臆病者の恋(マサレン) 1




 互いにいがみ合っていた。幼い頃にはそれなりに仲も良かったが、今の俺たちは間違いなくあの頃と違ってしまった。ルームメイトとは形ばかりで、二人きりになって交わす言葉など用意されていない。形式だけの挨拶をかろうじて交わすだけ、そうして入学からもう数ヶ月それなりに二人うまくやっていた。
 筈、だった。
「あっ……!」
 男はみな野獣などとよく言ったものだ、聖川真斗はやけに冷静な頭でそんなことを思う。目の前ではかろうじて羽織る程度にシャツを纏った神宮寺レンが、真斗に乗り上げて息も絶え絶え一心不乱に腰を上下させている。己の欲棒を挿す真斗もまた、何かに取りつかれたような激しさで彼の中を突き上げた。セックスや性行為なんて生易しい響きじゃない、もっと本能的でどろどろとしたそれは"交尾"と言い表わすのが相応しい。
「も……ムリ、出る……」
 真斗の腹に両手をついて、その身を大きくしならせながらレンは欲を吐き出す。飛び散る白濁がぱたぱたと真斗の胸を汚し、生温いその感覚に彼の眉間には僅かな皺が刻まれた。
「早すぎるぞ神宮寺」
「うるさい、お前も早くいけよ」
 深く挿された性器は未だ熱を保ったままで、気だるい身体をくたりと預けながらレンは浅く腰を揺らす。元からぎちぎちに咥えていたそこは絶頂を迎えたことでいっそうきつさを増した。数回出し入れを繰り返したのち真斗も後を追うように、ドクンと大きく震わせながらレンの中へと吐精する。先程までとは別の熱さに満たされレンは一瞬、はぁ、と恍惚の表情を浮かべたが見下ろす真斗の瞳とかち合うや否や取り繕うような、年上としてのプライドを意識した強気な顔でハッと短く笑った。
「なんだ、言う割にはお前だって長く持たないな」
 腰を上げれば熱を失った真斗の性器がずるりと抜け出る。遅れるように太腿をどろりとした液体が伝って、シーツに小さなシミを作った。
「……先にシャワーを浴びてこい、後は俺がやっておく」
「へぇ、珍しく優しいもんだな」
 茶化すが真斗は一切気にする様子もなくてきぱきとテッシュでシミを拭った。面白くない奴、ぼそりと呟いてレンはシャワールームへと向かう。ついさっきまでは互いに熱を分け合っていたというのに。淡白さは何も今に始まった事じゃないが最初はあんなに初心な反応を見せていたというのに。お前のそういう所が俺は、"−−−"。真斗のどこか癪に障る態度に、ぎり、とレンは奥歯を噛み締めシャワーコックを捻った。

