<前回のあらすじ>
 駅前留学、はじめました。

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 以前はただ季節ごとに流れていくだけだったオキタの時間は、ナガイと共に暮らすようになって密度を増し、濃くなったようだ。
「もう、二週間だ」
 地域の寄り合いに顔を出したオキタは、集落の長が重々しく吐きだした言葉の意味を、一瞬だけ掴み損ねた。
 だが、自分達が集まった理由を思えば、何を指す期間なのかはすぐに悟る。
 怪物が消えてから、の時間だ。
「そんなになりますか」
 思わず呟き、口を噤む。要するに、オキタがナガイを拾ってからの時間だ。もっと短いような気がしていたが、案外と長い。
 オキタの応答を誰も不思議とは思わず、人間が現れたらそれで戦うつもりでいたのか、工具を抱えた者がおずおずと口を開く。
「ここまで出てこないなら、本当に死んだんじゃないか」
「それか、他所に行ったんだろう」
 推測というより希望か願望じみた意見に、年かさの者たちの表情が渋くなった。
「他所に行ったんじゃあ、また死人が出るぞ」
「でも、こんな長い間出てこなかったことは、今までないんですよ」
「どこかに隠れて、こっちの隙を窺ってるだけかもしれませんね」
「亡骸を見つけるまでは気が抜けん」
 お決まりの反発とさらなる反駁、結論が出ない論議が始まるに至って、オキタは内心で溜息をついた。
 念には念を入れて、二日通してミサワと山向こうの衆とで見回りをしたのだ。
 いい加減、安心してくれてもよさそうなものを、ほんの僅かな時間で女子供も情け容赦なく虐殺した怪物の恐怖というのは、そうそう拭えるものではないらしい。
 足跡の途絶えた怪物の捜索は一旦打ち切られ、定期的に山に入るオキタやミサワが異常を見つけたらすぐに皆に知らせる、という結論を出したにも関わらず、この平和な世界にナガイが与えた衝撃はあまりにも大きすぎた。
―― そんなに構える必要はないんだ、あいつはもう人を傷つけたりしない。
 庇ってやりたくとも、弁護の言葉は腹の底に隠すしかない。
「ここで騒いだところで、どうにかなるもんでもないでしょう」
 低いが、よく通る声がオキタの代弁のように場に響いた。
 部屋の隅に静かに腰を下ろしていたミサワだ。
「何かあったら、すぐに知らせます。……あんたらも、犬が騒いだとか、妙な物音を聞いたとか、どんな些細なことでも気のせいだと思わずに俺かオキタに言ってくれればいい。素人が動き回るより、頭の良い獣にも慣れた自分らのほうが対処できる」
 長老と、集まった男衆を諭す口振りで、刺々しくなりかけていた空気が幾分か緩む。無愛想なミサワだが、その揺るがない武骨さが、場を収める役に立つのはありがたい。
 オキタが安堵した矢先、
「怪物を、死骸さえ見つけられなかった『専門家』を信用しろってのか?」
 臆病風に吹かれているわけではないと主張したいのか、生意気そうな若者が尖った物言いで突っかかる。 
―― ああ、馬鹿が。
 山狩りに参加していたものの、終始怯えきって、平地の見回りに行かせていた奴だ。ミサワの頬がぴくりと震えたのを見て、オキタは額に手を当てたくなった。ミサワが青年の意気地をへし折る辛辣な言葉を吐く前に、素早く口を挟む。
「信用してもらわなきゃあ困るよ。こっちは本職なんだからさ。俺らの獲ってきた肉、いつも食べてるでしょ」
 わざと軽い口振りで笑顔を向けてやる。青年は鼻白んだ顔つきで「今度は、怪物の肉でも食わせてくれんのか」と吐き捨てた。
「腹ぁ壊すぞ、やめとけやめとけ」
 尖った物言いをしてはいるが、青年の膝は落ち着きなく揺れている。怖がることにも疲れて、気が立っているだけだ。
 ミサワも平素の無表情に戻り、穏やかな声を発した。
「オキタの言うとおり、こっちはこれで食ってんだ。……あんたらの不利益になることはしない。そうだな、オキタ」
 真正面から目を向けられて、胃の腑をぎゅうっと掴まれたような錯覚が起きた。
 ミサワの眼差しは鋭く、オキタの内心まで見透かしそうな光を帯びている。
―― 気付かれて、る、わけがねえ。
 何も、針の先ほども失態は演じていない。ミサワはただ、自分では大して動きもせず、怯えるだけの者達が不安を発散させるためだけに言い合いをしている無意味さにうんざりして、同じ感慨を持つだろうオキタに同意を求めているだけだ。
 機嫌が悪いから、凄んでいるだけ。
