<前回までのあらすじ>

オキタさん、俺は枕じゃありません。(永井頼人、心の一句)

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 ひさしぶりに、穏やかな夢を見ていた、と思う。
 覚醒する直前に見た夢の内容は霧散し、幸せな印象だけが残る、あたたかな気分で瞼を上げる。
 赤みがかった暁光が天井近くの換気窓から差し込んで、目の前に横たわるものの輪郭をぼんやりと浮き上がらせているのが見えた。
 上掛けに包まれた、呼吸につれて上下する肩とこちらを向いて寝息を立てている端正な顔立ち、洗い晒しで寝乱れた黒髪はオキタのものだ。閉じた瞼の縁に、色が抜けたように白い睫毛が揃っているのを確認できるほど、距離が近い。もう少しでも近付けば、お互いの寝息に肌をくすぐられそうだ。
 混乱したのは一瞬のこと、昨夜は抱き締められて寝たのだったと思い出す。おおかたは永井の寝相のせいだろうが、いつのまに離れてしまっていたらしい。とはいえ、向き合った体勢の上掛けの中で、脛から下が絡まるように触れ合っているのが気恥ずかしくて、そっと足を引っ込める
 その拍子に、オキタの目がぱちりと開いて、数秒、無言のまま見詰めあってしまった。
 なにも言わず微笑んだオキタの、やけに優しい眼差しからぎくしゃくと目を逸らす。変に意識しすぎなのかもしれないが、一晩を共に過ごした恋人同士のような、やたらと甘ったるい空気がむず痒くてたまらない。
「ナガイ、――――」
 まだ、永井の知らない言葉でなにか呟いたオキタの掌が、少し伸びた永井の前髪をかきあげる。熱でも測るような仕草だと思っていると、額の上、短く刈り込んでいたときならちょうど髪の生え際だったあたりにすいと顔を寄せられた。
 やわらかなものが触れた感触に、「うぇ!?」奇声を発して咄嗟に身を竦める。オキタは深追いはせず、笑っている気配がした。
 気のせいでなければ、額にキスをされた、ような。
 いや、確実に。
 そう認識した途端、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。そういえば昨夜だって、極端な言い方をすれば「今が幸せすぎて怖い」なんて理由で大泣きした後もほっぺたにキスされてしまったのだが。あの時は、それこそ夜中にぐずる子供をあやすように添い寝を強行されて、それどころではなくなってしまった。
―― 俺が、ガキみたいに泣いてばっかいるから。
 慰めるための行動だとは思うが、兄弟のようなスキンシップが多かった沖田にだって、もちろん、こんなことはされていない。どう対処したらいいかわからず、鼻から下まで布団にもぐりこんだ上目でオキタを窺うと、彼はやはり面白そうに笑っていた。
「――――」
 名残り惜しそうにひと撫で、おそらくは起床を促す言葉を残して、オキタは布団を抜け出していった。永井に比べればだいぶ低い体温でも、肌を温めてくれたぬくもりがなくなると、どうしたって寂しい。
 そんな風に感じてしまうのも見透かされて、子供扱いされているんだろうか。
「とっくに成人してんすけど」
 誰に向けるでもない、弁解と抗議の入り混じった呟きは、まるきり、照れて拗ねた子供っぽいものだった。
 もう、オキタの前でむやみに感傷的にならないようにしようと決意しながら、永井も布団の上に起き上がる。
 永井の視線などまったく気にせず、衣擦れの音を立てて着替え出すオキタの体つきはやはり、肌色の違いを除けば、記憶の中の沖田と差異を見つけるのが難しいほど、良く似通っている。
