生徒が何事かとこちらを見やるが、そんな彼らを含め教室中を見渡しても目当ての蜂蜜色は見当たらなかった。
「あれ、翔くん」
 背後からの声に振り向けば、七海と渋谷がパンを抱えてこちらを見つめていた。お久しぶりです、と微笑む七海にたどたどしくおうと返せば渋谷が不思議そうな表情を浮かべる。
「一人なんて珍しいね」
「あ、いや……待ち合わせてたんだけど遅れちまって、那月知らない?」
「ううん、うちらチャイム鳴ってすぐ教室出たからねー」
 食堂に居るんじゃない、との言葉に急かされるようAクラスの教室を後にする。お昼時というのもあって溢れんばかりの人で埋め尽くされた食堂は一人ひとりの姿を視認するにも一苦労だ。注文待ちの列、カウンター、テーブル席とくまなく探しているつもりだがどこにもあの目立つ長身は見当たらない。途中、音也たちの姿を発見したが「あれ、那月は?」と逆に尋ねられてしまった。てっきり二人と居るものだと思っていたのに、他に彼が行きそうな場所なんてせいぜい購買部か中庭くらいだろうか。時計を見やると昼休みが終わるまであと僅かだった。今更見つけたところで時間なんてほとんど無いのだし、今日は無理でもまた明日一緒に食べればいい。約束を忘れてしまったことは放課後にでも謝ろう、走り回ったせいでぺこぺこのお腹を押さえながら注文列へと並んだ。


 午後の授業、間の休みに那月がこちらの教室を訪れることはなかった。別段おかしなことじゃない、那月だってそこまで毎時間ヒマではないのだし、そう思いながらも胸がざわざわ波打つのを感じる。授業内容なんてろくに頭に入らなかった、浮き足立つまま放課後となり、何かを言いかける日向先生に目もくれず一目散に那月の元へと急ぐ。昼と同じように勢いよくドアを開ければAクラスの担任である月宮先生が大げさに驚きの声を上げた。
「きゃっ……なによもう、びっくりしたじゃないの」
「すみません……那月ってもう出ちゃいましたか」
 きょろきょろと教室中を見渡すが音也たちの傍にも七海の傍にも、彼の姿はない。月宮先生は眉根を寄せ、まるで一昔前のアイドルを思わせる手つきで困ったように頬を押さえた。
「あら、聞いてない?なっちゃん早退しちゃったのよ」
「えっ……」
「お昼休みの時にね、どうも体調悪くなっちゃったみたいで。伝えてねって言ったのに龍也ったら」
 ごめんなさいね、と申し訳なさそうに呟く月宮先生にこちらこそと頭を下げる。昼休み、あんなに探しても見つからなかったのはそういう事だったのか、合点がいく。それでも少し前に会ったときには調子が悪そうな様子なんて微塵も感じなかったのだ、どうにも腑に落ちない。胸のざわつきは相変わらず激しいままで、寮までの道のりが今日はやけに長く感じた。いつにも増して駆け足で部屋へ戻ると、ぼんやり椅子に座る那月の姿があった。
「那月、大丈夫か?具合悪いんだろ?」
 荷物を放って彼の傍へと駆け寄るが、どうにも様子がおかしい。もしかして昼のことを怒っているのだろうか、はたまた返事も出来ないほどに体がつらいのか。顔を覗き込むとレンズの奥にある深緑の瞳がひくり、小さく反応を示した。ゆっくりかち合う視線、それは柔らかな那月のものとはまるで違う、抉るような突き刺すような鋭さ。
「……砂月」
 無意識に零れた名前に、那月であるはずの彼の眉がきつくひそめられる。一呼吸置いてもう一度、今度はしっかりとした音でその名を呼んだ。
「お前、砂月だろ」
 再びの邂逅はひどく複雑な思いだった。どうして今になって現れたのか、何が引き金となったのか、尋ねたい事は山ほどあるのにそれ以上口を開くことなんて出来ないと錯覚させるほど彼の視線は重苦しい。俺の言葉に砂月は否定も肯定もせず、ただじっとこちらを見据えている。続く沈黙、永遠すら感じさせるその空気を先に断ち切ったのは砂月の方だった。
「チビ、てめぇ余計なことしやがって」
「……どういう意味だ」
「知らねぇとは言わせねぇぞ、傍に居るなんて口ばっかの約束しといて」
