プロローグ


 子らに告ぐ。
 悪霊の力が高まりし、闇の刻限、ムーアを横切ることなかれ。
                   (1742年 H・バスカヴィル)



 ………………

 一八八六年六月四日深夜、デヴォンシャー、ダートムーアの領主館にて、准男爵サー・チャールズ・バスカヴィルが急死した。
 彼の死は地元に暗い影を投げかけた。
 大きく分けて、三つの理由で、人々の気持ちを沈ませたのである。
 ひとつめの理由は、高潔で慈悲深い紳士であった故人を多くの人びとが悼み、その死を深く嘆いたせいである。
 ふたつめの理由はきわめて現実的なものだった。
 サー・チャールズは大富豪だった。己の得た富を地元の経済や福祉に還元してきた。地元の活性化に役立つ事業を幾つも起こし、既存事業への資金提供も惜しまなかった。慈善団体への寄付はもちろん、近隣に生活に苦しむ者があれば救いの手を差し伸べた。
 人望厚く、次期選挙への出馬も期待されていたのだ。
 しかし彼の死ですべての事業も援助もいったん打ち切られることになった。落胆と失望が渦巻くのも無理ないことである。
 そして残る三つめの理由、それは奇怪な噂――、この地に根付く非科学的、非文明的な古い伝承がもたらす恐怖だ。
 サー・チャールズは高齢だった。持病の悪化が死を招いたのだと公的に診断された。
 しかしバスカウィルの領主館近く、ムーアと呼ばれる荒れ野で暮らすロマや農夫たちは、彼の死が悪魔によってもたられさたのだと信じた。
 荒れ野を跋扈する悪魔の犬を目撃した者たちもあった。
 血生臭い内乱時代に生まれた陰惨な伝説に登場する恐ろしい猟犬だ。
 悪魔の犬は、こうも呼ばれた。
 バスカヴィル家の犬――。
 迷信による風評は一蹴されたと地元紙は主張したが、季節がうつろい、九月に入ってもなお、地元の人間たちはバスカヴィル家の犬を怖れて、日没後にはムーアに出かけようとしない。

(馬鹿馬鹿しい)

 ジェイムズ・モーティマーは心のうちでつぶやいた。

(まったくもって――、そんなことはありえない。ありえない。私は認めない)

 モーティマーは領主館から程近いグリンペン村に診療所をかまえる医師である。グリンペン他、二つの教区の嘱託医で、サー・チャールズの検死を担当し、病死と診断したのは彼だった。
 モーティマーは故人よりもずっと年下だったが、友人であり、遺言執行者に選ばれていた。
 サー・チャールズに直系の子孫はなく、第一順位の相続人は甥のヘンリー・バスカウィルだ。
 ヘンリーは長く行方が知れなかったが、捜索の結果、カナダで農場を営んでいることがわかった。
 九月に入って間もなく、バスカヴィル家の新たな当主から、相続手続きのために帰国すると報せがあった。
 複数回の電報でのやりとりを経て、九月二十七日、若き相続人を出迎えるために、モーティマーはロンドンに赴くことになった。
 出発の朝、支度をすべて終えてから、モーティマーは妻の寝室を訪れた。
 モーティマー夫人はベッドで朝食をとっていた。
 ここ数ヶ月、彼女は気鬱の病にとりつかれて、一日のほとんどの時間を寝室にこもって過ごしていた。
 静かに休みたいという妻の要望を受け入れて、モーティマーは夫婦の寝室は妻に譲って、自身は客用寝室で休んでいた。

