――命の欠けた、美しく生々しい容れ物。
夢は静雄の手の中にあるそれに顔を近づけ、ふんふん臭いをかいでいる。蝉の抜け殻を集めたがるなんて、まるで小さい男の子みたいだ。
夢はやがて抜け殻の臭いにあきて、露になっている静雄の耳の後ろに鼻を突っ込み始め、臨也に追い払われた。

前に夢が拾ってきた奴はどうしただろうと、静雄は箪笥の上に目をやったが、もう見当たらなかった。多分、掃除の際に何気なく棄ててしまったのだろう。
別のものなのに、蝉の抜け殻は以前見たときとまるで同じものに見えた。
命はもうそこにはないのに、細部まで緻密に象られ、本物のように異様な存在感を放っている。
薄くすけるようなボディは、指先をすこし誤るだけで、すぐに砕け散る。さまざまとそれが思い浮かんだ。

「…たしかに」
「何が確かに、だよ。全く腹立たしい」

臨也は深く深くため息をついた。
その表情があまりに苦いので、静雄は逆に面白くて笑ってしまった。臨也がむっとする。

「何笑ってるんだよ」
「いや…まあ、なんだ。嬉しいんだとおもう。多分だけどな」
「……ナニソレ意味わかんないんだけど。っていうか何?素直すぎて気持ち悪いんだけど」

それはお前もだろうが、とはいわず。
静雄は目を細めて、抜け殻を持たない手を臨也に伸ばした。

「なあ」
「…なに」
「確かに俺はこの家の時間につかまったのかも知れねぇけど、別にもう、ここで叔父さんみてえに死にたいわけでもねーぞ」
「へえ?」

露骨に信じない顔色の臨也に、静雄はキレも青筋を立てもしなかった。臨也の頬にかかる髪を、夏の風がしたように、優しくかきあげる。

「信じろよ。さすがに、お前みたいに手のかかりそうなの一匹しょって、他と心中しようとは思わねぇよ」

静雄の唇から、甘やかすように「な?」という声がこぼれた。
臨也は驚愕したように目を瞠り、それから眉根をよせた。頬に、さっと朱をはく。綺麗な唇の隙間から、獣の唸るような声がもれた。
静雄がくっくっと喉を鳴らす。
臨也は真っ赤な顔で目を眇め、小さく舌打ちをした。

「…なんなのほんと、もぉ…っ、ほんっとムカつく…殺したい」

ナイフも取りださず、よく言う。
静雄だって慣れないのだから、この男なんて余計だろう。
いつの間にこんな、息さえ甘ったるい空気を纏っていたのか。
臨也が赤い顔を隠すように静雄の肩口に額を押し付けた。

「…いま、思ったんだけど」
「ああ?」
「熟年夫婦で奥さんに手玉に取られる旦那って、皆こんな感じで徐々に扱いを覚えられていってるんだ。絶対そうだ」
「何の話だそりゃぁ」

何気なく会話をしながら、臨也の髪を撫でる。臨也が何かぶちぶちいってる間、静雄は「こいつの髪の手触り、月島に似てる」と考えていた。
いい年をした男が2人、溶けそうな真夏の座敷に、ぴったりと重なり合って転がっている。
いい感じに気が触れそうな光景だった。指先で、壊さないように抜け殻を弄ぶ。

「……畜生負けるか」
「あ?」

何か不穏な呟きが聞こえた気がして、我に返る。臨也の顔を見下ろせば、大分赤みの取れた頬をして、じっとこちらをみていた。

「ねえ、ってことは、少しずつは変えてっていいってことでしょ?」
「あ?あー…まあな」
「なら、パソコンでネットできるようにだけはしようよ。いきなりテレビ入れろとは言わないからさ」
「あー…パソコンなあ」
「…ねぇ、お願い」

