<前回までのあらすじ> 上着だけとはいえ、女装する羽目になりましたよ。
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予想通り、オキタは猟師だ。 確信を持てたのは、案内された離れ……と、呼んでいいのか、母屋からは完全に独立した広い小屋に、動物の骨やなめしている途中らしい革、それに、解体に使うと思しき刃物や銃器のたぐいがまとめてあったからだ。 それで自分を狩りに来たのだと、すっかり合点がいく。 ―― 俺って、ケダモノ扱いなんだよな。 自分がこの世界の住人に対してしてきたことを思えば、当たり前だ。オキタが永井に警戒心を持たないどころか世話を甲斐甲斐しく焼き、ついさっきは、課業で扱ったことのある山刀によく似た刃物を触らせまでしたのは、今さらながら人が良すぎるのではと心配になってくる。 オキタがあの場にいた経緯はわかっても、疑問は残る。 永井を匿っている理由だ。この世界の沖田宏だから、という永井の思い込みに近い根拠だけでは、こんなにも無防備な好意を寄せてくれる説明にならない。 ちらと見上げると、目が合ったオキタは笑みを深めて、握った手に力を籠めてくる。その力強さに、些細なことでくよくよするなと励ましてもらっている気がした。 沖田もそうだった。 永井が悩んでいる時、落ち込んでいる時は、とことんまで話を聞いてくれて……今から思えば、ちっぽけな自尊心にしがみついて素直に話せない時も、意固地になる永井を時には叱り、時には黙って肩を叩いて、自分は味方なのだと教えてくれていた。 恋しいと思うには、あまりに遠く隔たってしまった彼の存在がつくった空隙を、いまは、オキタが占めようとしている。 ―― どうすんだよ。俺が、あんたなしじゃいられなくなったら。 自問の答えは「手遅れ」だ。とっくに、離れがたくなっている。 オキタを沖田だと誤認したときは、どうなってもいいと、ここで死んでいいと思っていたのに。 外に連れ出されることを恐れたのは、自分の死よりも、オキタと離れてしまうことだった。 「オキタさん」 「ん」 手指に力を籠め返して低く呼ぶと、オキタはすこし笑い、するりと指を絡めてきた。これではまるで、街角で戯れあう恋人のようだとばかげた感想を抱いてから……あれ、と内心で首を傾げる。 オキタが永井を匿うのは、つまり、そういうことではないのか? 夜見島の化け物とは違うといえ闇人と人間という隔たりがある上に、永井の方は恋に近いような憧憬を抱いてはいたが、良い先輩でしかなかった沖田に重ねていたせいで、その可能性にはまったく思い至っていなかった。 しかし、オキタの行動に下心など……感じられる節は、思えば、おおいにある。 なにかと抱き締めたり、距離が近かったり、日常生活は不自由なく送れるほど復調しているのに、身体を拭く役目をどうしても譲らなかったり。 とどめは昨夜だ。 目の下にとはいえキスをされて、抱き締められて、そのまま寝てしまった。今日も、布越しであっても額にキスされたばかりで……それが、少しも嫌ではないのが困る。 オキタは沖田と同じように、永井を純粋にかわいがってくれているだけだと、そう思ったほうがいいのはわかっている。 そうでなくては。顔や態度に感情が出やすい自覚のある永井が、オキタを意識していることなど、すぐにばれてしまう。そもそもが、昨夜あんな風にみっともなく泣いたのは、自分がオキタの手や体温、存在そのものをこの世界で縋るよすがとして慕っていることを自覚したからである。 問題は、永井の気持ちだ。 オキタがそういう風に自分を思ってくれているなら、正直なところ、どうなのだと自問すれば。 うれしい。 あっさりと、単純明快な答えが戻ってくる。そんなわけはない、そんなのは駄目だと否定しても、感情は嘘をつかない。 ため息を吐くと、絡めた指をついと引かれた。 「―――?」 布に隠れた永井の顔を、間近に覗き込んできた表情は心配そうなもので、疲れたか、と訊かれているのだとわかる。 「いっ、いいえっ『だいじょうぶ』です!」 慌てて首を振り、ついでに手指に力を籠めると、オキタは目を細めて笑った。 優しい笑顔に鼓動が跳ねて、頬がじわりと熱を持つ。顔が隠れていて、良かった。
