T 肖像画家 1
九月二十七日の夜、ジェイムズ・モーティマー医師がスパニエル犬とともに、ベーカー・ストリートの探偵事務所を訪れたとき、探偵たちは不在だった。
探偵たち――、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトスンは、メイフェアの高級住宅地、コンデュイット・ストリートのラングデール・パイクの屋敷を訪れていた。
英国の社交界で、ラングデール・パイクの名を知らない者はいない。
彼は社交界きっての情報通で、新聞等に主にゴシップ関連のコラムを執筆している。
本名はセシル・ランバート・ギボン。男爵家の出である。
黒い髪と瞳。口髭を細くたくわえた、気品ある面立ち。流行を取り入れつつもいささか華美なファッションと、皮肉な微笑みや気だるげなしぐさは、探偵たちが通された応接室――中国の陶器や紫檀の置物、日本の浮世絵といった東洋の美を取り入れた耽美主義的な部屋としっくり調和していた。
ワトスンはパイクとは旧知の間柄だ。
仕事方面で助けられることもあった。
しかしあまりかかわりたくはないというのが本音だ。
パイクの能力は高く評価しているが、他人のあらさがしをして、スキャンダルを暴いてコラムに書くようなやり方が気に入らない。
こちらの心のうちを見透かすような目つきや小馬鹿にした態度にも苛立った。
――私の仕事をとやかく言える立場かな?
そんな囁きが聞こえるようだ。
実際、ワトスンは他人の秘密を探り、時に騙し、陥れて傷つけもした。死に追いやったこともあった。
探偵事務所を開くまでの数年間、彼は諜報活動に従事していたのだ。
すべては大英帝国を守るために。
大義名分をかかげてみても、成功させた任務のなかには誇ることのできないものもあった。
ありきたりの挨拶をかわしたあと、ワトスンは、大理石の低いテーブルをはさんで部屋の主と向き合った長椅子に腰をおろした。
ワトスン以上に、パイクとの付き合いが長いホームズは、椅子を勧める声など聞こえなかったかのように、自由勝手に部屋のなかを動き回っていた。
贅を凝らした応接室は、鮮やかな色彩であふれていた。
紅や藍、黄金を基調とした壁紙や敷物、室内装飾品のいささか俗悪な色調を、ウォールナットやマホガニーの美しい家具、白やピンクのダリアの切り花、鉢植えの棕櫚の緑といった自然の色が品よくやわらげている。
ホームズはこれまで幾度もこの部屋を訪れている。それが、まるではじめて目にするかのような熱心さで、あちらこちらを見て回っていた。
暖炉の前に敷かれた虎の敷物を踏みしめ、窓辺の飾り棚に歩み寄ると、長身の探偵はわずかに身をかがめて、黒檀の台座に据えられたガラスの金魚鉢を覗きこんだ。
澄んだ水のなか緑の藻が揺らめき、白玉石に青緑の影を落とすなか、赤い金魚と黒い金魚がゆらゆらと泳いでいる。
彼は、しばらくこの金魚鉢の前から動かなかった。
コーヒーをのせた銀の盆を抱えた執事が部屋に入ってきたときも、カップをテーブルに配し、立ち去ったあとも、金魚鉢を見つめて微動だにしなかった。
ワトスンは眉を寄せた。
天才であると同時に変わり者の友人が、金魚か他の何かをきっかけに、何かしらの考えに没頭してしまったら厄介だ。放っておくと一時間でも動かない。
ワトスンが声をかけようとしたとき、葉巻の端を切りながら、パイクが先に口を開いた。
「金魚が好きなら取り寄せてあげよう」
ホームズは顔をあげて振り向いた。灰色の瞳に冷たい光を浮かべ、そっけなく答える。
「必要ない。好きでもない」
「ではそろそろ、私の話を聞かないかね」
ホームズは軽く眉をつりあげた。
何か言い返したそうだったが、パイクがマッチを擦り、葉巻に火をつけている間に、おもむろに踵を返して長椅子の、ワトスンの隣に腰をおろした。
パイクは葉巻をくわえ、煙をふかした。目を細めてホームズを見つめると、感慨深げな口調で言った。
