王族か。
 ワトスンは口から出かけた言葉を飲み込み、英国随一のゴシップ屋の秀麗な顔を用心深く見つめた。
 ラングデール・パイクにこの手の問題を持ちこむ王家の人間で、真っ先に頭に浮かんだのは、皇太子アルバート・エドワードだ。
 道徳を重んじる厳格な女王とは対照的に、放蕩者の名を国内外に知らしめ、パイクとはスキャンダルの絆で結ばれている。
 遊び人の殿下が少々やりすぎて問題を起こしたとき、表沙汰にならないようにもみ消し、隠しきれないときはよりセンセーショナルな醜聞を引きずり出して衆目を逸らす。やり方はさまざまだが、皇太子の窮地を幾度も救い、相当の見返りを受けとっている。
 《肖像画家》は、皇太子の秘密のスキャンダルを画布の上に暴きだしたのだろうか。
 ワトスンの顔に、ありありと懸念の色が浮かんだ。
 パイクは口もとに指を当てくすりと笑った。

「きみたちがきっと知りたがるだろうから、先に話しておく。依頼人は皇太子殿下だ」
「面白い」

 ホームズは灰色の瞳をきらりと光らせ、わずかに身を乗り出した。

「《肖像画家》が顧客を選ぶ基準には興味があった。階級という点で、王族というのは特殊なカテゴリーだ。考察に役立つ情報が手にはいる」
「これまでわかっているのは、どういう方たちなんだ?」

 ワトスンはホームズとパイクの顔を交互に見た。
 答えたのはパイクだった。

「アーデンの悲劇を除くと、英国では七人。公爵、伯爵夫人、かつての大臣、牧師、女優、医者、退役大佐の娘。このうち医者と女優は支払いを拒み、おおいに評判を落とし、悲劇的な末路をたどった。国外の件は騒動しか把握していない。自殺未遂と決闘騒動だ。詳しく聞くかね、今?」

 優しく問いかけたようで、わずかに片眉をあげてつくった皮肉な表情が、ワトスンに痛烈に訴えかけていた。
 今でなくてもよいだろう、と。

「先ほども告げたが、きみの相棒もよく知っている事案なのだがね」

 ワトスンは素早く察した。
 悠然と構えてみせているが、ラングデール・パイクは――まったくこの男には珍しいことだが、ひどく焦り気をもんでいる。皇太子の依頼を、早急にホームズに引き受けさせたいのだ。手遅れになる前に。
 《肖像画家》の過去の案件は気になったが、ワトスンは実際的な選択をした。

「いや、話を進めてくれ」

 パイクはちらりと微笑み、うなずいた。

「今回、《肖像画家》が売りつけようとしているのは、殿下の肖像画ではない。別の貴い御方の肖像画だ。そしてこれも先に話しておくが、その御方の名は他言しないとお約束した。きみたちにも明かさない」

 明かさない――、とパイク自身の意思を込めた宣言に、ホームズは鋭く反発した。

「僕たちは、まだあなたの依頼を受けたわけではない。情報の出し惜しみをするなら、話はここで打ち切ろう。互いの時間を無駄にせずにすむ」
「ふむ。きみはそういう考えだとしても、ワトスン君はどうかな。皇太子殿下、ひいては女王陛下の危機を見捨てるようなことはすまいね」

 女王を盾に同意を強いられ、ワトスンは顔をしかめた。

「それはもちろん――」
「もちろん、条件による」とホームズが言葉の先を奪った。
「《肖像画家》に興味はあるが、手持ちの情報を寄越さないなら、あなたの依頼を受けずとも――」
「殿下の依頼だよ」

 パイクがやんわりと訂正し、ワトスンは圧を感じたが、王室への敬意などもたないホームズに響くわけがない。
 ただ正確を期すために言い直しはした。

「殿下の依頼の受けずとも、僕は独自に動くことができる。一切の制約を受けずに自由にね」
「もちろん、そうだとも」

 パイクはにこやかにうなずいた。
 パイクはホームズに対して、寛大な伯父さんのような態度をとりたがる。破天荒な天才の保護者であろうとして、嫌がられることも含めて楽しんでいる。