 砂月の言葉に二週間前、一緒に眠った時のやり取りが思い出される。あの日那月を抱きしめながら放った一言を、どうして砂月が知っているのか。消えてしまったものだとばかり思っていた砂月が、仮にただ身を潜めていただけだとしたら。那月に悲しそうな、つらそうな思いをさせた意図がまるで分からない。だって砂月、お前は影として那月を守る存在だろう?戸惑う俺の胸倉を砂月の手がきつく掴む、今にも唇が触れるほどに近づく顔は怒りを露にした表情で、けれどもレンズ越しに見える瞳はどうしてか泣き出しそうに揺らいでいるような気がした。
「ここのところ那月の様子がおかしいって、てめぇは気づいてたんだろ」
「まあ、な」
「その理由をなんでだと思ってやがった、俺が居なくなったからか?だとしたらチビ、てめぇは那月のこと分かっちゃいねぇ」
 責め立てる言葉が胸を抉る。なんだよお前、あれだけ那月に悲しい思いさせておいて。それでも那月のことを何一つ理解していないのは事実で、反論しようにも言葉は見つからない。どん、と押し返すように手を放され足元がふらついた。立ち上がった砂月がじりじりと距離を詰める、自然と後ずさる足、とんと背が壁についてもなお砂月は俺の目の前へにじり寄った。至近距離で見上げればあまりの身長差に少し首が痛い。見下ろす瞳の冷たさに無意識ながら息を飲むと彼はまたひとつ眉間に皺を刻んだ。
「那月は弱い人間だ、でも最初からあそこまで弱かった訳じゃねえ。元々繊細ではあってもそれなりに強い心を持っていた那月が、俺が現れてから弱さのライン引きをどんどん変えていった」
「……頼ってた、って言いたいのか。那月はお前のことなんて知らないんだぞ」
「無意識下で認識してたんだよ、だからこそ少しのことで心を痛めては俺にサインを送ってた」
 那月が語った夢の話、彼は正体が分からずとも物足りなさを感じていると言った。そうだ、いくら那月であっても本来なら夢は夢だと割り切っていたはず。あんなに気にしていたのは夢であると信じることに違和感を覚えるほど、彼の中で砂月の存在が大きくなっていたからじゃないのか。たとえ姿かたちは分からずとも頼る存在が居ることに気づけないほど鈍い人間ではない。
「じゃあ、そこまで分かっててなんで消えるようなマネしたんだよ」
 それは疑問というより責める声音に近かった。那月のことを誰よりも心配し、守ると決めた砂月がなぜ突き放すようなことをしたのか。砂月は眼鏡を外すと、まるでその向こうに那月を見ているかのような瞳で握り締めたレンズをじっと見つめる。
「チビ、雛鳥はいつまでも親鳥に頼りっきりで羽ばたけると思うか?」
 砂月の口から唐突に出た言葉は、那月を連想させる。俺より年上のあいつ、音楽に愛されいつだって生き生きとした彼は一方で誰よりも子供から抜けきれぬ部分を抱えている。
「今の那月は俺に何もかも頼りっきりなんだよ、それじゃ強くなれやしねぇ。俺は那月のことを守ってやりたいと思っていても、いつまでも傍に居られる保障なんてどこにもねぇんだ」
「……だからわざと、突き放したのか。お前が居なくなっても平気なように」
 砂月は握り締める手に力を込める。今にもフレームが曲がってしまいそうなほどミシミシと音がして、けれども次の瞬間には大切なものを包み込むかのようにもう一方の手でそっと撫でた。
「てめえがあんなこと言ったから、那月は頼る対象を俺からチビにすり替えた。でもてめえに俺と同じだけのものを求められるほど図太くない、だから内に抱えるものがどんどん膨れ上がっちまってる」
 寂しそうな声音だった。自分から離れようと決めたくせに、自分以外を拠り所にする那月に憤りを感じているような、それこそ砂月の方が那月を求めているような。ある日那月を守るためだけに生まれた砂月、彼の存在意義は那月があるからこそのものだ。砂月はいつまでも傍に居られる保証はないと言ったが、それはつまり那月が彼のことを必要としなくなった時に真の意味で消えてしまうのではないか。だとすれば砂月、お前は。
「……なぁ、もしかしてお前本当は消えたくないんじゃないのか?」
 本気で突き放すのなら隠れもせず那月の中からとっくに姿を消していただろう。身を潜めても那月を見続けていたのは心配しているからだけじゃない、自分じゃ気づかぬ内に那月を守るという立場に安堵を覚えていたんだ。那月に頼られることへの安堵、存在していることへの安堵。那月が望んだことにより生み出された砂月は決して無から構築されたのではなく、那月の一部から作り上げられたもの。自分のひとかけらを消したいなんて那月が思うわけないし、彼の思いを受け継ぐ砂月もそんなこと思うはずがない。