 あえて考えないようにしていることだが、いままで、永井が傷つけ……殺してしまった闇人達は、明らかに民間人だった。武器を持ち、人と戦う術など知らない風情で他愛の無い『民間人』だった。銃器の扱いに慣れていて、現役の自衛官、それも現場の第一線で動き回る下士官とにひけを取らない体格をしているというのは、趣味で鍛えているのでもなければ、特殊な職業についているとしか思えない。
「猟師……で、合ってんのかな」
 猟銃所持者の職業といえば、一番単純に考えてそこだ。
 ここの闇人達の身体能力は人間と大差ないのだから、意識のない永井を担いでここまで連れてくる体力も、傷の手当てに慣れていたことも、それでだいたいの説明はつく。
 田舎育ちとはいえ、猟といえば畑を荒らすイノシシ退治のため猟友会に入っている老人の嗜み、程度の認識しかなかった永井にとっては、未知の職業だ。
―― 俺を太らせて食おうって算段立ててたりしてな。
 面白くも無い冗談を頭の中で転がしているうちに、身支度を終えたオキタがこちらに振り向いた。
「―――」
 箪笥の横に置いた、柳行李というのだったか、木の枝を編んで作った大きな箱をこちらに押しやってくる。
「……なんですか、これ」
 開けてみろと促す仕草に、膝で寄って蓋を開け―――黒い、布の堆積が蟠っているようにしか見えないそれらは、衣服だろうとは思うのだが。
 一枚を手に取り広げて、永井の肩にあわせるように押し付けてきたのは、「これ……俺に、ですか」。
 今まではずっと、寝巻きのような白い浴衣に、甚平の上着に似た黒い羽織りで済ませていた。オキタが当ててきた布を受け取ると、確かに着物の形をしている。しているのだが。
 オキタがこちらを見ているのを確認して、目を閉じる。
「ナガイ?」
 不審そうに呼ぶのを無視して、意識を外に広げ、オキタの視界を盗んだ……オキタの視界はほとんど無意識に『掴み』っぱなしなので、使うのは用意だ……途端、視界が眩しく光る。
「っ……」
 僅か一拍の眩暈を堪えて、息をつく。
 黒い太陽に適応した闇人達の眼が見る光景は、永井が自身の目で見るものとまるで違う。普段は、毒々しい赤と黒に沈んだ、色の感覚を失ってしまいそうな景色しか見えない。
 しかし、闇人の目を通せば――やや色褪せているように見えるが、永井が生まれ育った当たり前の世界とほとんど変わらない色彩が視界に甦る。オキタがいつも用意してくれる食卓の膳が、黒塗りではなく焦げ茶がかった飴色をしているのも、流しに置きっぱなしの薬缶がなかなかに奇天烈な緑色なのも、暗い蒼だと思っていたオキタの衣服に、水色と紺が多いこともわかる。
 そして永井が手に取った着物が、オレンジと赤の中間のような色の地に、小さな花柄が散ったもの。他の数着も、ずいぶんと可愛らしい色柄ばかりだった。
「……女物ですよね、これ」
 闇人のファション感覚がどうなっているのかは知らないが、これは女物と判断して良いだろう。
 これを、永井に着ろというのか。オキタの視界を手放して呟く。
「他にないんすか」
 居候の分際で文句を言う筋合いもないだろうと自覚はあっても、男の沽券に関わる問題だ。上目に睨むと、オキタは唇の端を持ち上げ、自分の頭の天辺と、永井の頭の天辺を交互に撫でた。
 これは、言葉がなくても、全世界で通じるジェスチャーだ。
 身長が違う。つまり、俺の服じゃ丈が合わないだろ、と言われているに等しい。
「そんなに違わないですよ、たった六センチです」
 いつぞや、沖田に言ったのと同じ申し立ては「まあいいからいいから」というような笑顔でいなされてしまう。
「――――、―?」
 とりあえずこれで間に合わせておけということなのか、「な?」に相当するのだろう、念押しつきで肩を叩かれ「了……」不承不承、一番ましだと思った、落ち着いた芥子色の無地を手に取った。
 オキタは箱に元通り蓋をすると、選んだ着物をここに置けと手振りつきで指示して、永井にいつもの羽織りを渡してきた。