 同室として共同生活を始めてしばらくは、まるで互いを空気のように扱っていた。真斗はいつだって規則正しく自らの決めたサイクルで行動し、レンは好き勝手に自らのテリトリーのみで動いていた。会話を交わすのなんて学園内でも限られた時だけ、部屋の中では驚くほど互いに不干渉だった。そんな日々を続けて数ヶ月経ったある日の夜。それは恐らくどちらにとっても忘れられない、印象深い日となる。
『聖川、起きてたのか』
 日付も変わって大分経つ頃、女の匂いをちらつかせてレンは"いつものように"帰宅した。普段なら真斗はとうに眠りについている時間だが、あいにく今日は片付けるべき課題に追われ遅い就寝となった。そうして寝支度をしているところに戻ってきたレンは悪びれた様子もなくすまし顔で部屋へと入る。
『…随分とお楽しみだったようだな』
 厭味のひとつでも、と思った真斗の口から出たのは何のひねりもない言葉だった。レンはさして気を害した風でもなく、鬱陶しい程伸ばされた前髪を掻き上げて真斗を見やる。
『まあね、お陰で睡眠時間がないのはちょっと困りモノだけれど』
『自業自得だろう……おいお前、アルコールを飲んだな』
 目ざとく様子を悟った真斗がまるで説教でもする時の声音で問いただす。顔つきこそ普段通りであるもののレンの頬はほんのりと赤みを帯び、心なしか足取りも幾分ゆったりとして覚束ない。流石に指摘されてまで誤魔化し通す気もなく、レンは開き直ったような目で笑った。
『たしなむ程度さ、レディと夢を見るにはこのくらいが丁度いい』
『ふざけた事を抜かすな』
『所詮お前には分からないよ、なにせ聖川はまだお子様だ』
 普段ならさらりと流すはずの真斗はその時どうしてかレンの言葉に食って掛かった。
『ほう、じゃあお子様の俺にも分かるようご教授願いたいものだな』
『……お前、なにイライラしてるんだ』
『別に苛ついている訳ではない』
『うそつけ』
 上着をばさりとベッドへ投げて、レンは鬱陶しそうに真斗を見やる。冷たい視線を向けられるのは慣れていたが、今日の彼にその目をされるのはどこか癪に障るな、と僅かに顔をしかめた。手荒くタイを引き抜き胸元を寛げる。真斗はレンの様子をじっと、まるで監視するような目つきで見ていた。ベッドにどかりと腰を下ろし、レンは煩わしさを隠そうともしない表情で見上げる。
『なんだよ、言いたい事があるなら言えばいいじゃないか』
 じとり、互いの内を探り合うかのような視線が交わる。逸らす事すらままならない真斗の厳しい目つきに一瞬、年上である筈のレンはたじろぐ。それでも目を逸らしたら負けだ、なんて子供のような思考が頭の中では渦巻いていた。
『……したのか』
『ん?』
『アルコールを入れなければ出来ないような事を、したのか』
 真斗は表情の一切を変えずそんな言葉を吐き出す。一方のレンはどう答えるべきか考えあぐねていた。これは尋問なのか単純な好奇心なのか、区別が付かない。真斗の性格を考える限りは前者だろうが、果たして馬鹿正直に返答する必要なんてないのに有無も言わさぬ迫力が彼にはあった。
『……知りたいの?どんな事したかって』
 たっぷりの間を置いてレンの口から出たのは、まるで挑発するような言葉だった。申し訳程度に留められていたボタンを乱暴に外す。胸元や脇腹につけられた赤い印を見せ付けるようにばさりとシャツを脱げば、僅かに彼の表情が崩れる。それが不快感かもっと別のものなのかは図りかねた。痛々しい程にきつくつけられた鬱血を、レンは愛おしそうな手つきでなぞる。まるで真斗の向こうにその痕をつけた人物でも重ねて見るような、剥き出しの性を意識させる視線。
『付け合ったんだ、お互いにね。レディの白く柔らかな肌にはとてもよく映えるんだよ』
 レンの手はゆっくりと下へ下へ滑ってゆく。嫌でも情事を思わせるその様に、真斗は汚らしい物でも見るような苦々しい表情を浮かべた。自分から聞いたくせに、と声を出さずにくすくすと笑う。どんなに素知らぬふりをしたって真斗も男なのだ、いずれは経験するだろうそれから目を背けようとしたって無駄なのに。レンの心はおかしくてたまらない気持ちになる。
『ほら、やっぱり聖川はお子様だ』
 ハッ、と小馬鹿にしたような笑みを零してレンは手の動きを止める。真っ直ぐ見つめる瞳はゆらゆらと不安定に揺らいでいた。ああもう、これだから子供は。早く寝ろよと溢してレンはシャワールームへと足を向けたが、寸で伸びてきた真斗の手に腕を捉まれる。
『なに……っ』
 背丈も肉付きも大して変わらない男に、抱きしめられる。柔らかさなど一切ない両腕がレンの身体を包み込んで、何するの、どういうこと、うろたえる唇からは抵抗の言葉が漏れ出した。
『お前はどうして……』
 真斗はまるで搾り出すような声音でぽつりと零す。その言葉の意図を掴めないまま、どさり、レンの体がベッドに沈んだ。
 そこからはもう、一方的なものだった。何度かレンの口から悲鳴が上がり、その度に真斗は悲しい瞳で彼を見つめけれども決して行為を止めることはなかった。ひどくたどたどしい手つきのようでいて、本能の赴くまま荒々しい熱でレンは抱かれた。痛みと恐怖ばかりでちっとも気持ちよくなんかない、そんなセックスだというのに絶頂の瞬間肌を撫でる真斗の指先はとても、優しかった。それだけがレンにとっての救いだった。
『……すまない』
 事が終わって一息つく間もなく真斗が発したその言葉にレンは、別にいいよ、とどこか上の空で返事する。肌やシーツに飛び散る精液を申し訳なさそうに拭う真斗の指先はさっき触れたあの指先と同じはずなのに、急に冷たいものに見えてレンは、ああそうか、とぼんやり思う。
 真斗も所詮、"彼女たちと同じ"なのだ。



 神宮寺レンは愛を知らない子供だった。早くに母を失くし、親である父は彼にたいそう冷たく当たった。二人の兄たちはいつだって遠くで見ているばかりで、唯一近くに居てくれる執事に対してもどこか壁を感じていた。
 そんなレンにとって聖川真斗は、初めて気を許せる、友達だった。年も近く同じ大財閥の息子である真斗との距離が近づくのは時間の問題で、子供ながらに「これが愛なのか」とレンの心にあたたかな想いが芽生えた頃、急に二人の仲は拗れる。それは二人が、互いの境遇を理解すると同時だった。
 レンは欲しがらない子供だった。望んだところでその希望を受け入れてくれる相手など居なかったし、そもそも伝える術を持ち合わせていない。だから友達である真斗を失う事だって、はなから決まりきっていたのだと頭では理解していた。それでも欲しい、友達が、気を許せる相手が、愛が。いつだって心の奥底ではひたすらにそれだけを望んでいた。
『きみ、一人なの?』
 ある時レンは、女性に声を掛けられた。滅多に足を運ぶことのない夕刻の繁華街、周りには警備の者も執事も居ない。普段のレンならパーティー以外で見知らぬ人間と言葉を交わさぬはずなのに、どうしてかその時、彼は女性に言葉を返していた。
『一人って言ったら、どうする?』
 まだ十分子供であるレンのどこか憂いを帯びた笑みに女性は、質問に質問で返さないで、とくすくす笑う。その表情にレンはどこか安堵を覚え、もはや何も考えることなく彼女の後をついていった。

