臨也はその日から客間の一つを、自分の部屋と決めたらしい。
といっても荷物を置いている他は着替えをするくらいで、夜は静雄の隣に布団を敷いて眠った。
静雄は何も言わなかった。

朝、目が覚めると台所の釜や土間の不効率さに一々慄いて、それでも静雄がこしらえた料理は残さず平らげる。
料理を手伝う時は、野菜を切るのが臨也で、火加減や味付けはもっぱら静雄の役目だ。
そんな風に時間を費やし、十ほど夜を数えたころだろうか、季節はいつの間にか晩夏も暮れるころあいになっていた。
山の中の家だ。蝉時雨は耳鳴りがしそうなほどひどい。比例するようにここ数日の夏の暑さは異常だった。蝉がいっそう鳴くわけである。
夏の盛りの、終末だった。それが過ぎれば、彼らは死ななければならない。

扇風機もクーラーもないこの家にとって猛暑はたまらない。
静雄は早々に麻の浴衣を着込み、臨也にいたっては甚平姿だった。うらやましく思うものの、静雄では丈が足りなかったのである。初めはそれに不満気だった臨也も、背に腹は変えられなかったのか、すっかり甚平を自分のものにしてしまった。

一日一日が、躊躇うような鈍さで、けれど瞬くように、過ぎていく。驚くべきことに、過ぎた時間は心地よかったのだろう。
見ないフリは互いに決して苦ではなく、ただその時期ではないというように、そっと口をつぐんで互いの背中に隠れていた。
静雄はその日廊下で電話を取っていた。昼が夕方に変わろうとする、一等暑い時間だった。
相手は新羅だ。

『へえ、それじゃあ臨也の奴、すっかりいついちゃったんだ』
「ああ。いま畑で夕食採ってる」
電話口で、噴出す声がした。
『あいつが、畑仕事?天変地異の前触れじゃなければいいけどね!』

もっともだ。
自分だって、池袋にいた頃は想像もしなかっただろう。
携帯かPCのキーを弾いているばかりだった指が、包丁を握り、洗濯物を畳み、畑の野菜に水をやる。
不出来な絵のような違和感だ。
静雄は苦笑した。

電話がかかってきたのはつい先ごろの事だ。臨也が訪ねてきた日の翌日に、一度話した。ひと月のうちにこう何度もかかってきたのは初めてのことだ。多分、臨也と静雄が一つ屋根の下で寝起きしている状況を気にかけているのだろう。
こうなった片棒を担いだのに等しいのだから、当然かもしれなかった。

先日の電話で、開口一番、「…その、……一人暮らしに必要な薬セットを送ろうか?例えば痔の塗り薬とか」と恐る恐る切り込んできた声音は未だに忘れない。多分新羅とて、自責の念から決死の覚悟でいったのだろうが、静雄は死ぬほど恥ずかしくて、電話を握りつぶしそうになった。
それができなかったのが、体に力が入らなかったせいだというのも、一際恥ずかしくて頭が爆発しそうになった。
察した臨也が静雄から電話を取り上げて、なにやら話しはじめたから電話は事なきを得たのである。

今日ようやく静雄本人の口から、臨也の話をきいて安心したのだろう、新羅が柔らかな声で息をついた。
『上手くいってるんだね』
「両方生きてんだから、上出来の部類だろ」
ぶっきらぼうな答えに、新羅が笑った。
笑い声が、沈黙に吸い込まれる。
『でも、そう。寂しくなるね、こっちも』
「寂しい?」
『うん』
新羅の声は、穏やかに何かをいつくしむように深い。
『臨也までそっちにいったら、こっちも大分静かになるよ。もともと厄介ごとしか持ち込まないやつだったからね』
ふと、静雄は息を止めた。

「……その心配は、必要ねえと思うぜ」
『静雄?』

訝しげな新羅の声にかさなるようにして、寝間の方から犬の高い鳴き声がした。
訴えるような声に、首を伸ばして寝間のほうを見る。臨也が縁側にすわり、その横から夢に吠え掛かられていた。
「わるい、新羅。切る」
『え?ちょ、』
返事を待たず、静雄は受話器を置いた。