家に戻ると、オキタは永井に休んでいるようにと促して厨房に消えてしまった。 「ともかく、着替え……だな」 永井は日除けを取り、着物を脱いで丁寧に畳んで長押の上に置いた。たいした外出ではなかったが、布を厳重に巻きつけられていたせいで、すこし汗をかいてしまった。 借り物なのに汚してはいないだろうかと心配してから、普段着ている浴衣もどきも借り物だったと苦笑する。 オキタから見れば、今さらだろう。 着慣れた衣服に袖を通し、すっかり慣れた帯を結んで、茣蓙の敷かれた板床に体育座りをする。途端に、じわりと緩い疲労が沁みて、随分弱くなってしまったものだと自嘲する。 歩いたのは距離にして往復三十メートルか。たったそれだけで、くたびれるなんて。オキタに拾われたのは、本当に、野垂れ死に寸前のタイミングだったらしい。 「……リハビリ、ってことか」 なにも仕事場訪問をさせたかったわけではあるまい。オキタは良く気のつく男だ。永井が歩き回れるようになったのを見て、少しずつ、体力を戻そうとしてくれている。この想像は、たぶん、間違っていない。 その先は、どうするつもりだろう。 永井を助けて、世話して、元気になったら……。 「いつまでもこのまんま……なんて、できんのかな」 静かな部屋の中にいると、それもいいかと楽しくなってくる。ほんとうはこの先なんてありはしない、実現しそうもない絵空事だとしても、期待したくなる。 ―― 現金な奴。 自分を罵ってひとりで笑っていると、オキタが廊下から顔を覗かせ、快活に声をかけてきた。 なに笑ってるんだ、と、たぶんそんなような疑問を口にしながらつられて微笑んでいるオキタに、楽天的な夢想をしていた気恥ずかしさ混じり、大きくかぶりを降る。 「なんでもありませんよ、えっと……『だいじょうぶ』」 一番よく使うようになった言葉を口にすると、オキタはちょっと困ったような表情になって、なにやら呟いた。 もう少し、言葉が伝われば良いのにな。 そんなことを言われた気がする。そんなのは、永井も同じだ。 辞書、せめて単語帳でもあればななどと考えて、「あ」と声をあげる。 「オキタさん。書くもの、ありますか」 伝わるかどうか、人差し指を鉛筆に見立てて、板の間の座にいくつか文字を書いてみせる。きょとんと瞬きをしていたオキタは、永井が今度は宙に手のひらをおいて、その上に文字を書く真似をしてみせると大きく頷いた。 板の間の隅に置いてあった小さな茶箪笥を開けて、中から、数枚のザラ紙と、黒い棒を取り出してくる。細い木の棒かと思ったそれは、どうやら、何の変哲もない鉛筆だ。 あったんだと、妙な感銘に打たれながら、永井は紙に「シカ」「ダイジョウブ」「メシ」と書き付けて、その隣に矢印を引き、耳で聞き取った発音を記した。 「……やっぱり、そうだ」 三つの単語に共通する「シ」の音は、同じ音が使われている。 闇人の言葉は、永井の知っている言葉とは並びを変えず、音を組み替えたものらしい。オキタの話す声が、強い訛りのある日本語に聞こえていたのも、きっとそのせいだ。 「だったら、えっと……」 隣に座ったオキタが興味深そうにのぞき込む前で、永井は、自分が覚えたいくつかの言葉を思いつく限り並べていった。薄暗い部屋にいるせいで曖昧に霞みかかる文字を、できるだけ大きく書いているため、紙はすぐに二枚目になる。 おかえり、ただいま、おはよう、おやすみ。 少し考えて、紙に四角い立方体を書いてオキタに示すと「ーー」二文字の答えが返ってくる。 「はこ、ってわかったかな……」 オハヨウとは「は」の音が共通するはずが、どうも違うように聞こえた。