耳元で囁かれて、ぎょっとした。
思ったよりもずっと近く、その声は低い。
嫌な予感がするよりさきに、耳たぶを犬歯で甘く噛まれる。肩がはねた。

「おい…」
「少しでいいから、俺の存在をここに残しておきたい」
「かむ、な…っ」
「少しずつでいい。お願い、入れさせて。シズちゃん、お願い…」
「…っ、わかったからやめろ…っ」

低い笑い声。やった、と耳に流し込むように囁かれて、静雄は臨也をにらみつけた。睨みつけた先の顔が、赤い。

「てめぇもダメージ受けてんじゃねぇよ…っ」
「だってシズちゃんに嘘囁いたってダメージになんないじゃん」

臨也は、勝誇ったように笑った。
捨て身ののみほど恐ろしいものはない。
大人気なく勝ちをとりにいった臨也に、静雄は負けじと視線を不遜なものにした。

「まあいい…セルティとも直接会話できるようになるしな」
「うわぁ、生意気。その理由すげーきにくわない」

半眼になって臨也は唸ったが、少しして「まあいいや」と肩をすくめた。
「なんでもいいさ、この際」
静雄は片眉をあげてみせた。
「随分寛容なこったな」
「大事の前の小事さ。この家にはもっと生きた情報が必要だ。一歩前進したことはなんにせよ喜ぶべきだろ?」
「生きた…?」
臨也は頷いて、静雄の前髪を人差し指に絡めた。

「些細なことでいいんだ」

眼差しが柔らかく、みとめた静雄は落ち着かなげに身じろいだ。
臨也が小さく笑う。

「東京で何があったのかとか、どこのラーメン屋が美味いとか、どっかの芸能人が結婚したとか離婚したとか。どんなくだらないことだっていい」
臨也の指が静雄の唇をたどった。
「素がのんびり屋の君の時間にあわせてたら、君がここを切り離してもいいと思える前に、天国からお迎えがきちゃいそうだろ」
「…んなことねぇよ」
「そう?」
臨也は肩をすくめた。

「ここは、生者よりも死者にちかいせいかな。ただでさえ時間が緩やかじゃないか」

それについては反論はないらしい。静雄は口をつぐんでそっと天井の梁に視線を這わせた。
視線が臨也を通り越して天井に触れたのを感じ取ったのだろう。
臨也が静雄に覆いかぶさるようにして、唇を食う。
意識を奪い返すような、余裕をそぐキスだった。

(こいつ…、開きなおりゃいいってもんじゃねぇ…っ)

あまりに素直すぎやしないだろうか。
いい加減にしろと、涙でにじんだ視界で睨みつけてやれば、もうこちらを覗き込んだ臨也しか目の前にはいなかった。
荒い息を整えるために、自分の着物の胸元をぎゅうとつかむ。それに気がついた臨也が、

「着物も新しく買い揃えないとね」

と思案げに呟くのが聞こえた。
もうやめてくれ、と静雄は思う。たしかに寸足らずだけども、多分臨也の中でそんなことはたいした問題ではないのだ。

赤い顔と、荒い息を誤魔化すために、手の甲を額に当てて目を閉じた。
外でたくさんの蝉が鳴いている。一週前に鳴いていたのと、一匹も同じ蝉はいなかった。米神を流れた汗が、首筋をつたい、後れ毛をぬらす。
ゆっくりと、息をつく。
目を開いて、静雄はいった。

「いつ東京に帰るんだ」

臨也の目が、眇められた。何かを計算するように小さな沈黙がおちる。

「…決めてない。けど、そろそろ戻らないと、情報屋を廃業する事になる」
「…廃業しちまえ、んなもん」
「無理だよ」

臨也は一瞬、いやらしい光を目に浮かべた。それは勿論、静雄を思ってではなく、彼の愛する人間達を思って。
静雄は小さく呟いた。

「反吐が出る」

臨也が目を細めた。
折原臨也は、人間がいないところには住めない。
例えば電車で何気なく人の行動をみつめること、すれ違う人の話し声を聞くこと、渦巻く人の群れに悪意の欠片をおとすこと。
それらはすでに、折原臨也を構成する一部だ。
ここに住む、という選択肢ははなからありえなかった。静雄がそれを承知している事も、わかっていた。
ただ互いに、口に出さなかっただけで。
沈黙が絶え、臨也がふいに喉を鳴らす。

