「さて探偵君」

 パイクはホームズに語りかけた。

「きみも知らない《肖像画家》の顧客の話をしよう。今年の二月の話だ。さる貴婦人が彼女の肖像画の対価として、夫の家に――それはもう古くからつづく名門の家に代々伝わる家宝のダイヤモンドの首飾りを請求された」
「首飾り?」

 ワトスンは眉を寄せた。

「これまでも現物を要求することはあったのか?」
「一度もなかった。我が国の紙幣と金貨以外は認めなかったくらいだよ」
「なるほど。確かに、ディーラーが変わった可能性はありそうだな」

 ホームズは無言だったが、灰色の瞳には鋭い光がよぎった。
 パイクはつづけた。

「そして今回、《肖像画家》は、ある御方の肖像画の対価として、三十カラットのブルーダイヤモンドをあしらった首飾りを要求している。皇太子殿下のご結婚にあたり、女王陛下が皇太子妃殿下に贈られたものだ」
「無茶な」

 ワトスンは憤りを通り越して呆れた。そして案じた。不可能な要求を突きつけてくるとき、敵の真の狙いは別にある恐れがある。時として、それは表向きの要求以上に悪い事態を引き起こす。
 ホームズは小首をかしげて、ワトスンを見た。

「なぜ無茶なんだ?」
「《肖像画家》に渡すわけにはいかないだろ」
「なぜ?」
「なぜって、本気で言ってるのか。まずブルーダイヤモンドはダイヤモンドのなかでも希少で非常に高価な――」
「炭素の塊だ」
「――だとしても! とびぬけた高熱と圧力という特殊な条件下で、美しく価値ある宝石に変じたんだ。くわえて女王陛下から皇太子妃殿下への贈り物だ。王室の権威と品格を担う宝物とも言える。とうてい値がつけられない代物だ。さっきパイクが言った”一線”を超えている」

 熱弁をふるいながら、ワトスンは夫の家の家宝を要求された貴婦人を思った。彼女にとっても、それは大きく”一線”を超えた請求ではないか。
 ホームズは面白そうに聞いていた。

「なるほど。あなたはそう考えるんだな。参考になるよ。ワトスン、英国紳士の一般的な考え方として、とても。だが未来の国王の身代金なら、まずまずつり合いがとれているじゃないか」

 皮肉たっぷりの言葉だが、身代金は大げさではなかった。
 万が一、王族の不品行極まりない醜聞が暴かれるのなら、国民感情をひどく傷つける。大きな失望を買い、怒りの声が噴き出し、王室の存続を脅かすような事態になりかねない。
 共和主義者たちの王室廃止論は根強くくすぶり続けているのだ。

「家宝のダイヤの首飾りを要求された貴婦人は誰なんだ?」

 ワトスンの問いに対し、パイクは白々とした表情で答えた。

「二月の貴婦人――と呼ぶのはどうだろうね」

 ホームズは冷たい目をした。
 二月の貴婦人に関しては、パイクはあっさり譲歩した。

「オルニー子爵夫人」

 新聞の社交欄で時折見かける名だ。
 若く美しい貴婦人のひとりとして、ワトスンは記憶している。
 パイクがつづけた。

「ペグラム男爵の三女だ。五年前に社交界デビューしたときは、美貌で話題になった。オルニー子爵とは二年前に結婚した。子爵は、ブランドン伯爵の跡取りで、この家には先祖代々伝わるダイヤモンドの首飾りがある。初代伯爵がエリザベス女王から下賜されたもので、伯爵家は《誇り》と呼び家宝にしている。《肖像画家》は夫人の肖像画と対価として、この《誇り》を要求したのだ」
「僕としては、この取引のほうが興味深い」

 ホームズは言った。

「伯爵家に代々伝わる首飾りを、子爵夫人が自由に持ち出せはしないだろう。ブランドン卿が対処したなら、子爵夫人は秘密を夫や夫の家族に明かしたのか。それとも一家が共有する秘密だったのか」
「ブランドン伯爵もオルニー子爵も何も知りはしない。家宝は伯爵家から持ち出されていないのだよ。二月の貴婦人――レディ・オルニーはちょっとしたトリックを使った。求められたのと同じ――、いや、ダイヤモンドの品質は上回るのではないかな。ともかく完璧に等しいイミテーションをつくらせたのだよ。《肖像画家》はこの支払いを受けとりはしたが、別に償いを求めた。現在、《肖像画家》と殿下を取り次ぐ仲介役を務めているのは彼女だ。実は皇太子殿下の、とても親しいご友人でね」