「具合はどうだい?」

 声をかけながら、モーティマーは部屋に足を踏み入れたが、妻は答えなかった。
 彼女は白い寝間着にショールをはおった格好で、かさねたクッションに身を沈め、窓のほうに顔を向けていた。
 栗色の髪に覆われた円い頭部は、典型的なケルト人のそれだ。
 人類学博物館にふたりで出かけた帰りに、彼女の頭蓋骨は美しく完璧な標本になるだろう、とモーティマーが称賛したとき、当時はまだ婚約者だった妻は茶色の目を大きく見開いたあと、ふっくらした頬にえくぼをつくって朗らかに笑った。
 愛情深く、優しい女性なのだ。
 しかし今はやつれてしまい、頭骨の美しさを除けは、幽鬼のような風情だ。
 メイドがかたわらにいて、女主人のために紅茶を注いでいたが、モーティマーに気がつくと、ポットをおいて壁際にさがった。
 彼は妻の名を呼び、昨夜告げたのと同じセリフを口にした。

「行ってくるよ。帰りは土曜日になる」

 この日は月曜日。およそ一週間、家をあける予定だ。
 妻は窓のほうに顔を向けたままだ。
 くもった窓ガラスにぼんやり写るモーティマーを見ているのか、それとも庭の植え込みの向こう――、いや、もっと遠く、村の外に広がるムーアに思いを馳せているのか。
 モーティマーの言葉が耳に届いたのかどうかも判然としなかったが、彼がため息を残して部屋を出ようとしたき、彼女は口を開いた。

「あなた。サー・ヘンリーをきっとお連れてしてね。バスカヴィル館に」
「そのつもりだよ」

 モーティマーは答えた。
 それからメイドを手招きで呼び寄せ、白いモブキャップをかぶった白髪まじりの金髪頭を見下ろして言った。

「僕がいない間、奥様に何かあったときは、ミス・デイビズに相談を」

 ミス・デイビスは、モーティマーの診療所の看護師だ。
 二年前に、モーティマーはこの診療所の権利を伯父から買いとったが、ミス・デイビスは伯父の代から二十年近く勤めている。薬剤師の資格ももつしっかり者の職業婦人だ。

「ミス・デイビスは、私が留守の間も、普段通りに仕事をするから、食事やお茶もそのように」

 これもまた、昨日と同じセリフだ。
 おそらく同じメイドに。
 それとも別のメイドだったか。
 家には二人のメイドがいる。
 古参の中年メイドと、最近――といってもいつだったか、雇ったこのメイド。名はアニー。年はいくつだろうか。
 頭の片隅をよぎった疑問は、答えを得ることなく消えた。興味がなかった。家事使用人を取り仕切るのは、妻の役目だ。

「はい。旦那様」

 静かに答え、メイドは軽く膝をおってお辞儀をした。
 
 うっすらと霧のたちこめるなか、一頭立ての軽二輪馬車に揺られ、モーティマーはクーム・トレイシーの駅に向かった。お供は巻き毛のスパニエルだ。
 荒れ野を行く道のりの途中で、バスカヴィル館の前を通りかかった。
 幾つもの巨石が横たわる、わびしい荒れ野に建つ館の歴史は、エリザベス王朝までさかのぼる。
 館は遠い昔の栄華の名残をとどめつつも、一族の長い没落を経て朽ちかけていた。
 外国で富を築き、二年前に凱旋したサー・チャールズは、バスカヴィル家再興の祖となるはずだった。
 モーティマーは敬愛する年上の友の在りし日の姿をしのんだ。
 館が視界の端に消えかけたとき、彼方から荒地を這いあがるような、不気味な犬の遠吠えを聞いた。
 モーティマーはかすかに震えた。

『サー・ヘンリーをきっとお連れしてね』

 妻の声が脳裏をよぎった。
 モーティマーはフロックコートの内ポケットから小さな封筒を取り出した。
 サー・ヘンリー・バスカヴィルに対して、彼は自分一人では判断をくだしかねる問題を抱えていた。
 有益な答えを与えてくれるだろう人物の名が、封筒のなかの手紙に記されている。

「探偵、か」

 本当に頼りになるだろうか。
 手紙を寄越した友人は称賛を惜しまなかった。
 この探偵は犯罪学はもちろん科学にも造詣が深い紳士だという。
 モーティマーは眉間に皺を寄せ、そのひとの名をつぶやいた。

「シャーロック・ホームズ氏」


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