「楽しみで仕方がないんだ。人が俺の想像を超えた瞬間を、俺の思いあがりを突きつける瞬間を。もしかしたら俺という存在の定義までゆがめる出来事に遭遇できるかもしれないって思うと、楽しみで楽しみで仕方がないんだよ。やめられるわけがないだろ?」
「……てめぇのいうコトは長ったらしくてよくわからねぇ。わかりたくもねぇ内容なのはわかるんだけどな」
「ま、確かに不誠実かもしれないけれど」

臨也が目を細めると、赤い三日月のようにみえた。

「俺は多分、出会いたいんだ。他人と交わる事で自分が変わってしまうような、心揺さぶられる出来事をね」

静雄が思案げに眉根を寄せる。

「……こいつに会えてよかった、って思ったり、こいつすげぇな、俺もこうなりてぇって、思うような感じか」
「ごくごく単純にしてしまえば、そういう感じかな。すごく、プラスの方向に簡単にすればね」

そんなものは人生に何度おとずれるかわからない瞬間だろうと、静雄は思う。
例えば、静雄が臨也に対して感じた、敗北感と尊敬がいい例だ。決して口には出さないけれど。

――そして静雄がここに来る時一度、諦めて捨ててきたものの一つだ。

静雄は臨也を見て、どこか眩しそうに目を細めた。
今までになかった小さく、大きな変化だ。これが臨也にも変化をもたらしたのは、明らかだった。
迫る満足感と渇望をおし矯めて、臨也は囁いた。

「うらやましい?」
「…うぜぇ」

答えられずそっぽをむいた静雄に、臨也が喉で笑った。

「駆け足でおいで」

ひらべったい額同士をくっつけて、臨也は瞳を合わせた。
一度棄てたものを拾うのがどれほど大変か知らないわけではない。

「俺がそこにいたら、追いかけてくるだろ?立ち止まってはあげないけど、雑踏の中で待ってるから」

静雄が瞬きをすると、睫が触れた気がした。
それは頷きだったろうか。
さやさやと夏風と沈黙が囁きをかわす。
静雄の唇が震えた。
そのとき、夢の高い遠吠えが空気を裂いた。
切羽詰ったような悲しげな鳴き声にぎょっとして、2人して振り返る。
夢は静雄の手元に座って、しきりに手の中に鼻を押し付けていた。

「げ」

静雄が小さく声を上げる。

「なに?」

臨也が視線で問えば、静雄がすこし気持ち悪そうな顔をしてささやいた。

「…握りつぶしちまった」

何を、と問うより先に、思い至る。
てめぇのせいだ、と静雄がぽつんと呟いた。
静雄の手の中で、夏の破片が透き通る薄茶色を光らせながら畳の上に零れ落ちた。




***




それから余分に5日数えたころ、臨也はつり橋の前に立っていた。
黒いコートに黒いズボン、黒いシャツの中に白い顔と赤い目がのぞいている。
死神のようないでたちの、見慣れた折原臨也だった。
静雄は紺地の浴衣を着ていて、伸びた髪を一つにまとめていた。短い尻尾のような髪が、項に垂れている。
その顔は不機嫌でも寂しそうでも、ましてや清々しているようにも見えなかったが、橋の前にたつ臨也をみつめる目は、ほんのすこし感慨深そうだった。
臨也はそんな静雄を見上げて、肩をすくめる。

「寂しくて泣きそうだろ?」
「阿呆か。どうせまたすぐこっち来るんだろうが」

この5日、臨也と静雄はこの家をいかに近代的にするかで激論を(時には暴力を)戦わせた。
極力保存すべし、という静雄とは逆に、臨也ときたら、いっそのこと、家を一回潰してもう一度立て直さんばかりの勢いだった。
結局のところ、水周りを幾つかと、パソコンを繋げる環境にすること事、――あとは身の丈にあわない着物をすべて臨也がそろえなおすという事で話がついた。肌に触れるもの全て他人の、もっといえば死者の、さらにいえば他の男のものを使うなんてどうかと思う、という主張をがんとして曲げなかったのだ。