「……そりゃあね。こっちも、怪物の始末をつけないと安心して狩りもできませんから」
 ことさら軽い口調で請け合って、首の後ろを撫でる。
「俺も、ここまで出てこないってなると死んでるんじゃないかと思いますがね。死骸を見つけるか、さもなきゃ失くした靴を探しに化けて出てきでもしたらお知らせしますよ。あぁ、でもあれかなぁ。死体、街に持っていったら高く売れるのかな」
「暢気な野郎だな」
 ミサワの目が呆れを帯びた苦笑を浮かべ、オキタもへらりと笑ってみせた。
 毛筋ほども動揺を悟らせはしていない、はずだ。
 今のナガイはミサワにとってなんの脅威にもならないだろうが……誰にとっても、闇人を殺戮した怪物であることには違いない。存在を知られて良いことなどないだろう。
―― それに。
 ようやくオキタに笑みを向けてくれるようになったナガイに、少しの危険も近付けたくはない。
 年寄り連中に相槌を打っているだけでいい気楽な寄り合いは、本来は頼もしい味方のはずのミサワのおかげで、ひどく気疲れするものになった。

 結局、昼は見回りを立てる、女子供には今までと変わらずひとりで遠出はさせないという代わり映えのしない対策で手打ちになり、ようやく薄氷の上に乗っている気分から解放されたオキタが一息ついたところで、ミサワが声をかけてきた。
「おい、オキタ」
「……なんです?」
 まだ何かあるのか、と、喉元まで出てきた声を飲み込んで如才のない男の顔を向ける。ミサワもごく平静な表情で、
「山向こうの奴に、子犬を頼んでただろう」
 予想とはだいぶ違うことを言った。
「あぁ……」
 そういえば、そんな話をした。
「ちょうどいいのが生まれたそうだ。次に山に行くときに、貰ってきてやるよ」
「え、ミサワさんが」
 演技ではなく驚き、目を丸くする。どういう風の吹き回しか、とまじまじ見つめるオキタに、ミサワは「用のついでだ」と肩を揺らした。
「罠を借りた礼もしていないからな」
「助かります」
「本当ならお前が選んだ方がいいんだろうが……どうせ、山向こうには行かんのだろう」
 山向こうには、オキタが若い頃、少々悶着を起こした相手がいる。それを知っているミサワの言葉には、苦笑いでうなずくしかない。
「はぁ、まあ……すみません、よろしくお願いします」
 頭を下げるオキタに頷き返し、ミサワは言いたいことは言ったとばかりに踵を返す。
「あ、ミサワさん」
 呼び止めて、油紙に包んだ塊を差し出した。
「これどうぞ。駄賃の前払い……ってわけじゃありませんが、鹿肉の燻製です」
 ナガイと食べた残りを燻製にして、ここで売ろうと持ってきたものだ。少しぐらい分けたところで、困るものではない。
「ああ、ありがとうよ」
 口の端で笑い、歩き去っていくミサワをしばらく見送ってから、オキタも馴染みの商店に向けて歩き出した。
 ……ふと、首筋をちりっと炙られるような感覚を覚える。振り向いても、ミサワの背が遠ざかっていくだけだ。かすかな引っかかりは、ナガイに食わせてやる夕飯のことを考えているうちに、何処かに消え失せた。



 帰宅すると、退屈していたらしいナガイが玄関先で出迎えてくれた。彼にはオキタが近付くのが随分と早くわかるらしい。
「ただいま、ナガイ」
「オキタさん、ただ、いま」
 発音はぎこちないが、少し照れ臭そうにかけられた言葉に、頬が緩む。
「今は『おかえり』だからな。お・か・え・り」
「……おかえり……?」
 オキタがナガイの胸をとんとんと人差し指で叩いて訂正すると、ナガイはばつの悪そうな顔で訂正する。
「そう、おかえり。よくできました」
 頭を撫でてやると、抵抗はしないがむっとした顔で早口に何か言われた。ガキ扱いするなとか、そういう類の言葉だろう。
 段々とお互いの存在に慣れてきた今、ナガイの表情はずっとわかりやすくなっている。
「オキタさん、―――」
 青菜を包んだ風呂敷包みを引かれ、なにやら訴えられる。ちらと厨に眼をやったところを見ると、自分が運ぶ、とでも言ったのだろう。
「大丈夫か?」
「だいじょ……る」
 問いかけの意味はわかっているらしく、真面目な顔で頷いてオキタの手から荷物を引き取る。母親の手伝いをする子供のようで何やらほほえましい気分になりながら、脱いだ日除けを上がり框に打った杭に引っ掛ける。
 厨房に入るナガイの足取りは、危なげなくしっかりしたものだ。