 現に今、砂月の瞳には目いっぱいの涙が滲んでいた。じわりじわりと湧き出る透明なそれはやがて堰を切ったように両の瞳から零れ落ちる。ぼろぼろ大粒の涙を流す砂月に那月の姿を重ねて、そういえば彼の涙なんて久々に見た、なんて思った。
「砂月、お前の方こそ那月のことなんも分かってねーよ」
 とめどなく溢れる涙をそっと指先で拭う。あたたかで綺麗な涙だった。
「お前が離れようとするから那月、あんな悲しんでたんじゃねーか。でも一度だって泣きはしなかったよ」
 たとえ少しずつでも彼は強くなろうとしていたんじゃないのか。傷つきやすい心、剥き出しに晒されてそれでも零れ落ちることはなかった負の思い。耐えて耐えて、それでも疲れた心で誰かを頼ってしまうのは悪いことなんかじゃないよ。
「だから砂月、泣き止めって」
「るせ……泣いてねぇ」
「お前って結構強情だよな……」
 伸ばした袖口でごしごしと顔を拭ってやれば、ずず、と鼻水すすりながら砂月は小さく肩を揺らした。砂月のことをずっと怖いと思っていたし今後もきっと変わらない、けれども彼の中にこんな一面があるのだと分かってほんの少しだけ、仏頂面の泣き顔が可愛く見えた。眼鏡を握り締めたまま目尻をこする砂月、ようやく呼吸も落ち着いたのか口を開いた。
「……つーか、だるい。体が重てえ」
「は?」
「体調悪いんだよ、早退したのはそういう理由」
「はぁ!?」
 急にバランスをくずした砂月の体を支えてやれば、服越しに触れた体は異様なほどに発熱していた。言われてみればさっきから顔が赤い、まさか風邪でもひいたのか。重い体をなんとかベッドまで引きずると彼は力なくぐったりと横たわった。
「那月があれこれ考えすぎたからな、知恵熱が……」
「知恵熱とか子供みたいなこと言ってんじゃねーよ!馬鹿かお前は」
 ばさりと強引に布団を掛ければ分厚い毛布の下で、ぐえっ、なんて醜い声が聞こえた。大人しく寝てろよと視線を送る、間からそっと出された目は不本意そうにこちらを見やった。
「お前も俺を頼っときゃいいんだよ、その方が那月も安心するんじゃねーの?」
「……考えといてやる」
「はいはい、お粥でも作ってやるから寝てろ」
 背を向けさっさとキッチンへ向かう、砂月が何か言いかけたような気もしたがすぐに寝息が聞こえてきたため尋ねるタイミングを失ってしまった。小鍋を出して火にかける、粉末状のだしでも入れようかと思ったが恐らくこの調子なら当分眠ったままだろう。ていねいに昆布から煮出してやるか、トッピングは何がいいか、なんて少し楽しくなってゆくのだった。


「ん……いい匂い」
 日も傾き始めた頃、ベッドで眠っていた那月がようやくもぞもぞ目を覚ました。料理の下準備を終え課題を進めていた俺に気づいたのか、おはよう翔ちゃん、なんてまるで朝みたいな挨拶をされる。
「お粥作ったんだけど食えるか?」
「はいっ!なんだかお腹空いちゃいました」
 目をこすりながら笑う那月はふと何かを探すように周りを見渡す。どうしたのだろうか、その様子をしばらく眺めているとようやく小さな違和感に気づいた。いつだって那月の瞳はレンズ越しにあったのに、今は両目に輝く緑がとても真っ直ぐで鮮やかな色を放っている。
「あ、ありました」
 枕元に置かれた眼鏡を見つけて、いつもの那月が戻ってくる。蜂蜜色の柔らかなくせ毛は寝相のせいか余計にくせが付いて、あっちこっちへと毛先が遊んでいた。まだ熱が下がっていないのだろう、僅かに赤らむ頬。それでも浮かべられた表情はとても晴れやかなものだった。もそもそと立ち上がってキッチンへ向かう、保温したままの小鍋を再び火にかけ蓋を取れば途端にだしの香りが鼻先をくすぐった。
「あ、そうだ翔ちゃん」
 背後からの声に振り向かず、なんだ、とだけ返事をする。
「お昼、一緒に食べられなくてごめんね」
「いーよ別に、また明日食えばいいだろ」
 それより今はこっち、と熱々のお粥をテーブルへ運ぶ。つらいだろうにベッドから這い出た那月は今にもとろけそうな笑顔で、美味しそうですねぇ、なんてうっとり呟いた。茶碗によそって少し冷ましてやると彼はトッピングの小皿を手に、早く食べたいとでも訴えるような視線をこちらに注ぐ。