『めし?』
 これは簡単に覚えられた単語で問うと、オキタは破顔して頷き、『めし、めし』と繰り返した。
 人間の「ゴハン」という言葉に敏感に反応して尻尾を振っていた実家の犬を思い出して多少複雑だが、簡単な言葉でもオキタとの意思疎通ができるのは嬉しい。


 いつも通りの簡素な食事を終えると、オキタは永井を台所の椅子に座らせて、待っていろというような手振りを残して何処かに行ってしまった……といっても、家の中だ。台所からそう離れていない洗面所で何かごそごそと動いている気配はする。
 手持ち無沙汰に、古ぼけたモザイクタイルが貼ってある水回りだけは他の場所に比べてどことなく「昭和」程度には文明開化していそうな台所を眺めながらしばらく待っていると、オキタがアルミの洗面器を片手に戻ってきた。
「うわ、ばあちゃんちにあったやつ……」
 北向きの小さな換気窓がひとつ、天井近くの壁についているだけの洗面所と、これも換気用なのだろう、ブラインドを縦にしたような開閉式の雨戸があるだけの風呂場は、夜目の効かない永井にとってあまり踏み込みたくない場所だ。ここで見慣れた木桶ではなく、洗面器の形をしたものが出てきたことに今さら驚く。
 オキタは、永井の反応を楽しむように、洗面器と、その中に入れて運んできたものを食卓の上に並べる。長方形の小さな箱を開くと、中には細長い、メスのようなものが入っていた。
「それ……カミソリ、ですよね」
 安全剃刀ではなく、切れ味の良さそうな刃のついた、正統派の剃刀だ。
 なんとなく、嫌な予感がする。
 かといって逃げるのも気がひけて、オキタが洗面器に湯を張り、石鹸を泡立てはじめたのを見て、予感は確信に変わった。
「―――」
 剃刀を片手に、ちょいちょいと永井を手招くのに、首を思い切り横に振る。 
「ヒゲなら自分で剃りますから!」
 オキタの手から剃刀を奪おうとすると、ひょいと上に持ち上げられた。強引に行くには、刃物が怖い……というのを、一ヶ月前の自分が聞いたら嘲笑うだろう。いや、なにも感じないか。
「あぁ、ちょっ、オキタさ……!」
 逡巡している間に、片手で起用に泡を塗りつけられ、口を閉じるしかなくなった。顎を持ち上げられて眉を寄せ、目を閉じると、オキタが笑う声がする。
 薄い刃で顔を撫でられる感触は不安なもので、しかし、永井を傷つけまいとする丁寧さも伝わってきた。他人に髭をあたられる落ち着かなさだけは、どうしようもないが。
「――――?」
 どことなく得意そうな言葉は、「うまいもんだろ」とでも言っているのか。口を開くことはできず、唸りで応じる。頬から顎、唇と鼻の間まで剃られて、頭の隅で、毛を刈られる羊が情けなく鳴いている姿が浮かんだ。
 落ち着かない時間が過ぎて、あらかた剃られた顔を、湯に漬けた手拭いで丁寧に拭われる。
 最後には、乾いた手拭いで水気を取られ、仕上げの確認とばかりに顔をするすると撫でられた挙げ句に鼻を摘ままれた。ふ、間の抜けた声が出たのを笑われて、顔をしかめる。
「もう、急になんなんですか……さっぱりしましたけど」
 自分の手で顔を撫でると、得意がるだけあって、引っかかりのない、つるりとした感触だ。
「俺の荷物のなかに、安全剃刀あったのに」
 それでも他人に使われるのは勘弁願いたいが、緊張は少なくて済む。
 そういえば、迷彩服や持ち物はどうしたのだろうか。オキタのことだから、どこかに隠しているような気がする。それでも、探そうという気にはなれない……今のいままで頭からすっかり抜け落ちていたのだし、一度捨てた命に、惜しいものなどないのだから。
「今日はこれから、出かけるんですか? ……『そと』?」