 この二週間でナガイは薄紙を剥ぐように体力を取り戻し、以前よりも長い時間を立って歩きまわることができるし、言葉も少しだけ増えた。最初に覚えた言葉が「しか」で、物の名前をいくつか、それと、挨拶の言葉。オキタの言葉を真似るだけのままごとのようなやりとりだが、たいした進歩だ。
 オキタのほうも、ナガイのことで少しずつわかってきたことがある。
 まず、あまり目が良くないということ……どうやら、強い光がないとものが見えづらいらしい。その癖、しまった場所を教えていないはずの薬箱を自分で取ってきたりするので、勘は良いということ。
 あまり見えていないなりに、冷蔵庫を開けててきぱきと物を詰めていくのは、何やら手馴れた様子に思える。
 人間の暮らしというのは、自分たちとそう変わらないものだったかもしれない。
「あ、それは流しに置いておけばいいよ」
 根菜を取り上げた拍子にナガイが微かに息を切らしているのに気付き、肩に手を置いて椅子に座らせる。
「―――……」
「いいから、無理すんな」
 大丈夫なのに、と言いたいのだろう。不服そうなナガイだが、オキタが促すとさして抵抗もせずに腰を下ろした。いかに怪物とはいっても、つい先週までまともに起き上がれもしなかったものがそう簡単に回復はしない。
 ……本当に、見つけたのが自分でよかったと思う。誤魔化しついでに「死体を街に持っていけば」などと軽口を叩いたが、ナガイが叩き殺されるのを最悪として、捕まって街に連れていかれでもしていたら、どうなっていたかわからない。
―― それともやっぱり、体が良くなったらここを出ていくつもりなのか。
 回復を急いでいるようなナガイが何を考えているのか、おおまかな意思疎通しかできない現状では推し量ることもできない。
 やはり疲れてしまったのか、目を閉じて静かに息をしているナガイの頭に掌を伸ばす。
 触れる寸前、ぱちりと開いた目がこちらを見て物言いたげに瞬いたが、構わずに髪を撫でるとナガイは声を立てずに笑う。
「あぁ、―――」
 低く呟かれた言葉は、聞き取れたところで意味などわからなかったろうが……泣くのを我慢するように深い息をした、やけに寂しげな顔が胸を騒がせた。少し乱暴にナガイの頭を抱き寄せ、胸に抱え込むように押し付ける。
 たったひとりで空から落ちてきたナガイの孤独は、オキタでは分かちあうことはできない。それでも、頼って、縋ってほしいと願う。ナガイの心を軽くするためというよりは……ここに、自分に繋ぎとめるためだ。
「―――」
 ぽそりと短い言葉を吐き出して、ナガイの手指がオキタの背に添えられる。無防備に預けられた体の熱さが着物越しに肌に沁み込んで、そのまま、体の芯に居座るような気がした。
 ナガイが小さな溜め息をついて、手を離すのを合図にオキタも彼を解放する……どうにも名残り惜しくて、ついでのように頬を撫でる。指先に細かなざらつきが引っかかって、ん、と声を漏らすのを聞いて、ナガイは苦笑を浮かべた。
「―――、――――」
 自分の頬から顎を撫でて、息を吐く。
「あー……ヒゲか? ……だよな」
 そういえば、ナガイから取り上げて長持ちにしまったきりの道具の中には、髭剃りと思しき刃物が入っていた。……逃げ続ける生活の中でも、身だしなみは忘れていなかったというのが、人間という生物が伝説にあるような恐ろしいばけものではないのだと改めて実感させる。
「後で剃刀出してやるよ。なんなら、剃ってやろうか?」
 少し楽しそうだ。
 オキタの言葉はわからないなりに、なんとなく不穏なものを感じとったらしい。軽く、小突かれてしまった。
 それは構わない。オキタにはまだ、別の楽しみがある。


 食事を終えると、ここのところは毎晩の習慣になっている、オキタによる清拭の時間がやってくる。抵抗されても意に介さず続けたせいか、ナガイは、上半身はオキタにされるがままに拭かれるのだが、腰から下は頑として許そうとしない。
「―――!」
 顔を赤らめ、オキタの腕を掴む左手は力強い。
 オキタの手で拭かれるのは断固拒絶。これは、初回から変わらない。
「はいはい、ここからは自分でやるんだよな?」
 布巾を渡すと、ナガイは桶に勢いよく浸け、濯いで水気を切る――右腕はまだあまり踏ん張りが聞かないらしく、絞りきれないのを手伝ってやると警戒心も露わに睨んできた。
「大丈夫だって。ほら、見てるだけだから」
「―――……!」
 言葉は通じていないはずだが、腰近くまではだけられた夜着の襟をきちんと合わせつつ、忌々しそうな舌うちつきで凄みの利いた声を出したのは『見るのをやめろ』と、まあ、そういった類の台詞だろう。