 だが、女を知るにはあまりにも早すぎた。

 愛を知らない子供はただ一時の快楽を悦びと錯覚した。己を求める声音、身体、そのあたたかさの中にこそ望んでいたものがあるのだと思い込んだ。そうして優しさをくれる女性たちと幾度も夜を重ねるようになり、いつしか行為に溺れていった。
『愛してるわ』
 彼女たちから発せられる言葉はいつだって甘美で、たとえ皆が同じ言葉を同じように口にしてもレンにとっては大切な言葉に違いなかった。親や兄弟にも言われたことのないそれが、それだけが、レンの心を支配する。自然と女性に対しての接し方も身につき、益々彼女たちとの時間は濃厚なものになっていった。満ち足りた時間だった。
 それも、長くは続かなかったが。
『早乙女学園……か』
 手渡されたパンフレットには学園長である男の写真と広大な敷地の写真が印刷されていた。その写真を見てレンは、ああここは檻なのだ、とぼんやり思う。決して抜け出せない檻に閉じ込められ、愛を求めることも叶わず、神宮寺の名に利用されるだけの滑稽な存在。それでもレンは少しも悲しいと感じなかった。何をしたって振り向いてなどくれない父に、せめて利用されるだけだとしても己を意識させられるのならば。
 愛に飢えた子供は少しだけ、捻じ曲がっていた。

 そうして早乙女学園の生徒となったレンは早々に、望みもしない相手との再会を果たす。
『どうしてお前が……』
『それはこちらの台詞だが』
 決して広くはない、けれども学生二人が住まうには十分な広さの部屋に居た男と正面から対峙したレンは、まるで裏切り者を見やるかのような瞳で相手を見据えた。青味がかった艶やかな髪と物静かな佇まいはレンの知るその人物とは少し違って、けれど紛れもなく、かつての友の姿だった。
『……久しぶりだな、神宮寺』
 漠然と、もう二度と会うことはないだろうと思っていた真斗との対面にレンは言葉を失う。次いで、彼の他人行儀な「神宮寺」という呼び方にレンは少なからずショックを受けていた。かつてはあんなに懐き懐かれ、ある種の愛を育める相手だと思っていた真斗の態度にようやくレンは流れた月日の重さを感じ取る。
『"ルームメイトとして"宜しく頼むよ、聖川』
 レンの口からは自然と、そんな言葉が飛び出た。早々に壁を作る言葉に真斗は怒る様子も悲しむ様子もなくただ、ああ、と返事する。それが二人の今後を決定付けるものとなった。

 恋愛禁止の校則を当然のように破るレンを、最初こそ真斗は嗜めた。だが一向に聞き入れようとしないレンをいつからか彼は見て見ぬふりするようになった。それなのに。
 いっそ殴られた方がレンにとっては、はるかにマシだった。こんな事を続けて何になる、ただのふしだらな男であるだけだ、そう叱咤された方が、良かったのだ。中途半端な優しさを伴って求められた身体は幾度の夜を越えても真斗を忘れようとしない、レンにとってそれは何よりも耐え難く、許せない事だった。
 幼いあの頃の時間が、二人の間を繋いでいた想いが消え去ってゆくようだった。レンは思い出に縋り付くような性格ではなかったけれど、それでも真斗と過ごした時間は彼にとっては特別だった。たとえ関係が抉れてしまってもその一時、真斗を想い真斗に想われていたあの頃の思い出はレンにとってまさしく心の拠り所であったのに。真斗と身体を繋げた瞬間、レンの心は彼を"今まで身体を繋げてきた女性たちと同じだ"と見なした。
 そう、愛を知らない子供をまるで騙すように、甘美な言葉で誘惑した彼女たちと。事が終わればいとも容易く離れてゆく彼女たちと。レンにとっては一時でも愛を感じられるのならそれでよかったのだが、心が傷つかない訳ではない。背け続けていたその事実、彼女たちは偽りの愛を与える代わりにレンの身体を利用しただけに過ぎない。無理やりに抱いた真斗の行為と果たして違いなどあるのだろうか。
 愛を求めるあまり、その行為に対するレンの見方はすっかり捻くれてしまっていた。捻くれた心と身体で真斗と繋がって、そうして思うことはただひとつ。利用されるだけの身体ならいっそこちらも利用してやればいい。女性たち相手にそうしたように、身体を差し出す代わりに、愛を。
 抵抗はあった。同性同士で、相手は年下で、本来なら組み敷くはずの男である自分がどうして組み敷かれているのかとレンは幾度後悔したか知れない。そもそも求める愛だって真斗から与えられたためしなど一度とてないのだ、それなのに何度も、時には自ら求めるように身体を繋げる。今日だって誘ったのはレンの方からだった。