「きみがワトスンと仲良く仕事をしているのを見るのは嬉しいよ。覚えているかい? 私の幾たびかの助言を。そう、最初はきみがまだこれくらいだった頃に」
パイクが左手を椅子の肘掛よりも少し上あたりでひらひらさせたので、ホームズはつっけんどんに言い返した。
「そんな背丈の時分に、あなたと会ってはいない」
「ふむ」
パイクは小首をかしげ、手の高さを少しばかり上げてみせた。
それでもせいぜい七つか八つの子どもの背丈だろう。
ホームズは冷めた目で、彼の過去を知る数少ない男の笑顔を見つめた。
「気の毒に。早くも記憶力が衰えだしたのか」
「まさか。私の記憶はいつも鮮やかだよ。当時のきみの愛らしさのせいで、実際よりも年若い印象が残ったにせよ」
ホームズの視線はいよいよ冷たくなり、パイクの笑みは輝きを増した。
ワトスンはやれやれと心のうちでため息をつき、コーヒーカップに手を伸ばした。
英国でも有数の優れた頭脳の持ち主たちが、延々と嫌味と皮肉の応酬をつづけるのに、彼はもう慣れていた。
たとえば、諜報員だった頃の上司にして、シャーロック・ホームズの兄、マイクロフトとのやりとりも似たようものだ。
ただパイクを相手にしているとき、彼の友はマイクロフトを相手にしている時ほど刺々しくはなく、時に楽しそうでもある。
天才の無駄遣いという点では等しいのだが。
「何を助言したんだ?」
ワトスンはふたりの会話に割りこんだ。
パイクが顔を向けてきた。瞳をきらりと光らせ――、ネズミを前にした優雅な猫のような顔つきで口を開きかけた。
が、バネ式のネズミ捕りが閉じる勢いで、ホームズがさえぎった。
「用件を話せ」
「用件、か」
パイクはホームズに視線を戻し、気障なしぐさで肩をすくめてみせた。
「きみたち、ふたりとも今日の《デイリー・クロニクル》に目を通しただろうから、私の災難を知っているだろう」
《デイリー・クロニクル》紙は報じていた。
ラングデール・パイクの筆名で知られるセシル・ランバート・ギボン氏が所有する、明朝の貴重な青花皿が半月前に盗まれたという。
オーストリアの青年貴族、グルーナー男爵との激しい競り合いの末に五千ポンドで落札した逸品で、盗難のあった翌日に、若き男爵が早々と英国を出たことをわざわざ記して、疑念を婉曲にほのめかしていた。
「半月前の盗難について調べろと言うのか?」
警察の捜査が行き詰まり、次善策として、探偵を頼るのは不自然ではない。
が、相手がパイクなとると別だ。
何か裏があるのではないかと、ワトスンは疑った。
同じ疑念を抱いたホームズは行動的だった。
「本題に入らないなら帰らせてもらう」
言い捨て、さっと立ち上がった。
「おい、待て」
引きとめたのは、ワトスンだ。
「話くらい聞いてもいいだろう」
ホームズは小さく肩をすくめた。
「話を聞くのはかまわないが、ありもしない盗みについて聞かされるのはごめんだ」
「盗みはなかったというのか」
ワトスンはパイクに目を向けた。
コラムニストは澄ました顔つきで、コーヒーカップを口に運ぶ。
ホームズはうんざりした口ぶりでつづけた。
「競り落とした磁器の真贋はさておき、盗難は嘘だ。僕たちを呼び寄せた本当の理由を隠すためのでっちあげだよ。たとえ家宝が盗まれたとしても、この男は利己的な目的がないかぎり、新聞などで表沙汰にしない。記者が特ダネを掴んだしても、編集長はまず彼にうかがいをたてるだろう。ラングデール・パイクの新聞界への影響力を過小評価しないことだ」
「おやおや」
パイクがわざとらしく声を弾ませた。
「嬉しいね。きみが私を褒めるとは――」
「褒めてはいない」
「では私の青花皿の行方も承知なのだね」
「金魚に興味はないと言ったろう」
ホームズの答えを聞き、ワトスンは腰を浮かせた。椅子を離れて、窓辺の飾り棚に向かう。
金魚鉢をのぞきこみ、真相を理解すると額に手をあてた。