 ナガイは布団の中に手を突っ込み、やりづらそうにごそごそと動く。
「男同士なんだし、別にいいだろ……俺はお前の身体、全部見てるんだぞ」
 布団を剥いだとたん、ナガイはオキタを突き放す動きで布団の端を引ったくり、体を隠してしまった。一瞬だけ見えた脚は、脛骨が目立つように痩せていて、それがますます野生動物じみている。
 肩も背も薄いが、もっと食わせなきゃなと暢気に思うオキタに向けるまなざしは、久々の化け物らしい獰猛なものだ。
「あーわかったわかった、恥ずかしいんだな。じゃあ、後ろ向いてるから」
 調子よく請け合うオキタが信用できないのか、ぐ、と肩を掴んで強引に押し、背を向けろと促すナガイは口をへの字に曲げた顔だ。いつも以上に熱い手のひらは、怒っているのではなく、ひどく恥ずかしがっている。
 そのそぶりが愉快で、からかうのがやめられない。
 やはり、可愛いとしか思えなくなっている。こんな愛らしいいきものに怯えきっている皆を、滑稽に感じるぐらいだ。
―― ……お前みたいなのがどうして、女子供構わず皆殺しなんてしちまったんだ。
 繰り返し浮かぶ疑念を飲みこんで、オキタは首だけで振り向き、布団の中でごそごそと手を動かすナガイに呼びかけた。
「なあ、ナガイ。明日は風呂に入ろうか」
「――!」
 もう済んだか、と問われたのだと解釈しただろう、言葉はわからないが、制止の意図を含んでいるのは理解できる鋭い声が飛んでくる。
「ちょっとぐらいいいだろ、男同士なんだし」
 そうも恥じ入られると、自分がナガイに無体でも働かなければいけないような気分になる。
―― 洒落にならないな。
 頑として拒む場所も余さず暴いてやって、ナガイの体の端から端まで貪り尽くす想像をしてしまい、オキタは強く瞬きをした。
 悪くないと、思ってしまった。
 弱っていた時は薄く頼りなく感じたが、日を追うごとに瑞々しさを取り戻していく奇妙に熱い肌の感触は、もう、世話を焼く掌に馴染んだものだ。男同士だという以前に、自分達とは異質ないきものの証であるというのに……もっと触れたいと、いつも、思ってしまう。
 なにより、ナガイを腕に抱いた時の充足感は他の何にも代えがたい。
 自分達がつがいの莢なら、結ばれるのは自然な流れだ。
「……男とでも、子供は貰えるのか?」
 開き直って、馬鹿なことを考える。
 子をもうけるには、つがいになった相手と揃って海の太母に願わなくてはならない。そうして初めて、資格があるとみなされたつがいの元に、莢に入った子が与えられる。
 しかし、身体を繋げるのはつがい相手でなくともできる……オキタとて、もう少し若い時分には街に降りていって、娼館で女を買ったりしていたのだ。金で買える女はあとくされのない楽な相手だった。
 金の要らない繋がりが面倒だというのは、もっと、うんと若い時分に骨身に沁みた。
 山向こうの、とうにつがいの相手を持っていた女が、つがいが遠出して寂しいからと袖を引いたのに付き合って……随分な目に遭ったのだ。それ以来、山向こうの村には足を踏み入れ難い。
 人あしらい、女あしらいが上手いと褒められるが、それは、誰にも深入りせずに逃げられるようにしているから上手く立ち回れるだけ。根は臆病な面倒臭がりなのだと、自分で思う。
 それが、怪物を家に引き込んで、ままごとのように暮らして、つがいになることを望んでさえいる。
「でもなあ……嫌がる相手を無理やり、ってのは駄目だろ」
 それこそ逃げ出されかねない。
 他のより大きな問題は横において、卑近で俗な障害を口に出した肩を、とん、とつつかれた。
「ん?」
 振り向くと、着衣を整えたナガイがどことなく気遣わしげな目でじっとこちらを見つめていた。
 洗った手ぬぐいが桶に引っ掛かっているのを見ると、きわどい部分もちゃんと拭けたらしい。
「どうした?」
 問いかけても答えないまま、大きな目で見上げてくる様子がいじらしい、と沸いたことを思う。
 戯れに喉をくすぐってやると、ナガイは「あ」と「え」の中間のような声を出して大げさにびくつき……布団の上で平伏すようにうずくまってしまった。
「おおい、ナガイー?」
 丸まった背中を平手で軽く叩くと、動物じみたうなり声が返ってくる。
「触られるの、そんなに嫌か?」
 今までの態度では、面食らったりはしているが、とても嫌そうには見えない。
