吹く風の冷たさに驚いて、わたしは身をすくめる。買い物を終えてスーパーを出たら、もうずいぶんと日が暮れていた。「秋の日はつるべ落とし」だなあ、と買い物袋を手に道をゆく。これでは夜はもっと冷えるだろう。彼が風邪などひかないように、納戸からマイクロファイバーの敷布を一枚出してこよう。
「おっと」
スマホが鳴っていることに気付いて慌てて鞄を探す。画面には「土方さんち」と表示があった。
「はい」
『沙子、すまんが帰りに風呂場の電球を買ってきてくれるか』
もちろん電話の相手は土方さんだ。
「切れちゃったんですか?」
『ああ。急につかなくなってしまってな』
「わかりました、口金の直径、26mmでしたっけ」
「そのようだ。頼むぞ」
「はーい」
そういえば、昨日掃除してるときにチカッとしたような気がしたんだよな。スマホを切ってから思い出す。帰り道に小さな電気屋さんがあるからそこで買おう。どうせ買い物の荷物は二人分なのだから、重くはない。
「点きますか?」
「ああ、スイッチを入れてみてくれ」
「はいっと。おお、よかった」
風呂場の明かりはこれで復活。だけどなんだか明るすぎる気がする。
「眩しいですかね?」
「カバーを掛けるからこんなもんだろう。それに風呂場は明るいほうがいい。剃刀でも落とすと危ないからな」
「たしかに。でもそういえば土方さん、お部屋の蛍光灯、内側外してるのはなんでですか?」
土方さんがいたずらっぽく笑った。
「寝室は暗いほうが雰囲気が出るからな」
「……そ、そうですか」
多分本当は、チカチカしてきた内側のやつを外したあと、買うのが面倒で放置してるだけだ。きっとそうだ。わたしは耳を熱くしながら食事の準備にかかった。
今日のご飯は秋茄子の煮浸しと、安かったサンマ。これぞ秋というメニューに、土方さんも満足してくれたようだ。わたしは魚を食べるのが下手くそなのでちょっと恥ずかしかったが。
食後に一息ついたあと、納戸を開け、衣装ケースの中から敷布を引っ張り出す。ちょっと防虫剤の匂いがするから、明日干しておかないと。
土方さんはあんなことを言ったけど、からかわれてるだけなんだろうな。わたしは土方さんと出会って、色々あってお世話をしてるけど別にそんな関係ではないし、大体相手にされてないと思う。親子以上に歳が離れてるし、わたし、色気ないし。
「あ、土方さん。明日土曜日なんでお布団干しに来ますね」
着替えとタオルを持って後ろを通りがかった土方さんに声を掛ける。
「ああ、ありがとう。もう帰る時間か、気を付けて帰りなさい」
「はーい」
「送っていかなくて大丈夫かな?」
「平気ですよ」
壁時計は21時を指している。ここから自宅までは10分もないが、夜道は夜道だ。途中に交番とコンビニがあるから大丈夫、と何度土方さんに説明したことだろう。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
玄関を閉め、預かっている合鍵で施錠する。歩き出したわたしの首筋に冷たい風が吹き込む。明日はちゃんと敷布を干さないと。からっと晴れるといいな。
翌日午前。
チャイムを押す寸前、玄関のガラスの引き戸ががらりと開いた。
「わっ」
「おお、沙子。驚かせてすまん」
「いえ。おはようございます」
「おはよう」
土方さんは珍しく朝からスーツ姿だ。
「お出かけですか?」
「ちょっと野暮用でな。悪いが、しばらく出るから家のことを頼んでも構わんか。昼は君だけで食べなさい」
「わかりました」
土方さんはお気に入りのウールのハットを被り、つばをちょっと上げた。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃーい」
なんて絵になる人だろう。玄関に入り戸を閉めたわたしは、顔がニヤけるのを抑えられない。もともと、知り合いのおじいちゃん伝てで知人がお手伝いさんを探していると言う話に乗っかったのが最初だ。だから、土方さんも当然おじいちゃんなわけだけど、そう一言で片付けられない妙な若々しさと色気がある。素敵な人だ。一度そう思ってしまったら、憧れが恋に変わるのに時間はかからなかった。