もしかしたら、全ての言葉が対応しているわけではないのかもしれない。 次に丸や三角、上手くはない花を描いてはオキタに見せて、永井の意を汲んでくれた彼がゆっくりと繰り返す音を書き留めていく。 二枚目の端まで埋めたところで明かりの乏しい中で集中しすぎていたせいで目が痛くなり、鉛筆から手を離して瞼を擦ると、オキタが三枚目の紙にさらさらと何かを書き付けた。 楕円系に黒い丸がふたつ、その天辺に短い線を書き込んだそれは、稚拙な似顔絵だ。 「……まさか、俺ですかこれ」 半目で見上げると、オキタは『下手で悪かったな』というような顔で、似顔絵の横に奇妙な記号を書き込んだ。 「ナガイ」 どうやら、こちらの文字らしい。渡された鉛筆で、その隣に「ナガイ」とカタカナで書くと、オキタは感心したように「ふぅん」と唸る。 オキタの描いた永井の顔の下に、オキタよりはましな自信がある似顔絵を描き、「オキタ」と名前を書いてから、オキタに鉛筆を返す。 「オキタ、さん」 指で似顔をつついて促すと、オキタはこちらが恥ずかしくなるような嬉しげな笑みを浮かべ、永井の髪を手のひらでくしゃくしゃと混ぜてから、自分の名前なのだろう三文字を書き込んだ。 紙の上に、オキタの書いた永井の名前と、永井の書いたオキタの名前が仲良く並んでいる。不意に胸が熱く詰まる感覚を覚えて、永井は細く息を吐いた。 「……俺もっと、ことば覚えます。オキタさんと、ちゃんと話せるぐらい……」 「うん」 永井の言葉などきっとなにひとつわからないだろうに、オキタは、それでも優しく頷いて、俯いた永井の頭を胸に抱き寄せた。耳元でゆっくりと打つ鼓動に、身のうちが解けるような安堵を得て、さらりとした手触りのオキタの上着を掴む。温度の低い指が髪を撫で、顎をくすぐって喉を辿るのが心地よい。 「ナガイ。――――、――」 穏やかな声に引かれるように、オキタの胸に身を預ける。永井のおとがいを捉えた指先に逆らわず、顔を傾けたところで、盛大に腹が鳴った。 「あ……」 「――――」 メシだな、と、苦笑するオキタから慌てて身をもぎはなし、永井は隠しようもなく熱くなった頬を掌底で擦った。 寄りかかりすぎては駄目だと思っていた矢先に、いま、自分は、何をしようとしていたんだろうか。 実にベタなタイミングでむずかった腹の虫のおかげで、そんな雰囲気ではなくなってしまって……安心と落胆の間で揺れる自身の感情は見ない振りで、勢いよく立ち上がる。 「かっ……顔、洗ってきます!」 廊下をばたばたと走り、暗がりに慣れた目でもよく見えない真っ暗な洗面所に飛び込んで、その場にしゃがみこむ。 「まずいって……ほんと、なにやってんだ俺……!」 唸っても、どきどきと脈打つ心臓が治まってくれない。この場合、何をやっているのかと問いつめるべきなのはオキタの行動のほうかもしれないが、それにしても。 「覚えたこと、吹っ飛んだな……」 深い息を吐いて、洗面台の蛇口を捻る。冷たい水を掬って、つるりと引っかかりのない顔を洗うと、頬の端が微かに痛んだ。 それでも、端に錆の浮いた鏡に映る曖昧にぼやけた自分は、心なしか楽しそうで……それがなんとも、いたたまれなかった。
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服や持ち物に、人間が使っているのだろう言葉が記されていたのだから、ナガイは彼らの言葉を読み書きできる。 もっと早く思い至っていてもよかったことに、オキタはついさっきまで、考えが及んでいなかった。 外に出たことが良い刺激になったのか、今までよりも積極的に、こちらの言葉を学ぼうという姿勢を見せたナガイに嬉しさを感じると同時、妙な焦りも覚える。 もし、ナガイが自分以外の者とも意志疎通ができるようになり、ここを離れようとしたら――。 