 それよりも、丸くなってしまったナガイの無防備なうなじや、肉付きの薄い腰に悪戯心が刺激される。剥き出しの肌を拭いている最中はそれほど不埒な気持ちを起こしていなかったが、布の下にある熱さや意外な滑らかさを知っているだけに、なんとなく、そそられてしまう。
 しかし、あまり構って嫌われても困る。気まぐれな猫を相手にする気分で、「わかったよ」と軽く背中を叩いた。
「もうしないって」
 先刻、剃刀を出してやる約束を……一方的にだが……していたんだったかと思い出して、ナガイの腕を軽く引く。
「ナガイ、こっち来て」
 しかし、ナガイは意固地に動こうとしない。よほど機嫌を損ねてしまったのか。それとも、人間は喉を触られるのを極端に嫌うのか……それはない、と思い直す。
 うなじも喉元も、手拭いで拭く分には抵抗なくさせていたのだ。となると、くすぐられるのが苦手なのだろう。
「じゃあ、今日は寝ちまうか」
 そろそろ月が出る刻限だ。
 立ち上がり、桶に入ったぬるま湯を洗い場に捨てるために持ち上げつつナガイの様子を伺うと、顔だけあげてこちらの様子を窺っているのと目が合う。
 視線が交わったとたんに顔を伏せてしまうのがおかしくて、オキタはひとしきり笑った。


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 まただ。
 オキタから奪い取った手ぬぐいを握り締め、永井はこっそり溜め息をついた。
 体を拭かれるのは気持ち良い。
 オキタは実に楽しそうに永井の世話を焼いてくれるし、敵意のないことはもうわかりきっている。
 裸を見られるのは別に良い。自衛隊での集団生活で慣れているし、迷彩服を脱がして着替えさせたのはオキタだ。今さら隠したって手遅れだろう。
 ならば何も問題はないかといえば……大ありだ。
 てきぱきと拭いてくれるのは良いのだが、普通、他人の手には触れさせない場所までやろうとするのは非常に困る。こっちは動けないほどの重病人でもなければ、お風呂もパジャマも親がかりの幼児でもない。オキタが与えてくれる食事のおかげでいたって健康で元気な成人男子なのだ。
 お互いにそんな気はなくったって、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 長い間、誰かと会話するどころか人間らしい触れ合いというものを忘れ去っていたせいで、余計にオキタの手が恋しくなるのもいけない。敵意の欠片もないしぐさで何気なく触れられるたびに、妙に浮ついた気分になるのだ。
 それに、オキタは夕飯の跡に風呂に入るから、湯上りのにおいがする着流し姿で、妙に艶っぽいのもよろしくない、と思う。出かけるときは日除けの布をぐるぐると巻いて隠してしまう首筋や、すっきりとした鎖骨のあたり、案外と厚みのある胸元がよく見える。
 同じ白でも島にいた化け物たちと決定的に違う、連中の白蝋のような肌とは違う、自分達とは肌の色素が違うだけというのがよくわかる「生きている」艶を持つ肌からは、永井のように周囲に熱を放射することはない。それでも、いきものの気配だけは濃厚に醸し出している。
 だから、いやおうなく、オキタが……そう呼んで差し支えなければ、自分とは少し姿が違うだけの「人間」だというのを意識してしまうのに。
 オキタは、永井が沖田や仲間のことを思い出してしまって、人恋しくなったタイミングで寄ってくる。今日もそうだ。オキタの視界を借りるために目を閉じていたのを、弱っているのだと解釈したらしい彼が頭を撫でてくるやり方が、沖田がふざけて人を子供か犬っころだか、小さいもの扱いしてきた時とまったく同じで……同じだと思ってしまったら、ますます泣きたくなった。
 そんな気分の時に、慰めるように抱き締めてくるから、オキタの胸がきちんと鼓動を打っているのを確かめて、安堵してしまう。
 姿こそ、あの島にいたやつらと同じでも、血の通っているいきものなのだと実感して、離れがたい気分になる。
 もっと触れてほしくて、触れたくて……うかつな場所を探られたら、体があらぬ反応をしてしまうんじゃないかと、確信に近い恐れがある。……本当は、永井の体を支えるために背中や脇腹に触れてくる手のひらで、十分に危うい。湯で温まった大きな掌が肌を滑るたび、体の奥の方が変な風に疼いてくる。
 以前は、体のあちこちに擦り傷があったせいで拭われる肌にところどころぴりぴりとした痛みがあったが、今はそれもないので、気が紛れやしない。