 流しで洗面器を洗うオキタの背に尋ねると、オキタの動きが止まった。ゆっくりとこちらを向いた表情は、換気窓から差し込む僅かな光に逆光になり、よくわからない。
 それでも、どこか緊張を誘う空気に、永井は窺うように声を低める。
「オキタさん……?」
 なにごとかを呟き、道具を置いて戻ってきたオキタの顔は、いつも通り平静なものだった。
「―――」
 永井の腕を引いて立たせたかと思えば、朝、選ばせた芥子色の羽織りを着せ掛けてくる。
「自分で着られますって」
 着物の着付けなどしたことはない。それでも、飲み込みは早いほうなので、なんとなくはわかる。永井が手を出そうとするのを「いいからいいから」というようにいなして、オキタは自分がいつも巻いているような日除けの布まで永井の肩から上に手早く巻きつけ、背中のあたりで端を結んでしまった。
「……すげー暗いんすけど、何がしたいんですか」
 オキタとは違い、顎から鼻、目の上までを布で覆われているので、アラブの女の人みたいになっているはずだ。
 オキタは永井の頭の天辺から爪先までを眺め、「――」ふたつの音だけで成る単語を口に出して、うんうんと頷いた。
「『よし』って言いました?」
「りょう?」
「なんも承知してないですよ、まだ……」
 むっすりと抗議まじりの申し立ては、掴まれた右手を引かれて途切れた。
 オキタは永井の手を引き、廊下へ、玄関へと進んでいく。
「え……っ」
 上がり框に座りこんで草履を穿くオキタを前に、永井はその場に棒立ちになった。
「ナガイ」
 オキタが永井のために用意したのだろう、真新しい草履を差し出されてからだが強張る。
「俺を……どこか、に、連れてくんですか」
 そうなっても不思議はない。
 永井はこの世界の異物、怪物のようにあつかわれる殺戮者だ。
 それでも、オキタならずっと匿ってくれるのだと、いつからかそう思いこんでいて―――。
「ナガイ、―――、――――」
 オキタは、それとわかるほどに慌てた様子で立ち上がり、無意識に後ずさった永井の手を掴んだ。少しの抵抗を、胸に引き寄せ、背中を抱き締めて封じる。
『大丈夫』
 大きな掌で背を撫でながら、不安に惑う永井を安心させようとなだめる声音は沖田と同じで、その音の連なりは意味を持ったことばとして、冷えた骨を暖めてくれる。
「『大丈夫』……? 俺を……追い出すわけじゃない?」
 見上げた視線の先で、オキタはやけに真面目な顔でこちらを見つめている。
『大丈夫だから』
 赤い空の下では異質な永井の肌を隠すように、守るように巻きつけられた布の上から、頭を撫でられ、額のあたりに唇を落とされる。直接触れられてはいないのに、皮膚の下がぞくりとざわめいて、血が熱くなる感覚が起きる。
「……ッ」
 先ほどとは違った意味合いで後ずさった永井に、オキタは静かに笑い、もう一度、草履を差し出してきた。
「―――、――?」
 外を指し、頷きかけてくる。
「……なんだかわかんねえけど」
 永井にとって悪いようにはしない、と、言われている気がする。
 素足に草履を引っ掛けて立ち上がると、オキタが外に通じる引き戸を開く。
 幾日か、数週間ぶりかもしれない外の空気は、すこし甘かった。


 草履の底が固い土を踏む感触に、永井はそっと息を吐いた。
 敷居を踏み越える瞬間は訳もなく恐ろしくなったが、なんということはない、人気のない、とても静かな場所だ。
 ついてこい、と身振りで示すオキタに頷きかけて、ゆっくりと歩き出した彼の後を行く。目を閉じて、『見よう』とすれば、灰色のノイズが瞼の裏に走ったのもつかの間、すぐに、鮮明な視野を捉えた。
 オキタの見ているのは、片田舎のごく当たり前の朝の風景だ。家の前庭から門を抜けると、両脇に草が茂る細長い砂利道が、木製の電信柱の立つ通りに続いている……が、オキタが向かうのはそちらではない。