冷静に考えてみればおよそあり得ないことを、ナガイに危険が及ぶからという理由ではなく、ナガイが手の内から抜け出していくのが嫌だという子供じみた……否、子供らしい純粋さとはかけ離れた独占欲で忌避する自分自身の感情に、頭を抱えたくなる。 ついさっきは、オキタが書いてやった「オキタ」と「ナガイ」の名前を指で辿り、あどけなく見えるほど嬉しそうに綻んだナガイの表情を愛おしく思っていたというのに。 いったいいつから、こんなにナガイに執着してしまっているのか。 「最初から……だよなぁ」 さっきも、ナガイの腹がなにより雄弁に空腹を訴えなければ、何をしていたことか。……接吻程度で済んでいればましな方だ。 たぶん、おそらく、この調子ならナガイも拒まないだろうと期待半分の確信はもっているものの、ほかに行く場所がないからオキタに逆らえないとか、世話になっているから遠慮するといった理由であってはたまらない。 人間はどうか知らないが、闇人はつがう相手を慎重に選ぶし、合意を得られなければ無理強いすることはない。もし、己の欲望を優先して罪を犯す者がいれば、女神の遣わし女である『鳩』がその者に罰を下す……というのが、古老の教えだ。 大きな街ではそういうこともあるかもしれないが、女神への信仰の篤い里山にはあえて禁忌を破るような者はいないので、実際どうなるか、それなりに長く生きているオキタも知りはしない。 それに……それは、闇人の掟であって、人間であるナガイに適用されやしないだろう。 もちろん、だからといって、ナガイに無体を強こうとはさらさら思わないのだが。 「……遅いな」 腹の音を恥じたのか、勢いよく洗面に走っていったナガイが戻ってこないので、廊下に出ると、庭の草でもつつきにきていたのか、壁越しにでもオキタの気配を察した鳥が飛び立つ羽音と鋭い鳴き声が耳に入った。 ―― 鳥。 不吉な連想の尾が胃の腑をざらりと撫でる。 『鳩』は闇人を見守り、導く存在だ。遠い遠い昔、地上に溢れていた光と、光の下で蠢く異形たる人間を滅ぼし、闇をもたらす先駆けとなった神聖なもの。 ……人間を、許さないもの。 幼い頃に一度だけ、真っ白な輿に乗った巡幸の鳩を見たことを思い出す。 生き物とは思えないほどうつくしく、透き通った横顔が何故だか無性に恐ろしくて、「綺麗ね」とうっとりと呟く母の手を強く握りしめ……真っ黒に潤んだ瞳と、確かに視線が交わった時には、気を失ってしまうかと思った。 大人になった今ならば、人知を越えた存在に恐怖を感じることなど無いだろうが、あれは、自分たちとはまったく違う……人間よりもよほど異質な生き物だったと、断言できる。 彼女たちがナガイを見つけたら、どうするだろうか。想像もつかないが、ろくなことにはならないはずだ。 女神が相手だろうと渡さないと決めたのだから、鳩など何ほどのものか。そんな風に粋がってみたところで、幼い心に焼き付いた畏怖が、足をすくませる。 俗世のことに目配りなどせぬ、隔絶した場所で崇められるだけのもの達であってくれれば良いが……。 「オキタさん?」 怪訝そうに呼ぶ声で我に返る。 手のついでに顔も洗ったのか、前髪に湿り気を残したナガイが、廊下にたってこちらを見上げていた。 「なんでもないよ」 ぎこちなく笑みを作り、オキタは首を横に振った。 ナガイが懐いてくれているのなら、今はそれで良い。起きるかどうかもわからないことを心配してもはじまらない。 それよりも目先のことを考えようと、気持ちを切り替える。 「昼飯にしよう、ナガイ。お前の好きな、芋の味噌汁もあるからな」 「みぉしる」 「味噌汁、な」 肩を叩いて訂正すると、ナガイは口の中でぶつぶつと「みそしる」と繰り返し、忘れまいとしているようだった。 きっとこれも、後で紙に書きつけるつもりなのだろう。 きちんとした帳面でも買ってやるかと思いながら、オキタは、最前までの不安にはきれいに蓋をすることにした。
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