寝間にゆくと、開いた障子の縁側で臨也が夢をなでていた。夢は甚平の袖口をあぐあぐかみながら、何か不満そうだ。
臨也がここに居つくようになってから、この2人の関係もそれなりに良好だったのに、珍しい。
思いながら近づいた静雄に、夢が気づいた。飛ぶようにして静雄の足元にじゃれつく。頭を押し付けてきて、何かを訴えているようにみえた。臨也を睨む。

「いじめてねぇだろうな」

座ったまま臨也が肩をすくめた。問いには答えず、

「誰からの電話?」
「…誰でもいいだろ」

面倒くさそうな静雄の声には、幾分棘が含まれている。
対する臨也も、草履をぬぐ風をよそおってあからさまに顔を背けたので、お互い様といえばそうだ。

実を言うと、今日の朝に2人は喧嘩をした。庭に逃げた臨也を追いかけ、静雄が投げた物干し竿が風呂場の壁に突き刺さり、見事なのぞき穴が開いたことで、一端の休戦を見たのだが、いまだ終結は見ておらず、この空気というわけだ。この二人にしては珍しい、冷戦といってよかった。
夢が不思議そうに顔を上げて、2人の間を行き来し始めた。
臨也が何気ない風を装い「ふうん、新羅に愚痴でも零してたわけ」とこれ見よがしにいう。相手がわかっていたなら、聞かなけりゃいいのに、と静雄は思う。

「まあいいよ」

ふいに臨也が肩をすくめた。やけにあっさりしているな、と眉をしかめた静雄は、臨也が畳の上に収穫したトマトを放り出したのを見てぎょっとした。
「てめ、食べ物投げんじゃねぇよ!」
「食べ物じゃないよ、それ。腐ってるし」
「は…」
臨也は目を細めてこちらをみていた。こめかみから流れた汗が、耳の側を伝って首筋をなでていく。それを目で追った。
「病気だろ?詳しいことまではわからないけど」
「…野菜って病気にかかるのか?」
「あきれた。そんなことも知らないで野菜育ててたのかよ。生きてんだから体調悪くなんのはあたりまえだろ」

静雄は絶句してトマトを見た。
確かに色も黒ずんでいて、崩れそうに柔らかい。見るからに「食べてはいけないもの」の空気を放っていた。
「はやく対処しないと、他のトマトの木まで伝染するんじゃないの?」
臨也は縁側に腰掛けて頬杖をつく。影になったそこでは表情は詳細にわからない。ただ夏のぬるい風が臨也の髪を優しくかきまぜた。
静雄は暫く困って固まっていた。
野菜が病気にかかることさえ知らなかった男である。
処置方法をしっているはずがない。
畑ですら、そもそも叔父がしていたらしいものを、見真似でしてみせただけだ。
臨也は他人事の顔で、甘がみしてくる夢をあしらっていた。

「なあ、おい。野菜が病気になったときどうしたらいいか…」
「知るわけないだろ」

声は素早かった。
なのに、こちらを見る目の中に意地の悪い色を見つけて、静雄はいや嫌な予感に囚われる。
臨也は唇を吊り上げてこういった。

「よしんばネットか携帯が繋がれば、そんなの一発で検索できちゃうけどさ」

静雄は忌々しげに眉を顰め、舌を打った。

(――やっぱりか)

その話題に、持ってきたかという思いがある。
静雄はそっぽを向く。臨也がムッとしたように言った。

「あのさ、むくれてないで考えろよ。なんでそんな嫌がるわけ?必要だろ、ネット環境」

それだ。
朝の、というか、ここ最近の喧嘩の理由は、臨也の主張によるものが大きい。
つまり、この非文明生活にネット環境を整えるべしと臨也は主張する。しかし静雄は、それをかたくなに拒否してきた。静雄は唸るように答える。

「…いらねぇ」
「なんで。現に今必要な状況じゃないの」
「いらねぇ」
「…っ、あーっそ!じゃあトマト艦隊が全部腐って沈むのをみてろよ。可哀相に、ろくすっぽ育て方もしらない奴に種付けなんかされちゃってさ」