「わざと割ったのか? 贋作……なんだよな?」
金魚鉢の底に敷き詰めた白玉石の上に、青い花の模様を染め付けた皿のかけらが並べてあった。
パイクは銀の灰皿に葉巻をおくと、ゆっくりと拍手しながら微笑みを浮かべた。
「ワトスン、きみの勘の悪さも素晴らしい。どちらもはずれだよ。わざと割っていないし、本物だ。美しいだろう?」
ワトスンは金魚鉢の底の青い模様を凝視した。彼の一年の稼ぎの十倍ほどの値で買いとられたものが金魚の住まいの装飾品と化しているのだ。勘がどうこうという皮肉に苛立つ余裕もなかった。
「ちょっとしたトラブルがあったのだよ。だがこうしてみると、今そこにある姿が以前よりも見栄えがして愛らしい。きみも気に入るいいが」
「いゃ、気に入るも何も……、それはどうとも言えないが、この皿は、俺たちの呼び出しの本題じゃないんだよな」
早々と価値観のずれから生じる心理的な疲労に見舞われたが、ワトスンは顔には出すまいとした。
「その通り、本題は別にある。ああいう記事を出しておけば、私がきみたちを呼んだところで余計な詮索を避けられると思ってね。誰もがきみたちのような名探偵ではない。付け加えると、私はきみたちを褒めているよ。そして」
ワトスンが椅子に戻るのを待ち、パイクはつづけた。
「ぜひとも引き受けてもらいたい。アーデンの《肖像画家》の調査を」
「アーデン? あの《肖像画家》か」
ホームズの不機嫌があっけなく吹きんだ。灰色の瞳をきらりと光らせ、彼は椅子にかけなおした。
ワトスンは眉を寄せた。
「何者だ?」
「きわめて、独創的な恐喝者だよ」
独創的――という単語に賞賛の響きをこめて、ホームズは答えた。
この男にとって、犯罪はゲームのようなもので、解き難い謎をはらんだ事件は極上の贈り物なのだ。
倫理面で非難しても無駄で、かつて彼が犯罪計画を立てる方にいたことを思えば、犯罪を潰す側にいて声を弾ませるくらいはかわいいものだと、ワトスンは思うことにしている――時に複雑な気持ちを抱くこともあったが。
「今のところは唯一無二のタイプだ。モデルにした紳士淑女の姿を巧みな筆遣いで描き出す。彼らの恐ろしい秘密や醜い本性、許されざる罪とともに」
「独創的というよりも、悪趣味な手口だな」
ワトスンは素っ気なく返した。
「効率も悪い。物珍しいだけじゃないか」
「そうとも言いきれないのだよ」とパイクが物憂い声音で反対した。その口もとからは笑みが消えていた。
ワトスンの頭にひらめきが宿った。
「そいつに脅されてるのか?」
「私は代理人だ」
「誰の――」
身を乗り出したワトスンの問いを、片手をあげてさえぎり、パイクはゆるゆると首をふった。
「そうせっつかないことだ。《肖像画家》がどういうモノか、先に知っておくほうがいい。私も素性はまるで知らないのだがね。名も知られていないし、男か女かもわからない。B・Wと署名があるという者もあるが、私はこの目で確かめてはいないし、今後も確認は難しいと考えている。というのも、《肖像画家》の作品はほとんどが破棄されたからだ」
「ずいぶんそいつを恐れているようだが、どれだけ精巧に描いたとしても、創作物だ。たとえ真実を暴かれたとしても、他に証拠がないなら、画家の妄想の産物と言い張ることもできる。脅しのネタには弱いだろう」
「そこが問題なのだよ。ワトスン、いいかね。《肖像画家》は誰も脅してはいないのだ」
「――は? だが恐喝者だと」
「まあ、聞きたまえ。彼――もしくは彼女は脅すわけではなく、一介の画家として取引をもちかけるのだ。その絵を手に入れたいなら、対価を払えと。強要はしない。買い取るか否かは、相手任せだ。あくまで絵画の売買なのだ。ただし買いとらないならば、絵は被害者がもっとも見られたくない者たちに披露されるだろうことを覚悟しなくてはならない。無慈悲な地獄への門が開かれるのだ。とはいえ、ひとりの画家が己の作品のお披露目をしたところで、法的には罪に問われない」