「……どうしてこうなるかな」
 シャワーのコックを捻れば熱すぎるほどの湯がさあさあと流れる。狭い浴室はたったそれだけで湯煙が充満し、たちまちレンの視界を奪った。頭からシャワーを流せば酷使した体には少々熱過ぎたようで、肌がひりりと痛むのも構わず浴び続けていると唐突に浴室のドアが開かれた。
「神宮寺」
「わっ……なんだよ聖川、びっくりする」
「すまない」
 レンは思わずシャワーを止めて真斗へと向き直る。一糸纏わぬ姿であるにもかかわらず一切の恥じらいを持たないレンとは対照的に、同じく何も身に着けていない真斗は気まずそうに視線を床へと落としながらおずおずと口を開いた。
「その、体は大丈夫か?いささか無理をさせてしまったような気がして……」
 真斗は時々、過剰なまでにレンの体を気遣う事がある。行為の最中はお構いなしといった様子で荒々しく抱くというのに、まるで正気にでも戻ったようにそんな事を言うものだからレンは面倒臭さすら感じていた。割り切った関係なのだからそういう部分も、もっとシビアでいればいいのに。下手に気遣われるたび互いの距離がひどく曖昧になってゆく気がして、レンは思わず苦虫を噛み潰したように眉根を寄せた。
「ご心配どうも。別にこの程度、わけないさ」
「そうか……邪魔したな」
「入らないんだ?」
 ドアを閉めようと背を向ける真斗の腕をレンがしかりと掴む。なにを、と戸惑う真斗をよそにレンはけろりと笑ってみせた。
「お前だって早く流したいだろう、折角だし一緒に入ればいいじゃないか」
「一緒にって……」
「今更、恥らう必要なんてないだろう」
 念を押すように発せられたその言葉は互いの関係を改めて意識させるようで、真斗はますます気まずそうに視線を泳がせる。それでも観念したのか足を踏み入れれば、狭い浴室では驚くほどに密着しあう肌と肌。再びコックを捻れば立ち上がる湯煙に真斗は少しだけほっと胸を撫で下ろした。自分が浴びたように真斗の頭からシャワーをかけてやろうかと持ち上げたレンは、しかし考えるように一瞬手を止め温度を調節する。レンに比べて遥かに白い真斗の肌はわずかな熱でも赤くなる、そんな体にこの熱さは酷だろう、と捻りながらはたと何故自分が真斗を案じねばならないのかうだうだとレンは悩むのだった。
「……はい、シャワーどうぞ」
「ああ、すまない」
 真斗の視線は相変わらず定まらない。ボディーソープを泡立てるレンの一挙一動にすら気まずそうな表情を浮かべるものだから、童貞じゃあるまいしとレンはおかしそうに笑って、そうかと気づく。直接聞いた事はないが恐らく真斗にとって、レンが唯一肉体関係を持った相手だ。そのレンは行為前も終わってからもいつだって一人でシャワーを浴びる。こうして誰かと二人で浴室に、なんて真斗にとっては初めての出来事で、きっと身構えもなにも上手く出来ていないのだ。いくら同性とはいえ体の関係を持った相手とこんな場面、動揺して当然か。スポンジに山盛り作った泡を弄びながらレンはまるで悪戯っ子のような表情を浮かべる。
「……聖川」
「な、んだ」
「洗ってあげるからこっち向きなよ」
「は……?」
 唐突な一言に動揺する真斗を気にも留めずレンは泡をぺたぺた真斗の背に塗りたくる。両の手のひらで撫でるように広げてゆけば、慌てた真斗の手からシャワーヘッドが大きな音を立てて落ちた。幸い浴槽の中へ落ちたそれはざあざあと湯を流すばかりで、辺りには相変わらず充満する湯煙。ちらと振り返ればレンの瞳はとても楽しそうに細められている。
「神宮寺……そういうのは、いいから」
「そういうのって?もしかして聖川、変な想像でもしてるのかい?」
「なっ……」
 反論する間もなくレンの手のひらは遠慮なしに真斗の体を弄ってゆく。ぴたりと肌を密着させ背を、腕を、脇腹を、腹部をと滑ってゆく手に最初こそ戸惑っていた真斗だがいよいよ下の方へと近づき始めればレンの手を掴み恨めしそうに振り返るのだった。
「……楽しんでいるだろう、神宮寺」
「さあ?」
「とぼけるな」
「ただの親切じゃないか」
 くすくすと笑うレンはしかし、楽しむ、という真斗の言葉を頭の中で反芻する。言われてみれば確かに、どう反応すべきか困る真斗相手に楽しんでいた。それは珍しいというよりも懐かしさの方が大きい、この学園に来てからというもの真斗を前にレンが楽しさを感じたことなんて今まで一度もなかったのだ。悪戯を仕掛けるなんてそれこそ、幼少の頃以来だろうか。恨めしそうな真斗の瞳が不思議そうに揺れる頃、レンは諦めたように「もうしないよ」と笑ってするりと手を離した。
「まったくお前は……」
 窘める真斗の表情は心なし柔らかい。案外本気では怒っていないのやもしれない、珍しい事もあるもんだとレンはじっと真斗を見つめて、それから浴槽に落ちたままのシャワーヘッドを手に取った。泡まみれの体を流してやろうと向き合うレンの肩にふと真斗の手が伸びる。シャワーからは相変わらずさあさあと湯が流れている、立ち込める湯気のせいで頭がくらくらしそうなほど熱い。真斗の手に強く引かれると同時、それ以上の熱がレンの唇に重なった。
「んっ……」
 ゆったりとした口付けだった。散らばる声も生まれる吐息もすべて大事に大事に飲み込むような、どこまでもたおやかな口付けにレンは思わず目蓋を閉じる。深く絡む舌が口内を滑るたび、火傷のようにひりりと舌先が疼く。それでもレンは口付けを受け入れ、真斗はより深く強く、唇を求めた。それは刹那の出来事だったか永遠にも似た時間だったか、やがて離れた互いの唇からは色のついた浅い吐息が幾度か吐き出される。
「……すまない」
 呼吸も整わないうち真斗の口から発せられたのは、もはやレンにとっては聞きなれてしまった謝罪のそれ。何に対する言葉なのか、尋ねようと開くレンの唇はけれども微かに震えるだけで音を吐き出す事はなかった。レンの手に握られたままのシャワーを取って、互いの泡を流し終えると同時真斗は背を向け浴室を静かに出ていく。一人残されたレンは長い髪から雫を滴らせて、誰にも聞かれない言葉をぽつり零すだけだった。
「……謝るなら最初から、するなよ」