植物なんて、水をやっておけば勝手に育つものだと信じていた。
静雄は臨也の言葉に唇を噛み締めると、不意にはっとした顔になって、居間にかけこんだ。
そこにはいくつか引き出すのある桐の箪笥があり、以前そこから夢たちの食事レシピを発掘したのだ。
箪笥は上から下まで7つの大きな引き出し、14の小さな引き出しで出来ている。
いくつか開いてみた後、静雄はパッと顔を輝かせた。
余人にはわからない程度の表情の変化だが、後ろ姿を見ていた臨也には、架空に映えた犬耳がぴんと立って、尻尾をぶんぶん振っているように見えた。
静雄がピンク色のファイルを開きながらこちらにやってくる。
表紙に『野菜育成法』と記されている。臨也は剣呑に舌を打った。

「トマト…トマト。あった」

臨也をみた静雄の表情に、勝誇った色が現れる。
「聞くまでもないけど、それ」
「叔父さんが書き残した野菜の育て方だ。先人の言葉なんだからこれ以上の情報はねぇだろ」
畳の上に開かれたそれには、細かくトマトの育て方がかかれていた。いくつかに項目わけされ、ご丁寧に図示までされている。
臨也は苦りきった顔でそれをみつめていた。胸がすく。静雄は畳みに胡坐をかきながら唇をゆがめた。
さっそくトマトの病気の項目に目を通そうとした瞬間だ。
臨也の手が伸びたと思えば、そのページを思い切り縦に引き裂いた。

「な…」

臨也が縁側に飛びのく。
驚きが通り過ぎた瞬間に、胸の奥で怒りの炎が音を立てて湧き上がるのを感じた。
「てめ、何しやがる!」
けれど、臨也の顔を見た瞬間、静雄は目を瞠って黙った。驚いた。臨也の頬がわずかに紅潮している。どうやら、本気で頭にきているらしいのだ。

(なんだ…?パソコンがそこまで大事かよ)

ただのわがままにしては、いささか度が越えている。静雄は不快に思うより先に、戸惑った。
けれど彼の所業を思えば怒りを静めるわけにもいかなくて、臨也を睨む。
臨也は一緒に引きちぎった数枚のページをぐしゃぐしゃににぎりしめて、静雄を睨み返した。

「シズちゃん、君さ。この家で叔父さんと同じように振舞って、そのまま叔父さんと同じになるつもりなの」

静雄はわずかに目を瞠る。
「何…」
「違うの?俺には君が、そのまま穏やかにぽっくり逝きたがってるように見えて仕方ないんだけど」
臨也の背中に隠れていた見ないフリが、そっと口を開いたように見えた。静雄の喉が、小さく鳴る。
「俺は、別に…」
「見え透いた嘘つくなよ。それとも自覚がないの」
臨也は鼻で笑った。

「君が、すぐには都会に帰ろうって言う気にならないのは理解できるよ?そりゃあ心の整理も必要だろうと思ったさ。例え鉄みたいな神経してる君でもね。そういう繊細な配慮くらい必要だとおもって俺は何も言わなかった」

赤い目が苛立たしげに眇められる。

「でも今のシズちゃんは、俺が来る前と何一つ変わんないじゃない。臆病な死にたがりのままだ。ネットの事もそれが一番の原因じゃないの?自分が使いやすいようにこの家を変えるのが嫌がっているようにみえる。叔父さんの代わりをしようとしてるように見える」
「……」

静雄はゆっくりと目を伏せる。

「俺は君のものになるといったけれど、それは平和島静雄であって、他人になった君じゃない」

臨也は、逃がすかとばかりに視線を尖らせた。
叩きつけるような口調だった。

「俺は、君が君以外のものになるなんて絶対、許さない。そう思うことすら、俺を侮辱してる」
「……」
「そうは思わないのかよ」

俯いた静雄に臨也が近づいて膝をついた。形のいい膝小僧に夏の濃い影が落ちる。
静雄が何も変わらないのなら、結局臨也がここに来たことの意味が、その程度であるということに他ならない。
全く相手にされない覚悟をしてここにきたとはいえ、やはり自分ばかりが求めているといわれているに等しい状況は、臨也にとって屈辱だと感じるより、むなしく悲しかった。
小さなため息をつく。
臨也が立ち上がろうと膝に力を込めると、察した静雄が顔を上げた。
腕をのばして手を掴む。