「脅しは脅しだ。屈するくらいなら、名誉毀損で訴えることを勧める。それなら可能じゃないか」
「もちろん可能だ。そのために、被害者は画布に描かれた醜いモノが自分だと認めるばかりか、証明しなければならないが」
皮肉交じりの指摘を受けて、ワトスンは言葉に詰まった。
ホームズは退屈しきった顔つきで、ふたりのやりとりを聞いているのかいないのか、シガレットケースから取り出した煙草をくわえ、マッチを擦った。
パイクは話をつづけた。
「巧妙にも、《肖像画家》は自らの絵がもたらす効果をまず披露した。ハンプシャー、ニューフォレスト郊外、アーデンのホートン館でね。証明したのだよ。彼の描くグロテスクな美は破滅をもたらす真実だと」
《肖像画家》の厄介さ加減が、ワトスンにも飲み込めてきた。小さく息を吐き、姿勢を正した。
「聞かせてくれ。どう証明したのかを」
「一八七九年秋。きみはアフガンに出征中だった頃だ、ワトスン。そう、名実ともにね」
名実ともに――。
パイクが含み笑いして、そう付け加えたのは、ワトスンの表向きの経歴に偽りがあるせいだ。
「そしてシャーロック・ホームズ君」
パイクは微笑みを浮かべたまま、かつて別の名で呼んでいた探偵を流し見てつづけた。
「きみは例の名で暗黒街に深くかかわりあっていた」
例の名――。
ジェイムズ・モリアーティ教授。
犯罪界において一種の伝説であり、畏怖の象徴であり、無でもあった。
モリアーティ教授の存在を実際に知る者は、当時も今も数えるほどしない。
名のみを知る者はもう少し多かった。彼らはその名を怖れ、口にすることすらはばかった。
ただ”彼”というだけで、仲間内では通用した。
そして大半の犯罪者は名すら知らない。知らないまま、”彼”の立てた犯罪計画の駒となる。
ワトスンの友は、富や地位に興味がなく、欲しがることもない。
求めるのは、知的好奇心を満たし、天才の頭脳を活性化させ、退屈を紛らわせるためのゲームだった。
現在、探偵として、彼は犯罪計画を暴き、悪党どもを捕える側に立ち、謎解きを楽しんでいる。
モリアーティ教授だった頃の彼は、悪党の側にいた。彼がゲームと呼んだ犯罪の数々は、ほとんどが未解決のまま迷宮入りした。
気づかれさえせずに完遂した事件も多いはずだ。
大掛かりな犯罪計画は国境を越え、ヨーロッパやアメリカにまで及ぶ。
彼がシャーロック・ホームズの名を名乗ったのと同じ頃、モリアーティ教授の名は、彼の右腕だった男――フランシス・ジョイスが受け継いだ。
以後、その男は伝説であり無でもある、モリアーティ教授の名とともに、裏社会での勢力を拡大している。
パイクはホームズをちらりと見た。
「実のところ、私は、きみのアイデアかと疑いもしたよ。斬新な手段だからね」
「僕は関与していない」
紫煙をくゆらせながら、ホームズは淡々と言葉をつづけた。
「当時、興味を引かれた。ジョイスに素性を探らせたが、わからずじまいだ。絵の腕は確かなようだね。ホートン館の一件のあと、短期間で数名の紳士淑女に絵を売りつけた。相当な稼ぎを得て、ほんの半年ばかしで英国を離れた。パリやウィーンでそれらしき案件があったと聞くが、いつしか話も聞かなくなった。一八八〇年七月、ウィーンの銀行家が最後の顧客か」
「その後、十一月にパリで小さな騒動を起こしているよ。弁護士夫人が傷害事件を起こした。当時、きみにとっては大きな転換期だったから、消息を見失っても仕方がない」
情報力で優位にたったことを誇示し、ホームズの憮然とした顔を面白そうに眺めたあと、パイクはワトスンに視線を戻し、芝居がかった口調で言った。
「ではいよいよ語り聞かせよう。アーデンの田舎地主と若く美しい妻の悲劇を」
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