 家の脇に立つ、納屋にしては広い小屋が、目標地点らしい。永井にはきっちりと着付けたくせに、自分はいい加減に巻いただけの日除けと袖口の隙間から腕と手指がはみ出して、薄い煙に似た蒸気が立っているが……あまり気にしていないようだ。
―― 痛いとか熱いとか、ないのかな。
 夜見島の闇人達は、懐中電灯の光にさえ痛みを感じるようだったが、この世界の太陽ではそう深刻なダメージを与えられないらしい。
 二十メートルも行かないうちに小屋の入り口に辿りつく。木材と青いトタンで作られた、簡素な建物だ。
 オキタは扉にかかった大きな南京錠を袂から取り出した鍵で外し、「よっ」と掛け声をつけて扉を押し開いた。……沖田も、倉庫の扉をあけるときはつい掛け声を出していて、仲の良い曹に「オッサンかよ」と突っ込まれていたのを思い出す。
「オキタさんもオッサンなんですね」
 ぼそりと呟いた言葉の意味はわかってないはずなのに、ちらりとこちらを向いたオキタはどことなく不本意そうな顔をしているので、笑ってしまった。


+++++++++++++


 ナガイもあまり家に篭もりきりでは逆に体が弱ってしまうだろうと、外に連れ出すことは以前から考えていた。しかし、人間を匿っていることが露見すれば、自分はともかくナガイがどうなるかわからない。
 遠出せずに目先が変わって、人目につかない場所……と考えて、獲物の解体小屋を選んだのは、我ながらどうかと思うが。
 入った時は顔をやや引き攣らせていたものの、ナガイは周囲を眺めて、なにやら納得のいったような表情をしている。日除けの布は、オキタが何も言わないうちに肩に落としてしまったが、出るときにまた被せれば良いだろう。
 オキタと銃、壁にこさえた棚に置いた幾つもの鹿の頭骨、作業台に置きっぱなしだった磨き途中の鹿革をかわるがわる見つめ「しか、オキタさん……――?」銃を撃つ真似をして首をかしげたのは、「お前がこれを獲ったのか」と訊いているのだろう。
「そうだよ。俺の、獲物だ」
「オキタさん、えもの」
 鹿の毛並みを残した革を撫でて、こちらを見るナガイの尊敬の眼差しが少々くすぐったい。
「それなめしちまうから、気になるもんがあったら見てていいぞ」
 やすりを手に、毛皮をひっくり返しながら告げると、おおかたの意味は伝わったのか、ナガイは「りょう」と返事をして、十五畳ほどの広さの小屋の奥を覗きはじめた。
 壁に並んだ銃や鉈をものめずらしそうに見ては、手に取ったりしている。その手つきに物怖じはない。
 山刀を手に取り、しげしげと眺めているので、「そいつは山枯らしだよ」声をかけると、大きな目が物問いたげにこちらを見た。
「山枯らし。わかるか?」
「やまからし」
 オキタの言葉を繰り返し、ナガイは手に取った山刀をひゅ、と風を切って振る。堂にいった手つきだ。
 向こうがその気なら斬られる距離で人間が刃物を手にしていても、今のオキタは毛筋ほどの脅威も感じない。それよりも、ナガイが山刀を正しく枝を払う高さで使ってみせたことで、答えを期待していなかった問いが確信に近いものに変わる。
―― やっぱり、山慣れしてるな。
 ナギイは山刀を丁寧に元の場所に戻して、他の道具を眺めはじめた。
 彼も、猟師ではないにしろ、似たような生業を持っていたはずだ。形や素材は変わっているが威力の高い銃や刃物を持ち歩き、戦う術を持っていたのは、人間の世界がよほどの危険に満ちた場所ではない限り、職業として身につけたものだと考えるのが自然だ。
 ほどなくして、小さな探検に飽きたらしいナガイが傍に寄ってきた。鹿革の裏にやすりをかけていくオキタの手元を覗き込み、ふうんと小さく唸るのが妙におかしい。
「やってみるか?」