 そんな場合じゃないし気を許しすぎだろう、この人はオキタさんだけど闇人なんだ、と、自分に言い聞かせても、身体は納得してくれやしない。他人との……『人間』との接触にどれほど餓えていたのか、目を閉じてしまえば人間と何ら変わりのない手に甘えたくて仕方なくなる。
―― 俺が変な風になったら、気まずいだろ……。
 オキタにしてみれば、文字通り毛色の変わったいきものを拾って、世話を焼いているというだけの話だ。薄気味の悪い思いなど……いや、思考回路まで沖田と似ているオキタのことだから「若いんだからこういうこともあるよな! 大丈夫だよ、俺は気にしないから」と受け流してしまうかもしれないのだが、それはそれで永井がいたたまれない。
 平常心と男の矜持を保つためにも、ごくプライベートな領域には踏み込ませずにおきたい。
―― 遠慮なさすぎなんだよ、このひと。
 最初に会ったときに、自分に殺されかけたのを忘れているんだろうか。
「それとも、こっちじゃ普通のことなのか……?」
 まさにその、あらぬ場所をごそごそと拭いている最中に。
「ナガイ、―――?」
 イ〜、と、最後の音を延ばすやり方で呼んで、視界を伺わなくてもわかる振り向く気配がして焦る、
「まだです!」
 大声で制止してしまってから、あわてて口を噤んだ。
 自分がここにいることが露見すると、オキタも立場が悪いというのはもうわかっている。ナガイが把握している限りでは二度ほどしかないが、誰かがここを訪ねてきても、オキタはナガイを部屋の隅にいるようにと身振りで示して、外でやりとりをして済ませているのだ。
「―――」
 なにやらぼやくように言って、後ろを向いてくれたオキタの様子では、今のは大丈夫だったらしい。念のため、すばやく視界を探ってみても、このあたりを通る者もいない……それはそうだ、もうすっかり陽が落ちて、ただでさえ薄暗かった世界はオキタの目を通さなければものの輪郭さえあいまいにぼやけだしている。
 口振りからしてよからぬことを言われた気もするが……さっぱりわからない。
 どうやら、闇人達の言葉は日本語に近い……というより酷似したものだ。言葉の並び方は同じ、ただし、発音が随分と異なる。
 名前は同じだし、いくつかの物の名前も、まるっきり同じではないが似た音を持つのがわかった。彼らの言葉を聞くたびに、田舎のひどい訛りをを聞いているような気がしたのはそのせいだろう。
 オキタとの会話も、場の状況と音の長さ、さらにオキタの表情を注意深く拾っていけば、なんとなく、ではあるが、こういうことを言っているんだろうと推測することはできる。
 それにしたって限界はあるので、まともなやりとりには至っていない。
―― いろいろ、話せたらいいのにな。
 複雑な会話は無理だとしても、もう少し、言葉を覚えたい。
 そんなことを考えているうちに、どうにか体を拭き終わり、外には出ていないのでそう汚れてはいない手ぬぐいを、手探りに探り当てた桶に張った湯の中で絞りきり……薄闇のなか、こちらに背を向けたまま動かないオキタの後ろ姿を眺める。
 日除けの布を被っていなければ、薄暗い場所で見るおぼろげなオキタの背格好は本当に沖田そのままだ。
―― 沖田さん。
 声には出さず、唇を動かして呼んでみる。
 沖田が自分を庇って死んでしまったように、オキタも自分を助けて……そして、どうなるのだろう。
 もし永井を匿っていることが他の闇人に知れたら。この世界に警察組織があるのかどうかは知らないが、捕まって、裁きでも受けるのだろうか。
―― いきなり殺される、ってことはないよな……。
 永井はともかく、オキタは闇人の仲間だ。……初めて会った時に持っていた銃、あれで、永井を殺すつもりでいたんだろう、きっと。
「なんで、助けてくれたんですか」
 低く呟き、のばした指先で肩に触れてみる。
「ん?」
 すぐに振り向いたオキタはやはり闇人の容貌をしていて、それでも穏やかな眼差しで、どうした、というように優しい音の連なりを重ねる。
 訊ねたいこと、知りたいことは山ほどあるのに、なにひとつ伝えられないことがもどかしくて、永井は暗がりに溶け込みそうなオキタの目をじっと見つめた。目は口ほどにものを言う、というなら、この目から何か読み取ってくれないだろうか。
 と、オキタから微かに笑ったような気配がして、無造作にあげた手に喉元をくすぐられる。猫を可愛がるような……さもなければ、恋人にでもするような仕草に体の芯がぞくりと震えて、思考の一切が吹き飛ぶ。
 人体の急所に触れられて走ったのは不快な戦慄ではなく、むしろ。
―― 嘘だろ!