 聖川真斗は自己を表現しない子供だった。親の敷いたレール上を歩むことに何ら疑問を抱かず、良くも悪くも真っ直ぐな生き方をしてきた。幼い頃唯一といってもいい友人のレンと共に過ごした時はそれなりに自分の感情や欲求をぶつける事もあったが、仲違いをしてからというものすっかり己の殻に閉じこもるかのようになった。それでも感情の起伏に乏しいという訳ではなく人並み、いや人以上に繊細な心を育んできたが、厳格な父を前に自分を表すことなど到底出来やしなかった。それは父にとってさぞかし"理想的な息子"であったろう、事実真斗は父の思い描く通りに成長していた。
 だがある日、自分の人生が紙切れ一枚の価値しかないのだと知ったとき、真斗はおよそ初めてと言ってもよい程に父へ対し自己表現をした。その時偶然出会った"音楽"に触発されたのもあるかもしれない、兎にも角にも真斗は十数年生きてようやく自分の想いを素直にぶつけるという術を知った。
 だからといって決して荒くれたりはせず、今まで以上に勤勉に、誠実に学園生活を送っていた。送る筈だったのだ。
「……もう十一時、か」
 広い部屋、呟く言葉を聞くのは自分ひとりしか居ない。廊下へと続く扉を見つめて、その視線を離して並べられた二つのベッドへと向けた。片方のベッドの主は今、この部屋に居ない。恐らくあの布団に温もりが宿るのは日付を過ぎてからだろう、それは学園生活が始まってからもうずっと毎日のように繰り返されている事だった。
「……今日も帰ってこないつもりか」
 独り言は空しく散ってゆくばかり、真斗のため息は日に日に色濃くなってゆく。同室であるレンの顔を思い浮かべて、けれども上手く思い描けないのは何故かと思案する。ここの所まともに顔すら合わせていないのだ、無理もない。いっそこのまま忘れてしまえるならどんなに楽だろうか、真斗はわずかに奥歯を噛み締めた。

 幼い頃の真斗は文字通りレンを慕っていた。一つしか歳が変わらないのに自分よりどこか大人びた印象のレンをまるで兄のように思い、それでも対等な親友として、いつだって彼の隣で笑みを浮かべていた。その関係が崩れたのは互いの家柄の所為で、初めは大切な親友と離れるつらさに枕を濡らす毎日だった。それでも現実を受け入れるようになるのはあまりにも早く、レンとの時間はまるで遠き日の思い出として大事にしまいこんでしまった。それからの数年、時が経つにつれレンを思い出すこともなくなった。だから思いもしなかったのだ、音楽を目指した先でまさかそのレンと再び出会うことになるなんて。
『……久しぶりだな、神宮寺』
 昔のように"レン"と、親しげに名を呼ぶのはどうしてか憚られた。目の前に現れた男は紛れもなく神宮寺レンだったが、真斗の思い出に眠る無邪気な笑顔を向け合っていたあの頃の神宮寺レンとはもはや違っていたし、それは真斗の方にも言える事だった。あの頃は知らなかった互いの関係を知っている今、レンにどんな態度を取ればいいのか正直真斗には分からない。そうして他人行儀に神宮寺と呼んだが当のレンは僅かに表情を強張らせるだけで、昔のことについては何も触れてこなかった。
『……ルームメイトとして宜しく頼むよ、聖川』
『ああ』
 互いの関係が白紙に戻った、そんな気がした。