 やすりを渡すと、ナガイは口を引き結び、身を屈めて革の上にやすりを滑らせた。
「……うー……―――……」
 これ難しいな、とか、そんなことを呟いているのだろう。オキタのように上手く削れないのが、彼の負けん気に火を灯したらしい。がりがりと、力を籠めて腕を動かしている。
「あんまり無理すんなよ。元気でも、病みあがりなんだから」
「……だい、じょうぶ」
「力の入れ方が違うんだよ。腕じゃなくて、肩から。それと、腰は動かなさい」
 掌を重ね、肩と腰を軽く叩いてこつを教えてやれば、ナガイはすぐに要領を飲み込んだようだった。
「そうそう、上手いもんだ」
 熱心に革を削るナガイから離れて、その姿を眺める。
 女物の着物は思ったほどには似合っていないが、もし誰かに見られても、日除けを被った姿で遠目から、であれば、客人だといって適当に誤魔化せるだろう。
 もし見られたところで、生死不明の怪物とナガイを結びつける者がそう多いとは思わないが……『見知らぬ女が独り身のオキタの家にいる』ということにしておいたほうが、詮索をかわしやすい。
 楽観の種をひとつこさえたところで、換気窓から差し込む陽光を受けたナガイの頬が滑らかな輪郭を浮かびあがらせているのに、些か不埒な気分を誘われた。
 薄い髭を剃っている間の観念しきった表情は可笑しかったが、目を閉じたあどけない顔と、指先に熱く吸い付くような肌、瞼の下から現れる明るいいろの不思議な目は、オキタをどうにも惹きつける。
 腕に抱いても、額に口付けてもそれほど嫌がらないのだから、もっと深く触れたって良いんじゃないか……と、勝手に決めてしまうのは早計か。
 外に連れ出そうとしたときのナガイは、明らかに怯えていた。
 空の上、もしかしたらそこにあるのかもしれない人間の世界から落ちてきた彼にとって、闇人は敵でしかなかったのだ。まだ、オキタを信じきってはいないのかもしれない。
 ……いや、ナガイは男だ。
 人間にも男女はあるのだろうし、ナガイをつがいにと望みだした自分の欲求が間違っているのも承知の上で……。
「……そこをまず問題だと思う程度には、いかれてるなあ、俺は」
 そもそも、自分を殺そうとしたナガイを助けなくてはいけないと感じた時に十分おかしかった。もしかすると、一目惚れというやつか。
「お前に会うために、つがいを作らずにいたんじゃないかって気がしてるんだよ、俺は」
 両親が死んだ後、友人からは町で商売をしようと誘われたが断り、不便な田舎町の古い家で猟師を続けていたのも。ナガイをこうして囲うためだったのかもしれないと、『運命』なんていうものに信を置けない身が、真面目にそんなことを考えてしまっている。
―― ナガイも、真っ直ぐに俺のところに落ちてくればよかったのにな。
 そうだ、ナガイはオキタの名を知っていた。
 知っていて、子供のように泣きじゃくったのだ。
 オキタのために落ちてきた、などということはないだろうが……やはりそこには、運命と呼ぶしかないものが介在していたのかもしれない。
 そんな、誰に言っても妄想だと一笑に付されるようなことを考えているうちに、ナガイが大きく息をつき、額の汗を手の甲で拭うのが見えた。
「疲れただろ。今日はそれぐらいにしておけよ」
 後ろからやすりを取り上げると、不満そうな目が見上げてくる。まだまだやれるのに、と言いたげだ。
 その頭をくしゃくしゃと撫でてから、また、日除けをきちんと巻いてやった。
「何かするなら、昼飯の後だな。家に戻ろう」
 小屋の出口で差し出した手を、ナガイは迷わずに握ってくる。
 熱い、手のひらだった。




続きを読む 2014/10/18 18:02
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