回遊魚にはなれない(マサレン)




ひどく寒い朝だった。
薄く差し込む光はまだ夜が明けきっていないことを告げている。
晒された頬にはまるで突き刺すようなしんしんと冷たい空気。思わず震え上がる身を毛布でぎゅっと抱きしめた。
静かな朝の気と共に、すう、とか細い呼吸が聞こえる。
部屋の中、自分とは異なるベッドで眠る男の方向をぼんやりと見つめれば彼がその身に掛ける布団はゆったりと上下を繰り返していた。
穏やかな横顔は普段以上に清廉で、こいつは眠るときまで無駄に姿勢がいいんだなと思う。

「まさと」

ぽつりと名を呼ぶが、彼はぴくりとも反応しない。
もっとも意識のある時になんて口には出来ないのだ、眠っていてくれなきゃ困る。


「真斗」

もう一度、今度ははっきりとした音で名を呼んだ。
相変わらずすうすうと規則正しい寝息が聞こえる。カーテンの隙間から差し込む光は先ほどより僅かに明るさを見せていた。
肌触りのよい毛布で身を包んだまま起き上がる。素足で踏みしめたフローリングはじわりと熱を奪っていった。
ひたひたと聖川の眠るベッドへ近づく、床を引きずる布の音は静かだった。
枕にふかく頭をあずけて眠る彼の顔を覗き込んだ。真っ白なシーツに手をつけば途端にくしゃりと幾本もの皺が寄って、何だかいけない事をしている気になる。

「真斗」

間近での呼びかけにようやく閉じられた瞼がひくりと反応を示す。
一際大きな呼吸と共にゆったり開かれた瞳は、暗がりで見ているというのにすっと透き通った美しさがあった。
彼はしばらくぼうっと虚ろな目つきで長い睫毛を瞬かせていたが、眼前に人の顔があったことに驚きをなしたか意識が覚醒すると共にびくりと身を捩った。

「なっ……にしている、神宮寺」
「はは、聖川も寝起きは案外ぼんやりしてるもんだね」

思えばこの男の寝姿を見ることは多々あれど寝起きを観察するなんて初めてだった。
普段は自分が起きるよりも遥か前に身支度を整えて部屋を出てゆくものだから、今日はなんとも珍しいものを見た事になる。

「こんな時間にお前が起きるなんて……何か用でもあるのか」
「別に、ただ目が覚めたから暇潰しに聖川の寝顔でも見てやろうって思っただけさ」
「悪趣味だな」
「とっくに知ってるくせに」

聖川はこちらに背を向けるようごろりと寝返りをうつ。
ぽかりと一人ぶん空いたベッドに躊躇いもなく入れば清潔なシーツもふかりとした布団も、僅かに温もりが残されていた。
他人の熱に包まれるような感覚は、けれども嫌いじゃない。

「神宮寺、このベッドは二人眠るには狭すぎて適わない」
「自分で空けたくせに」
「お前が入りたそうな目をしていたから、仕方なくだ」

ぴたりと密着した部分からじわじわ聖川の熱が伝わる。
普段は体温が低いように見える分、あまりの熱さに少なからず驚かされた。
もぞり、布団に深く潜り込んで背に額を寄せる。

「……真斗」

自然と名を呼んでいた。
聞かれていたって構わなかった。ただ何となく口にしなければ、たおやかなこの時間も温もりもすべて夢のように消えてしまう気がした。
腰に手を回し、ぐっと引き寄せる。厚く着込まれた着物の合わせから手を差し込めば、さらりとした肌が指先をくすぐった。
首筋に鼻先を寄せる、鼻腔をくすぐるのは女性達のような甘さとは違ってひどく男性的な香りだった。
今までベッドの中で抱き寄せた体は皆やわらかで華奢だったのに、今抱きしめている体は細くこそあれ無骨さの目立つものだった。
清廉潔白で生真面目な、穢れも知らないような年下の聖川がいつの間にか男として成長していた事実に、どうしてかほんの少し鼓動が早まる。

「神宮寺、寝惚けているのか」

呆れたような、どこか戸惑うような声音で呼ばれる。
もぞりと聖川がこちらに体を向ければ信じられないほどの距離に彼の顔があった。
見慣れている筈のその顔はけれども普段より幾分か柔らかに感じられる。
暗がりの中ただただ聖川を見つめていた。
彼の瞳は何かを伝えようと揺らぐが、それでも黙ったまま俺を見つめ返していた。
やがて細い聖川の指が、つ、と頬を撫ぜた。
ひどく熱かった。鼓動は一向に静まる気配を見せることなく相変わらず早いままでいる。

「……神宮寺、朝もまだ大分早い。もう少し眠ろう」

言い聞かせるような優しい声音と頬を撫でるあたたかさに、どこか安堵を覚える。
そっと目を閉じれば聖川の指先が唇に触れた。
何度か繰り返すように撫でられ、そのくすぐったさに思わず声が漏れる。

「聖川、それじゃ寝付けないよ」
「すまない」

自分の笑い声にくすくすと彼の笑みが重ねられる。
ず、とシーツの擦れる音がしてしばらく後にやわらかなものが唇に触れた。
温もりの残る布団よりも頬に感じた指先よりも、熱くて熱くてたまらない。ただ何となく目を開くのは躊躇われて、じっとその感触を享受していた。
ちゅ、と微かな音を立ててやわらかなものが離れてゆく。それをほんの少しだけ寂しいと感じてしまうのは自分の与り知らない弱さだ。
ならば失ったその熱をもう一度求めてしまうのも、すべて弱さのせいだと言い訳したって許されるだろう。
少々着乱れた聖川の着物をきゅっと引けば、再び柔らかな感触が唇に降り注ぐ。
気づけばあんなに騒がしかった鼓動はいつの間にか落ち着きを取り戻している。どこまでも穏やかだった。

まさと、呼びかけは声にならず飲み込まれてしまう。
代わりのように彼が俺の名を呼んだ気がして、けれども微睡みかけている意識ではそれが真か夢なのかすら分からない。
できれば夢であれと願う。
再び目を開けたときに見る聖川はきっと普段通りのどこか澄ました表情で、俺はきっと今朝彼が見せた優しい笑顔も温かな熱も忘れてしまう。
それでいいんだ、それが俺達のあるべき関係なんだ。
そうして呪文のように俺は、夢の中で何度も何度も真斗の名を繰り返すのだった。



END.









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