 咄嗟に、腹を庇う、あたかも土下座のごとき体勢で体を丸め、身を縮める。
「おーい?」
 オキタが暢気そうに呼びかけてくるのには、唸り声を返すしかない。
―― やばかった、今の、やばかった……!
 オキタの世話になってから……否、あの島に墜落してからこっち、一切の処理をしてこなかったツケが、ここに来て回ってきたに違いない。人恋しいにしたって無節操にも程がある……あまりの情けなさに穴を掘って埋まりたくなってきた。
 だいたい、昼間にオキタにも指摘、といってよいのか気にされてしまったが、薄いながらも無精ひげの生えてくるむさくるしい男が恩人に甘ったれてべたべたするだけでも寒いのに、くすぐられて欲情などしてしまった日には目も当てられない。
「ナガイ」
 腕を引かれ、立ち上がるよう促されたが、とてもじゃないが顔を合わせられない。
 永井の懊悩をどう受け取ったのか、オキタはなにやら諦めた様子で、汚れたぬるま湯の入った桶を片付けだした。最初の数日は2、3回も湯を変えていて、水浴びはしていたのに、自分はそんなに汚れていたかと情けない気分にもなたが、もう一回で済むようになっている。
 亀の子じみた体勢から首だけ動かして様子を窺うと、こちらを見たオキタと目が合った、らしい。あわてて顔を伏せると、声を出して笑われてしまったが、気分はさほど悪くない。
 桶を片付けて戻ってきたオキタはてきぱきと自分の布団をナガイの隣に敷き、就寝の挨拶らしい言葉をかけてきた。
「『オヤスミ』……なさい」
 同じ言葉をおうむ返しにすると、オキタの手のひらがくしゃりとひとつ頭を撫でて離れる。無意識なのかも知れないが、永井が何か新しい言葉を覚えるたび、オキタは頭を撫でてくる。気恥ずかしいそれが、いつのまにか、心地よくなっていた。
 オキタに倣って布団に潜り込んでも、たいして眠くはならない。オキタの留守中、このあたりの……といってもだいぶ遠いためノイズがかった視界を探る以外は特にすることもなく、オキタの家の中を動き回ったり、換気窓から見える外を眺めたりとぼんやり過ごしていたせいだ。まんじりともせぬまま、意味も無く寝返りをうつ。
 しばらく目を閉じて、時間が過ぎるのを待つうちに、瞼の上に淡い光を感じた。持ち上げた瞼が、換気窓から差し込む月光を捉える……闇に慣れた目には眩しく思えるほどの白い光は、部屋のなかを穏やかに照らしていた。
 オキタは眠ってしまったろうか。
 静かに上掛けを剥いで、オキタの寝顔を覗き込む。髪は黒いのに、繭の色が極端に薄いせいで人間離れして見えるが……高い鼻筋、笑うと愛嬌の塊になる切れ長の目、今はきちんと結ばれているが穏やかな声を紡ぐ唇は、やはり、見れば見るほど沖田そっくりだ。
 もしかすると、鼓動の音も同じかもしれない。
 ……腕の中で次第に弱くなっていった呼吸、冷えていく体を思い出す。意識を失くす寸前、泣き喚く自分をぼんやりと見詰めて、微かに唇を動かしたあのとき、沖田はなにを言おうとしたのだろう。
『挫けんなよ、永井』
『永井、根性出せよ』
 沖田の体を使って、常軌を逸した不愉快な笑みでもって永井を死に誘っていたあのばけものが、沖田の最期の声を伝えていたんだとしたら……とても、耐えられない。
 もし、オキタが沖田とつながりのある存在なら。
―― オキタさん。なにか言ってくれよ。あんたの言葉で、俺に、なにか……。
 馬鹿げたことを願ってしまう。オキタが、沖田のほんとうの言葉を自分に伝えてくれるんじゃないかと、間違った期待を持ってしまう。
 潤んだ目を瞬かせ、永井はそっと、オキタの胸の上に手のひらを置いた。
 上掛け越しでは体温も鼓動もわからないが、寝息で上下する胸の動きは伝わってくる。
―― このひとは生きてて、あしたも、俺にはなしかけてくれる。
 オキタに拾われるすこしまえ、出口のない泥沼を這い回るような逃亡の果て、熱っぽい体をつめたい岩場に横たえて、三沢の言葉がやけに鮮明に甦ってきたことを思い出す。
『夢なら、あたたかい布団で目が覚める。夢じゃなかったら、そこで終わり』
 ばけものになった、永井がそうしてしまった三沢は、夢から醒めろ、と嗤っていた。……悪夢の中で、誰よりも現実を認識していたひとが、永井の生を否定して、ひとではなくなってしまった。