「那月、口あけろ」
「はーい」
 トッピングも何もない、出汁と卵の味だけがするお粥をスプーンで掬う。軽くふうふうと息をかけ那月の口元に持っていくと彼は嬉しそうにぱくついて、ほっこりする味ですねと満足そうな笑みを浮かべた。
「翔ちゃん翔ちゃん、次はおかかで食べたいな」
「自分で食えよ」
「はーい」
 てっきりもう一口とせがむものだとばかり思っていたため、不自然に茶碗の中のお粥を掬ったまま手が止まってしまう、それに気づいた那月は「あれ、もう一回あーんしてくれるの?」なんて笑ってまた口をあけた。無意識に甘やかそうとする思考が働いているのかもしれない、砂月はいつまでも親鳥が付きっ切りのままではいけないと言ったが、ここまでくるともう一種の喜びなのかもしれなかった。頼られて、せがまれて、それを良しとする気持ちが少なからず俺にはあるし多分きっと砂月だって抱いていただろう。つまるところ那月が独り立ちできない要因があるとすればそれは……
「翔ちゃん」
「あーはいはい、熱いから気をつけろよ」
 スプーンを那月の口元へ運べば彼はわずかに息を吹きかけてからぱくりとくわえた。そのまま彼の長い指がスプーンを奪い取ったのを少し寂しいと思う、自分から言い出しておいておかしな話だが。那月は色とりどりのトッピングを乗せては楽しみながら食べ進めていた。小鍋の中のお粥も半分に減った頃、のんびりと彼が口を開く。
「こうやって誰かに看病してもらうの、そういえば初めてです」
「……お前、いっつも一人だったのか?」
「うーん……体調を崩しても気づいたらベッドの中で、身体も楽になってるんです。辛いって思う前に治っちゃうなんて不思議だよねぇ」
 くすくすと可笑しそうに笑う那月、一方で俺はその現象に対する心当たりがあった。最初こそ彼は砂月を自発的に頼っていただろう、嫌なことや辛いことの区別はついているその上で、心の傷をこれ以上広げないためにとすべてを砂月に委ねていた筈だ。それを「辛い」とすら思う間もなく入れ替わっていたのは他でもない砂月の単なる甘やかしに決まっている。
 そうなんだ、つまるところ子離れが出来ていなかっただけの話。いつまでも頼られていると、頼られたいと思い続けた砂月が独り立ちしようと決心した、それだけの話なんだ。
「ほんっとお前ら、見ててもどかしい」
「なにか言いました?」
「いや、なーんも」
 もぐもぐと最後の一口を咀嚼する那月のなんとも間の抜けた表情に、安心する。きっとこのひと月ずっと、彼は言いようのない不安に駆られ続けていただろう。別れの準備も出来ないまま雲隠れしてしまった大切な存在を、夢の中でまで探していたくらいだから。きっとそろそろ終わる頃だよ、と確信めいた思いを抱く。食事を終えて再び眠りについた那月の寝顔をぼんやり眺めながら俺はただただ二人のことだけを考えていた。誰よりも近いようで誰よりも遠い那月と砂月、いつだって表裏一体だった二人がこれからは別の道を歩む。砂月が見せまいと隠してきた嫌なことを目の当たりにした時、果たして那月はどうなるのだろうか。いつだって夢の世界で微笑むようなその笑顔が少しでも曇ってしまわぬように、泥の沼で迷子になる彼に手を差し伸べてやるくらいはいいだろうか。
 すやすやと立てられる寝息、口元は緩やかな弧を描く。艶やかな唇に手を伸ばすと触れた指先からじわり、熱が伝わった。自然とやわらかなそこへ自らの唇を寄せて、けれども吐息が交わるだけで触れ合うことはなかった。那月の気づかぬ間に、なんてそれこそ砂月と同じだ。俺とあいつは違う、だから違うやり方で守ってゆきたい。俺の隣でいつまでも那月が強く微笑んでいてくれるその時に、改めてするのだって遅くはない。
「……ま、気長にやっていきますか」
 ふわふわの蜂蜜色をくしゃりと撫で付けると彼の口から小さな笑みが漏れた。手の感触がくすぐったいのか、はたまたいい夢でも見ているのか。後者であればいい、そう願いながら那月の隣、枕元に顔を伏せて暢気にうたた寝なんてするのだった。

END.









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