「近いうちに業者をよこすから」
「おう」
「気に食わなくても、追い払っちゃダメだよ」
「…そこまで俺はしらねぇ」

臨也は目を瞬いた。
…もしかして、今のはデレられたのだろうか
静雄の唇がますますへの字に折れ曲がったのを見れば、どうやら間違いなさそうだ。
臨也はにやにやわらった。

「わかった。じゃあ、様子見にまたこっちによるよ」
「……おい、何笑ってんだてめぇ」
「わざわざ言葉にして欲しいなら言ってあげてもいいけど?」

静雄が歯軋りするのを、臨也は笑い含みでみつめた。
目元に笑いを残しながら、体をわずかに橋の方に向けた。

「それじゃあ、そろそろ退散しようかな。このままじゃ、せっかく直した橋もろとも、シズちゃんに沈められかねないし」
「とっとといっちまえ」
「はいはい」

5日の間に、橋の板は2人ですべて張り替えた。あのまま業者が来た場合、確実に死に至るからだ。
直しながら、良くぞここまで持ったなと臨也は呆れたものだ。
そして思ったのだ。きっと、臨也以外には渡ることが出来なかったのではないかと。

――この橋は、他者と静雄を繋ぐ唯一の道だ。

真新しい木の香りが、踏み出した靴の音ともに鼻腔をつく。
半分ほど進んだ頃だろうか、ふと臨也は振り返る。
静雄はまだ橋の袂にたたずんでこちらをみていた。臨也と目線が交われば、怪訝そうに眉を顰める。

「ねえ」

そこまで距離はない。
川も今日は静かにせせらいでいて、特に叫ぶ事もなく、声は静雄に届いたようだった。

「なんだ」

低い声が返る。

「この橋だけど、次に板を張り替えなくちゃいけないのはいつかな?」
「ただの木だからな。もって2年くらいじゃねぇか」
「ふうん」

臨也は足元をみつめて、こつんこつん、と木の板を靴で叩いてみせる。
静雄は相変わらず怪訝な顔をしていた。
それをみて、臨也は喉でひくく笑った。

「次も俺が張替え手伝うから」
「あ?」
「例え腐っても勝手に張り替えちゃだめだよ」
「……」

静雄はいよいよ気味が悪そうに臨也をみている。
言葉の真意に気づけなくても構わない。さきほどの意表をついたデレのお返しである。
笑顔で、臨也は念を押した。

「ね?」
「……まさか、その橋なんか仕掛けたんじゃねぇだろうな」
「しないよ。橋に仕掛けってどこのスパイ映画さ」
やっぱり気がつかない。臨也は心底おかしそうに笑う。
「どうせ、一人じゃ二倍手間がかかるだろ?君が金槌ふるったら橋の根幹がつぶれかねないし」
当然のことなのだが、静雄はよくわからないまま、不審な顔をしてうなづいた。
臨也は満足そうに笑う。

「約束、だよ」

返事を待たないで、臨也は踵を返す。
静雄は小さくなる背中をまだみつめているのだろう。
視線を左に転じれば、川面が残夏のまばゆい光を反射し、極彩色の光の帯に見えた。
夢のように美しい。
人の手が加わらないが故の、清らな美しさだった。
耳をすませば、川のせせらぎと木々の笑い声。虫や動物達が身を潜ませるささやきが聞こえる。
臨也は前を向いた。
その目はもう、ここではない場所を見ている。
雑多なざわめきに耳を澄ませ、人の欲をみつめて愉悦を覚える。
対岸の橋の袂は、茂る木々の影が、濃く溜まっていた。
刺すような夏の日差しに目を細める。

臨也の靴が、最後の橋板を蹴る。


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