 三沢が正しかったと悟ったのは、市子が錯乱し、一樹から百合が人間ではなかったと聞いたときだ。
 それまではまだ、三沢がおかしくなってしまったという大義名分があった。自分がどれほど馬鹿だったのか、取り返しのつかないことをしてしまったのか、思い知ったときには、頼れる者など誰もいなくなって――自分で招いた孤独のなかで死んでいくんだろうという諦めと、まだどこかに帰る道があるんじゃないかというあてのない希望、沖田に助けられた命を自分で捨てられないという狂気に近い意地が入れ替わり立ち代わり、永井の体を動かしてきた。
 それでも本当は、心のどこかでは、この夢の終わりを望んでいたのに。
「……醒めるのが怖いよ、オキタさん」
 上掛けを掴む指に、力が篭もる。
―― オキタさん、オキタさん。あんたは夢じゃないって、信じていいのか。
 沖田そっくりのひとが助けてくれて、穏やかな時間を手に入れているこの状況が全て狂気に陥った頭が見せている夢で、寂しさと餓えを忘れるために感情を殺して、生存することだけを目標に黒い太陽を憎みながらこの世界の夜をさ迷い続けている自分のほうが現実だったら。いっそ、狂ったまま死ぬほうがましだ。
「ふ、……う、……っ」
 勝手に喉奥からこみ上げてきた嗚咽を飲み込み、あふれる涙を乱暴に拭う。それでも止まらない涙がオキタの上に落ちて、上掛けに染みをつくった。
「ナガイ……?」
 眠そうにぼやけた声に呼ばれ、顔をあげるとオキタが目をあけてこちらを見ている。
「―――」
 上体を起こしたオキタの指の背が永井の頬骨のうえに触れ、涙を拭った。そのせいで余計に、肺が波打つ錯覚が起きるほど咽ぶ。
 いつかと同じように、オキタの腕が永井を抱き寄せて片手で背をさすってくれる。オキタの肩に縋ると、より強く、息苦しいほど抱き締められた。
―― あったかい。
 眠っていたせいか、闇人のぬるい体温が人肌ほどの熱として伝わり、不安に波立つ永井の心を包む。
「―――、――――」
 宥める声音が耳元で響いて、懐かしいオキタの香りと共に永井の一番深く、脆い場所に巣食う虚ろを埋めていく。
「なんで……俺、わかんないんだろうな、あんたの言うこと、わかんないんだよ」
 涙声で笑い、永井は優しい温度が唆すままにオキタの背にしがみついた。
 これが夢なら、きっと、オキタは永井がほしがる言葉をくれる。あの化け物のように、親しげに、優しげに。
 もどかしい部分があるから現実なのだと、今はそう、納得したい。
 涙が止まっても、永井はオキタの胸に体を預けたままでいた。もう少しだけ、生きている温もりを感じていたい。
「ナガイ」
 するりと頬を包み、おとがいを持ち上げる手指に逆らわず、それでも名残惜しさでオキタの身に腕を回したまま、顔を上げる。二度めとはいえ、みっともなく啜り泣いたあとの顔を見られるのは恥ずかしさもあるが……オキタがどんな表情をしているか、呆れているのか、同情しているのか、確かめたい気持ちもあった。
 見上げたオキタの顔は、そのどちらでもない。真剣で、何かを探るような目をしていた。
「ナガイ」
 もう一度、オキタはやわらかさを含んだやりかたでゆっくりと呼んで、涙の跡を親指の腹で頬を擦る。そうしておいて、少し身を屈めて――永井の目の下に唇を触れさせた。
―― へ?
 ごく軽く、食む動きでやわらかな感触が頬を啄み、離れる。永井が呆然としているうちに、両腕で抱き締められ、布団の中に引っ張りこまれた。
「ちょっ……と、オキタ、さん……?」
 四肢を絡められ、男の腕に抱かれた格好で身動きが取れない。
 身を捩らすと、いいから、と言わんばかりに背中をぽんぽんと叩かれた。ふう、と息をついて、そのまま動かなくなる。……穏やかな呼気は、眠りかけているようだ。
「俺は抱き枕じゃないですよ」
 どきどきと早鐘を打つ心臓を誤魔化すようにぼやいて、永井も目を閉じた。
 こんなの、夢じゃない。


続きを読む 2014/05/27 09:19
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