 とても親しいご友人――。
 もって回った言い方だ。
 頭に浮かんだがワトスンは声にしなかったことを、ホームズははっきり口にした。

「なるほど。皇太子の愛人か」

 ヴィクトリア女王の長子にして、後継者――次代の国王たる、皇太子アルバートは、今年四十五歳。若い頃から華やかな暮らしを好み、多くの美女と浮名を流してきた。
 デンマークから美貌の王女を妻に迎え、夫婦仲は良好である。夭折した王子を含めると、三男三女に恵まれた。
 それでも新たな恋は常に皇太子のそばにあった。貴婦人や名の知れた女優、半ば公認の愛人から一夜の恋の相手まで、噂は数知れない。なかには階級の低い女たちもいたし、英国ばかりでなく、国外にも愛妾がいる。
 彼女たちが身の程をわきまえ、皇太子がはめをはずさないかぎりにおいては、皇太子妃も女王ももはや問題視しなかった。
 裏を返せば、王室に泥を塗るような真似はけっして許されない。
 ベーカー・ストリートの探偵たちも、皇太子の許されざる醜聞を防ぐのに一役買ったことがあった。
 五万ポンドを急遽必要とした皇太子が、ひそかに銀行から借りた際、担保にした宝冠にまつわる事件だ。
 皇太子といえども、平均的な貴族の年収の数倍にもあたる大金を何に使ったのか。当時、それは明かされなかったが、ワトスンはおよその見当をつけていた。
 女性絡みの問題の解決金か、あるいは賭け事か。どちらにしろ、派手な遊興の後始末だろうと。だが――。
 宝冠の案件が持ち込まれたのは、今年の二月。オルニー子爵夫人が《肖像画家》と取引をしたのと同じ頃だ。
 家宝のダイヤモンドの首飾りと同等の価値のあるダイヤモンドを贖う資金を、子爵夫人がひとりで調達できるとは思えない。
 “とても親しいご友人”である彼女を救うために、皇太子が五万ポンドを用立てたのではないか。
 パイクは話をつづけた。

「皇太子殿下は、かねてより《肖像画家》の噂をご存じだった。レディ・オルニーから相談を受けると、彼女に救いの手を差し伸べると同時に、悪意ある画家を野放しにしておくのは正義に反するとお考えになった。正体を突きとめ、邪悪な行為を止めるべきだと、私に話をもちかけられた。私がホートン家で、肖像画を目にしたことをご存じだからね。そこで私は、《肖像画家》の作品――レディ・オルニーの肖像画を買いとり、《肖像画家》とのやりとりのなかで情報を集め、もっとも大きな手掛かりである彼の作品を詳細に調べることをご提案した。殿下はおおいに乗り気であられたが、レディ・オルニーは難色をしめした。殿下は優しく諭され、彼女の名誉をきっと守ると誓われた。ブランドン伯爵家の家宝に手をつけずに、《肖像画家》を欺く術を見い出すと」

 そして皇太子は実行したのだ。偽りではあるが、宝飾品としての価値は等しい首飾りをあつらえて、支払った。

「レディ・オルニーは肖像画を手に入れた。この件を知っているのは、皇太子殿下と私だけだ。レディ・オルニーの本心は、彼女以外誰の目にもさらすことなく、絵をこの世から消し去ることだったろうが、五万ポンドの援助のおかげで、破滅から救われたのだし、殿下のほうはレディ・オルニーの秘密はご自身との友情にかかわるものだろうと決めつけてらしたから、あまり頑なに拒むこともできなかったのだろう」
「ちがったのか?」とワトスンは眉を寄せた。
「下絵は先に届いているから、暴露の内容はわかっていたんだよな」
「私が聞き知った範囲では、下絵はごくおおまかなスケッチで、当事者にのみメッセージが伝わるオブジェが書き込まれている」

 パイクの声音がほんのり冷えて、苦々しい気持ちがにじみ出た。

「レディ・オルニー曰く、下絵はすぐに燃やしてしまったし、ショックのあまり記憶も曖昧――失神して倒れてしまった――という、ご婦人の繊細な神経を思えば、ありうるだろうことで、私も反論はせずに聞いていた。信じてはいないがね。ともかく彼女は殿下とともに過ごす別荘で肖像画を受けとることを了承し、私が同席することも認めた。ある条件と引き換えにね」
「条件――」

 ワトスンは思い返した。
 《肖像画家》の署名を一度も見ていないと、パイクは言った。
 目論見通りにはことが運ばず、充分に絵を調べることができなかったのだ。
 おそらくは、レディ・オルニーの提示した条件のせいで。





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