「しかし、私の話を最後まで聞いてから判断するほうが賢明だよ。きみの知らない顧客の情報を握っているのだから」

 ほんの一瞬だが、ホームズは不愉快そうに口を閉ざした。
 彼はラングデール・パイクという男を熟知していた。この件で譲ることはないと見てとったが、譲歩するのは癪だった。とはいえ話を打ち切るのも惜しい。
 《肖像画家》という謎を解くための駒として利用してしまえばいいと結論を出すと、さっさと聞くべきことを聞いてしまうことにした。

「皇太子に取引をもちかけてきたのが、アーデンの《肖像画家》だという根拠はあるのか?」
「絵を見た」

 パイクは答えた。

「今年の二月、《肖像画家》は皇太子殿下を煩わせる前に、別の顧客に肖像画を買い取らせたのだ。この絵を目にする機会があってね。同じ画家の筆遣いだ。とはいえ、レディ・ホートンの肖像画は、じっくり鑑賞できたわけではないし、二月の肖像画も少々特殊な状態にあったから、確実ではない。画風を真似た可能性も皆無とは言えない。手順は同一だ。郵便で下絵が届き、対価の提示がある。指定の方法で支払いを終えたあと、絵が届く。ただし今回はディーラーが変わった可能性が高い」
「値をつり上げてきたのか?」
「それならきみたちに相談することもなかった」

 パイクは額に手をあて、憂い顔でため息をついた。芝居がかった所作だが、本物の懸念も見え隠れした。

「《肖像画家》についてはその画才ばかりでなく、顧客の見極めについて、私は感心したものだ。経済力の問題も大きいが、人それぞれ、代償に耐えうる心の一線というのがある。それをよく理解していた。たとえばとある牧師は三百ポンドを払い、銀器をいくつか質に入れたが、要求されたのが五百ポンドならどうだろうか。無駄なあがきはせずに、”破滅”の先の人生を選んだかもしれない。イングランド北部に広大な領地を有する公爵は三万ポンドを支払った。むろん、質屋など頼らなかったが、それ以上の額なら買いとるかわりに、私や他の誰かに支払い、醜聞に対処しただろうね。彼はしばらくしてから、ゲインズバラ一点とグルーズ二点を手放したと聞いているよ」

 三万ポンドに比べると色あせるが、三百ポンドとて大金だ。教区にもよるだろうが、牧師にとっては年収と大差あるまい。

「被害者本人から話を聞いたのか」

 “顧客”という言い方を、ワトスンは敢えて避けた。
 《肖像画家》がうまく仕組んだところで、彼もしくは彼女――あるいは彼らは、紛うことなく恐喝者。ターゲットにされた者たちは被害者だった。
 パイクは優雅に肩をすくめ、情報源をほのめかした。

「彼らは、《肖像画家》の顧客に選ばれたことすら認めないだろう。だがたとえば公爵の秘書の愛人は贅沢好きで小遣いの稼ぎ方を心得ていたし、牧師の妹は銀器を取り戻すために資金を募っていたからね」
「絵の受け渡しはどうしている? やはり郵送なのか」

 筆跡や消印など、わずかであれ手がかりがあれば――。
 ワトスンのささやかな期待は、パイクの返答を受けてたちまちしぼんだ。

「絵は馬車で届けられる。四輪辻馬車だ。馬車の席には梱包した絵のみが鎮座している。顧客は絵を受けとり、代金をかわりにおいていくのだ」
「馭者は《肖像画家》の仲間か」
「画家本人だった可能性も含めて、関係者だろう」
「追跡できなかったのか」
「一人の顧客が馬車の馭者登録番号を記憶して調べさせたが、この馭者はほんの一ヶ月務めただけで、《肖像画家》の絵を運んだその日のうちに辞めていた。年は二十代半ばから後半。中肉中背の目立たない風貌の男らしい。このホームズ君が」とパイクはホームズを流し見て、当時の彼の名と組織力を目つきでほのめかしたあと、つづけた。
「探り出した他の顧客の取引日をもとに調査したところ、離れた区域の馬車置場で似たような風体の男が――登録された名は別名だったが、やはり二、三週間務めただけで辞めているのがわかった。その後の足取りは不明だよ」



[ 6/22 ]

[←prev] [next#]
[目次]
[しおりを挟む]



- ナノ -