 あの日からもう数ヶ月が経過して、思ったことはまさにその通りであったと実感し始める頃には真斗の中に言いようのないもやが燻っていた。必要最低限の会話しか交わさず文字通りただのルームメイト。加えてレンは毎晩のように遅くまで夜遊びに出歩き、そのだらしのない生活態度が真斗にとっては非常に許しがたいものであった。学生の本分を全うすることもせず欲求にだけは忠実で、神宮寺レンとはこんな男だったかと落胆すると同時に少し切なくなる。
 自分はレンに対して一体何を、求めているのだろうか。真斗自身のことなのにそれはひどく曖昧で答えの見えない疑問だった。
「……あれ」
 考えを振り切るように課題を終わらせ、就寝の支度をしている所にレンが帰宅する。久々に顔を合わせた男の顔を見やり、こんな顔だったか、と真斗はぼんやり思った。
「聖川、起きてたのか」
 すまし顔で横を通り過ぎるレンは気のせいか真斗にとって、寂しそうなものに見える。幼い頃にも再び顔を合わせたあの日にもなかったその表情にますます真斗の中でのレンが曖昧になっていった。ふと鼻先をくすぐった香りに眉をしかめる。いつもレンがつけている香水と、恐らく女性物であろう甘い香りに混じってひどくつんとしたものがある。
「お前、アルコールを飲んだな」
「たしなむ程度さ、レディと夢を見るにはこのくらいが丁度いい」
「ふざけた事を抜かすな」
 よくよく見ればふらふらと覚束ない足取り。未成年の癖にアルコールを、と思うより先にここまで危ういレンの姿に一抹の不安を覚えた。そんな真斗の気も知らずレンは熱を孕んだ瞳で笑う。
「所詮お前には分からないよ、なにせ聖川はまだお子様だ」
 その一言がやけに気に障った。今まで昔のことを忘れ他人行儀に過ごしてきたくせに、自分のことをさも知っているかのように語るその態度にひどく苛立ちを覚えて真斗は思わず食って掛かる。案の定レンは迷惑そうな、不機嫌そうな瞳を真斗に向ける。なにをイライラしてるんだ、指摘される事すら腹立たしい。俺はお前の事をこんなにも気にしているのに、本当は忘れてしまいたいのに、お前は俺の気持ちを微塵も考えやしないくせに。
 女性との情事を語るレンの態度も言葉も視線もすべてが真斗にとっては苛つかせる材料で、この感情の正体が何であるのかその時になってようやく真斗は気づく。それはあまりにも突拍子もないことのようで、決まりきっていた感情のようでもあった。
「……もう、早く寝ろよ」
 暫く真斗と対峙していたレンはふいに腰を上げその場を離れようとする。向けられた背中が急に小さく見えて、真斗は思わずレンの腕を捉まえその体を抱きしめた。
「なに……っ」
 ほとんど無意識だった。今ここで離れてしまえばこの先もずっと二人の線は交わらない気がした。小さいと思って抱きしめた体は思っていたより大きく、けれども華奢だった。幼い頃はたった一つしか違わないのに永遠に抜かすことが出来ないと思っていた背丈も今では大差ない。兄のように慕い、憧れすらしたレンは今の真斗にとって驚くほど脆く思えた。
「聖川、離せ、何するの……」
 腕の中でレンはうろたえたように声を漏らし、けれどもがく腕の力は弱い。何するなんて真斗自身が尋ねたかった。どうしてこんな事をしたのか、訳も分からずそれでも離してはいけない気さえした。ここで離してしまえばレンはまた、真斗の瞳を見ることもなく遠い場所へと消えてしまう。それが女性の所であろうと何であろうと真斗には関係のない話だと叱咤されるだろうに、どうしても許せない。頭の中には嫉妬の二文字が漠然と浮かび上がった。
「お前はどうして……」
 どうしてこんなに脆い体を女性に差し出すんだ。毎晩のように、お前はこの身に何を刻み込もうとしているんだ。そんな事を繰り返すからお前はこんなにも寂しそうな瞳をしているんじゃないのか。
 どうして俺は、お前の事が気にかかるんだ。
「なっ……」
 衝動的に押し倒した体はいとも容易くベッドに沈む。無防備にさらされた首筋の跡にまるで噛み付くように唇を寄せればレンからは僅かな悲鳴が上がった。強く吸い上げると元々付けられていた赤い印は更に深くその存在を主張する、途端に真斗は己の中に眠る熱が高まってゆくのを感じた。
「聖川、やめろ」
 抵抗の声は震えていた。忘れようとしても忘れられなかった幼い日のレンが目の前の姿と重なる。あの頃決して涙を滲ませることなどなかった、強さと自信に満ち溢れてきらきらとしたレンと同じだとは思えぬ悲しそうな表情に欲情しているのだと気づいたときには、もう遅い。
「やっ……!」
 男どころか他人の肌を撫でるなんて真斗にとっては初めての事だった。薄い胸板には柔らかさなんて微塵もありはしない、それでも触り心地は悪くなかった。アルコールのせいだろうかレンの体は熱く、触れる真斗の指先も徐々に熱が増してゆく。荒い呼吸を繰り返す真斗の下でレンはただただ下唇を噛み締めていた。
「神宮寺」
 名前を呼べば反応は示すが決して真斗の顔を見ようとはしない。噛み締められた唇を指先でなぞるとレンはびくりと目蓋を瞑って、けれどその隙間から瞳を覗かせることはないまま薄く唇を開いた。強く噛み過ぎた唇に色が戻る頃、真斗はそっと唇を合わせる。最初は触れるだけのそれもやがて貪るように激しく変わってゆき、飲み込めない唾液がつうと口の端から伝ってレンの首筋を濡らした。その唾液すら求めるように舌を這わす真斗は頭のどこかで、もう戻れないとぼんやり思う。今までの必要以上に干渉し合わない関係にもかつてのような親密な関係にも、冷静な自分にももう、戻れない。
「ひじりかわ……」
 整わない呼吸を繰り返しながらレンは言葉を吐き出す、どこか助けを求めるような声音だった。それでも衝動を抑えることは出来ず、真斗の手は性急にレンの服を脱がしてゆく。とうとう何も纏う物がなくなってようやく諦めたようにレンは目の前の人物へと視線を向けた。悲しそうに揺れるのは見下ろす真斗の視線か、それとも彼の瞳に映る己の姿か。判断もつかぬままレンの視界は濃紺に染まった。