「待て、違う」
「…何が?」
「そういう、意味じゃねぇ」

臨也はじっと静雄の目を見て、足に入れた力をぬいた。
話を聞く姿勢を見せた臨也に、静雄はほっと息をつく。

「…そういうつもりじゃねぇんだ」
「うん」
「ただ、ちゃんとけじめをつけたくてよ」
「けじめ?」

静雄は顎を引いて頷いた。
夢が静雄の膝に前足を乗せ、なでろとせがむ。
静雄は目を細めた。臨也を捕まえているのと逆の手で頭を撫でてやる。
視線が、そっと畳を、壁を、襖を、この家を這う。

「ここはなんていうか、お前もいってたみたいに、叔父さんが住んでたまま時間がとまったみたいになってるんだよ。…いや、どっちかっつーと、まだ住んでるみたいっつーか…住んでる時間が、そのまま流れてるっつーほうがあってんな」

臨也は小さく頷いた。
死んだ叔父が、未だに住んでいるような、そのままの穏やかな時間。

「それってよ、多分叔父さんが自分が死ぬのと一緒に、この家の時間を終わらせようとしなかったせいなんだと思うんだよ」

例えば人が死期を悟った時、遺品を整理したり、形見分けをしたり、回りの時間も少しずつ自分と同じように終わらせていこうとする。身辺整理をした家は、故人の臭いをできるだけ細らせ、主人の死とともに一度時間を止めるのだ。
叔父はそういった類の事を一切しなかったのだろう。
そういう空気をこの家からは一片も感じない。
ただ、叔父だけがこの家の時間から、ぷつりと自分だけを切り離し、家の時間だけが変わらず流れている。
静雄は臨也に視線を戻した。
互いににこりともしない、まっすぐな視線がぶつかり合って癒着する。

「おれはこの家の時間をきちんと止めたい。無理やりはやくしたり、別のもんに塗り替えちまうんじゃなくて、家の時間をちゃんと動かして、それで止めてやりてぇんだ」
「……」
「ここを出て行くときは、俺がこの家の時間もつれていく。そう決めた。そうしなきゃ、多分俺はこっから動けねぇんだ」

沈黙が落ちる。
臨也は暫く何も言わずにいた。
けれど、その表情がふいにゆがみ、牙を剥くように歯軋りした。つかまっていないほうの臨也の手が伸びて、静雄の肩を押す。
静雄は抵抗もせず、あっさりと畳の上に倒れた。
臨也の手から何か小さなものが転げ落ち、静雄の視界の隅におちる。

「…ムカつく」

臨也は静雄に馬乗りになって、静雄の心臓の上を右手で押さえていた。

「なんなの…、ぽっと出の男に、どれだけ侵食されてんだよ」

静雄がそんな風に考えるのは、叔父のようになりたいという憧れのようなものが、静雄とこの家の時間を癒着させてしまったからだ。アッサリと捨てて、どこかに行ってしまう気にはならない程度に、静雄は叔父の存在に、この家の時間に親しみ以上のものを覚えている。

静雄のここに、――心臓の時間に、この家の時間が絡んで離れないように、臨也には思えた。

「だから、…だから嫌なんだ。さっさと他の男の臭いなんて消しちゃいたいのに」

そうでなければ、やっきになって、この家から先住者の気配を消そうとなんてしない。
静雄はいまさら気づいたように目を瞬いた。
「それでテレビ入れろだの、パソコン繋げだの煩かったのか」
「遅いよ」
呆れたように目を眇められ、こめかみに青筋を立てたが、

「君がほとんど使いもしないパソコンを、居間の一番目のつくところに置きたかったのに」

静雄には熱烈な何かを告白されたようにしか聞こえなかった。頬に上りそうになる熱を、舌を打って視線を逸らしやりすごす。
そらした先に、夢の丸い尻が見えた。夢はしきりに地面におちた何かの臭いをかいでいるらしい。
小さく透き通った飴色をしている。

「これ」

手を伸ばすまでもない距離に落ちていた。拾い上げてみると、それは蝉の抜け殻だった。
いつか夢が拾ってきたのと同じように透き通り、足の先まで繊細なつくりをしている。
臨也になでられていた夢が、矢の如き速さでこちらに走ってくる。どうやら取り返すために臨也の手を甘がみしたらしい。
静雄は呆れた顔で臨也を見あげた。

「さっき吠え掛かられてたのは、これ取り上げたからか」
「…みてたら忌々しくなったんだよ。いうなれば君のせいだ」
「はぁ?」

臨也は顎をしゃくっていった。

「この家によく似てるだろ」




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