土方さんの寝室に入り、上げてある布団を縁側に押し出す。布団用の物干し竿に一枚ずつ掛け、余ったところにマイクロファイバーの敷布を掛けた。あとは洗濯をして、掃除機を掛けて。晩御飯には帰ってくるだろうからその用意。そんなことを考えているわたしの意識は、土方さんのお布団にさっきからちらちらと向いている。ドキドキする。そっと顔を近付け、お布団の匂いを嗅いだ。仏壇のお線香と、石鹸と、わずかに汗と、それから土方さんの匂い。指でそっとシーツの表面を撫でる。はしたない妄想が頭をよぎる。あの腕に抱かれたら。耳元でそっと愛を囁かれたら。血の巡りが急に良くなったようで、わたしは熱い頬を抑えて縁側を上がった。
「沙子」
「んん……」
頬になにか触れる。薄く目を開ける。何度も瞬きし、そこにいるのが土方さんだと認識した瞬間、わたしの頭は猛烈に働き始めた。
「ご、ごめんなさいわたし」
日が陰って取り込んだお布団があんまり気持ちよくて、うつ伏せになっているうちにいつの間にか寝入ってしまったのだ。
「構わんよ。干したての布団は気持ちがいいものだ」
スーツのジャケットを脱いだ土方さんはなんだか新鮮だ。ネクタイを緩める仕草に見とれていると、土方さんが苦笑した。
「着替えようかと思うが、そこで見てるか?」
「えっ!? あ、いえ、出ます、出ますとも!」
大慌てで部屋を出るわたしの耳は真っ赤だったに違いない。いやあ、見てますって言いたかったですけども!
「うん。茄子の味がしみて、美味いな」
「ふふ。たくさん炊いてよかったです」
自分の分だけ後で家で作るのは大変だから、ということで、わたしも土方さんと一緒に食べる。それにしたって箸使いのきれいな人だな。字も上手いし、若い頃はさぞかしモテたんじゃないだろうか。土方さんだって男の人だ。きっと恋愛だって何度もしてる。でも、なんだかやだな。
「どうかしたか」
「えっ?」
「何かあったのかな」
無意識に、顔が俯いていたらしい。
「あ、いえ。なんでもないです。明日のごはんのこと、考えてて」
「そうか。だが日曜は無理に来てもらうことはない、土曜も昼までで構わんよ」
「……はい」
あ、だめだ。こんな暗い声で返事したら、変に思われる。わたしがここに来るのを楽しみにしてることが、バレてしまう。どうして楽しみなのか、知られてしまう。わたしは食べ終わった茶碗を流しに持っていくことでごまかす。食後のお茶を淹れよう。
そのとき、何かが光った。間髪入れずに轟音。雷だ。すぐに激しい雨音が屋根を打ち始める。
「あっ、お風呂場とお手洗い、窓開いてる!」
慌てて席を立ち、トイレに向かう。お風呂場はシステムバスだから後回しにして、床が来でできたトイレはあんまり濡らしたくない。すぐに窓と鍵を閉め、次にお風呂場。カラカラと窓ガラスを引き、ついでにこっちも施錠。少し雨音が遠くなる。
ふう、と息をつく。
「沙子」
「!」
突然声が掛かってどきりとする。
「仏間のサッシは閉めておいた。洗濯物はもうないな?」
「あ……、はい。取り込んでます」
「そうか」
ダイニングに戻っていく土方さんの後ろをついていく。ああ……。昨日と同じ、繰り返しになる。食後を片付けて、残ったおかずについて説明して、それから帰るだけ。それでいいはずなのに、ひどく切ない。
土方さんが立ち止まった。わたしも足を止める。
「私の勘違いだったら申し訳ないのだが」
耳の中を、血の音がうるさい。
「何か隠し事をしていないか?」
「かく、しごと」
足元が崩れていきそうだ。声が震える。言ってしまおうか。でも、拒絶されたら。今までのようにここに来られない。よしんば土方さんがそれを赦したとしても、わたしには到底無理だ。だけど、だけど。
ダイニングの明かりに、土方さんの顔が逆光になっていて表情が見えない。心臓が早鐘のように打っている。
「沙子」
心臓を掴まれる。
「今日は足元が悪い。泊まっていきなさい」
どこか有無を言わせぬ口調に、わたしはただ頷いた。
4:23 2018/09/30