 慣れない腰使いはレンの体に負担をかけたようで、行為の最中彼の体はずっと強張ったままだった。経験のない真斗にとっては痛みを軽減させてやる術も思いやる余裕もまるで頭になく、終わった瞬間になり初めて一方的に求めてしまったことを後悔する。互いの体やシーツに飛び散る精液をティッシュで拭いながら、謝罪の言葉を思い浮かべては今更手遅れだと一人落胆していた。
「……すまない」
「別にいいよ」
 レンは背を向けて強がりの言葉を吐く。そう、強がりなのだ。今にも泣き出しそうなほどに涙を滲ませたレンの表情が真斗の網膜に張り付いて、一向に消えようとはしない。なのにレンは強がりを言う、突き放されているようで寂しいが自分の行いを思えばそれも仕方ないのだと真斗は一人納得する。
「シャワー、浴びてくる」
 逃げ出すように部屋から出てゆくレンにかけられる言葉なんてなかった。はぁ、と真斗は盛大なため息を吐き出してベッドに寝転がる。シーツにはまだレンの温もりと香水の香りが残っていて、本当に致してしまったのだと改めて実感しては思わず頭を抱えそうになる。いっそ罵られた方がまだ気持ちに整理がついたものを、レンはどうして強がるばかりで文句のひとつも零さないのだろうか。悶々と考えるばかりでは埒が明かず、いっそ頭でも冷やそうと立ち上がり浴室へ向かった。
「あ」
 考えることに夢中ですっかり忘れていたが浴室には当然、レンの姿がある訳で。がちゃりと開けた先、シャワーを浴びるレンは振り返ると同時に意地の悪い笑みを浮かべた。
「……なんだ、まだ満足できないのか?」
「いやっ……すまん、邪魔したな!」
 慌てるようにドアを閉める。いくら男同士とはいえ、というか先ほどまで欲情していた体を目の当たりにして落ち着けるほど真斗は出来た人間じゃない。心臓はうるさいほどに鳴り響いて、背後で流れるシャワーの音さえも掻き消す勢いだった。大体なんなのだ満足って、あいつはそういうことを平気で言ってのけるから余計こっちは戸惑う訳で……ぶつぶつと独り言を呟く背後でレンの笑う声が、微かに聞こえた気がした。


「マサとレンさぁ、最近仲いいね」
「えっ……」
 真斗の隣に腰掛けて弁当のから揚げをもぐもぐと咀嚼しながら、クラスメイトの音也は唐突にそんな言葉を発する。その向かいで本日の学食目玉であるイカ墨のパスタをくるくるとフォークに巻きつけながら、同じくクラスメイトである那月が楽しそうな声音で、そうですねぇ、と笑った。
「前はレンくん、僕たちのクラスに来ることなんてありませんでしたよね」
「廊下ですれ違っても二人だんまりだったからさー、正直ちょっと寂しかったんだよ」
「すまない」
「マサそこは別に謝るところじゃ……まぁいいや」
 弁当に入っていたピーマンをどこか嫌そうな表情で一口かじって眉をしかめながらも、音也は真っ直ぐ真斗へと顔を向ける。
「とにかくさ、二人がちょっとでも仲良くなったのが俺は凄く嬉しいんだ」
「そ、そうか……」
 にこりと笑顔を浮かべる音也に、まさか自分達の関係が気づかれているのではと一瞬だけ真斗は焦りを見せる。音也は時々びっくりするほど鋭く他人の考えを言い当てる時がある。育ってきた環境のこともあるのだろう、他人の表情にはえらく敏感だ。それは那月にも言えることで、二人が急にこんな話を始めるものだから真斗としてはひやひやと生きた心地がしない。だが二人は単純に真斗とレンを好いており、その二人の仲が良くなったことがとにかく嬉しくて仕方ないといった様子で他意はないようだ。
「……というか、そんなに仲良く見えるのか?」
「うん、だって今日なんて夜はどうするんだーとか話してたじゃん」
「もしかして一緒にご飯食べるんですか?」
「まあ、そんなところだ」
「やっぱり仲良しです!」
 心底嬉しそうに笑顔を浮かべる那月達の様子に、真斗はそれ以上何も言えなくなる。確かに以前より会話が増えたしレンの夜遊びも減った、些細なことで口喧嘩をするのは相変わらずだがそれだって以前よりはぐんと少ない。だが仲がよいかと尋ねられてもどうも素直に頷けない。
 体を重ねればその分だけ、不自然に近づく距離。間違った関係だと理解しているはずなのに断ち切ることも出来ずもう二ヶ月近くが経っていた。その事を二人が知ったら果たして、今と同じ笑顔を向けてくれるのだろうか。漠然と浮かび上がる疑問は真斗の心を少しだけ弱くする。
「あ、そろそろ昼休み終わっちゃうよ。急ごう」
 急かす音也の声も、今の真斗にとってはどこか遠くで響いている気がした。


 午後になるにつれ崩れだした空は、放課後になるころにはすっかり雨雲で太陽を隠してしまった。片手に本を抱えた真斗はじめじめとした空気の中、重い足取りで図書室へと向かう。普段はそれなりに賑わう図書室も雨の放課後である今はすっかり閑散としていて、だが静かに読書をするにはもってこいかもしれない、と重い扉を開けながら真斗は思う。手にしていた本を返却ラックに並べ、早速次に借りる本を探しにその足を本棚の森へと向けた。
 音楽の学園らしく専門分野の本が大量に並んでいる学園内の図書館だが、一般書物も定期的に新しいものに変わる。真斗はまず新規入荷の本棚を眺め、とりわけ目ぼしい本が見つからず仕方なくお気に入りの古書棚へ移動する。入学以来足しげくこの図書室に通っているがそれでも卒業までにはとても全てを読みきれる気はしない。膨大な量の本に囲まれるのは真斗にとってはそれなりに楽しく、しかし新しくお気に入りの作家を発掘する気力はないため結局いつも同じ棚ばかりを眺めてしまう。作家順に並べられた古書の背表紙を撫でるように触れながらさて今日はどれにしようかと思案する。先週はミステリー、その前は旅情ものを借りたのでたまには恋愛ものもいいかもしれない、なんて一人微笑みながら眺めているとどこからか女性の声が微かに聞こえる。
「……ね、だから……」
 どうやら誰かと会話をしているようで、こんな奥まった場所に並べられている本を気に入る女子がいるとは中々渋いな、なんて感心する。が、どうも様子がおかしい。最初は友人とどの本を借りるか話でもしてるのだろうと思っていたがそれにしてはなんというか、声音がやけに色っぽい。おまけに女性の声に混じって時々男の声も聞こえる。低く響くその声音はどこか心地よく、どうも覚えのある声のように聞こえた。いけないとは分かっていつつも自然と声の方へ体が向いてしまう。近づくにつれ男女の会話は鮮明に聞こえだした。
「言っただろう、今夜は無理さ」
「なんでよ、先週だってそんな事言ってたじゃない」
 二人は真斗に気づいていないのだろう、時々親密そうにじゃれ合いの吐息を漏らしながら尚も言い合いを続ける。本棚の隙間からそっと覗く、背の低い本の合間に女性のしなやかな髪が見えたところで真斗はようやく、覗くような真似をしてはいけない、と己の行いを恥じた。仕方なく別の棚で本を探そうと背を向けると同時、女性は一際甘い声で男にしな垂れかかる。
「ねぇレン、お願い」
 女性の髪を梳く細長い指が見える。撫でるように肩を抱く手首の頼りなさは紛れもなく神宮寺レンのもので、真斗は思わず息を呑んだ。確かに以前より夜遊びは減った、それでも時々女性ものの香水を纏わりつかせて帰宅するレンに気づくたび真斗は得体の知れないもやが広がりゆくのを感じていた。改めて目の当たりにしたその事実はいっそう真斗の心を弱くしてゆく。二人の楽しげな会話も耳に入ってこない、その場から離れようと自然と止まる呼吸、反して激しく鳴り響く鼓動がうるさい。足音を立てぬよう気を張り詰めるのに精一杯で、本を借り忘れたことに気づいたのは真斗が寮の自室に戻ってからだった。










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