「奪(中略)の沖永を妄想する試み:その5
→ もくじ。
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ふたたび板の間に辿りつくと、オキタはナガイを床に寝かせ、諭すような口振りで何事かを言いながら、被せた上掛けの上を掌でぽんぽんと叩いた。 まだ寝ていろということなのだろう。 「眠くないんですけど……」 布団の中から不平を零すと、ひやりとした掌に目を覆われる。柔らかな闇に促されて目を閉じると、眠気が忍び寄ってきた。散々眠ったのに、身体にはまだ疲労が蓄積していたらしい。 麻痺していた腕の傷も、鈍痛を訴えてくる。 ――― それとも……安心してんのかな、俺。 ずっと張りつめていたものが解けてしまった今、体と心の両方が休息を欲しているのだろうかとぼんやり思う。優しい手が甘やかしてくれるのなら、それに従ってしまいたい。 掌が外されてもしばらく、枕元でこちらの様子を伺っていた気配が遠ざかるのは感じていたが、すっかり重くなった瞼を持ちあげることはできなかった。
ナガイが眠ったのを確かめ、オキタはそろりと立ち上がった。このまま傍についていてやりたいが、ミサワとの約束を違えるわけにはいかない。 自分の食事を手早く済ませ、身支度を整えて家を出る前にもう一度様子を伺うと、ナガイは乱れのない、穏やかな寝息を立てていた。 ここにいれば安全だというのは飲み込めているようだし、自分がいなくても無闇に動いたりはしない……はずだ。 「おとなしくしててくれよ」 あどけない寝顔の頬に触れたいのを我慢して、起こさないように静かに外に出る。 そうして戸を開けたところで、オキタはぞわりと肌が粟立つ戦慄を得た。 狩った獣の解体小屋を持っているため村外れに構えたオキタの家に向かう一本道、赤い頭巾の男が足早にこちらにやってくる。 ――― ミサワさん。 昨日、彼はオキタを疑っている素振りを見せていた。その場ではうまく誤魔化せたと思っていたが、早計だったのか。 喉奥に湧きだした緊張の唾を飲み込み、オキタはひとつ息を吸ってから、ゆっくりと足を踏み出した。 「どうしたんですか、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」 「……借りたいものがあってな」 如才なく話しかけるオキタに対し、ミサワの表情はごく平静なものだ。猟銃を構える様子もない。 「借りたいものって?」 さりげなくミサワの進行を塞ぐように立ち、問い返すオキタもまた、表面上は平静を保っていた。 「虎挟みだ。手持ちが足りなくなった」 以前、オキタが罠猟の話をしたのを良く覚えていたらしい。 内心でほっと胸をなでおろしながら、オキタは普段の彼らしく眉をそびやかした。 「そりゃ構いませんがね。きのう言ってくれりゃあ持って行ったのに」 「手数が増えたんだよ。聞いてたより、来る人数が多い」 「人間が手負いで死んだかもしれねえとなりゃ、出くわして怪我する割合も低いですからね。怖いもの見たさで来る冷やかしも増えるわけだ」 暗に、山側の人間の臆病を謗ってみせると、ミサワは「そう言ってやるな」と微かに苦笑した。 「面と向かって言いやしませんよ。……で、なんでまた罠なんです?」 「ヤツが生きてた時の用心にな。奴が行きそうな水場や、村の外に置く」 「……そりゃまた、周到なことで」 「死んだと思わせて、油断させるつもりかもしれんだろう」 オキタがぎくりとするようなことを言ったミサワの目が、ふと眇められる。 視線の先にあるのは、解体小屋……その脇に置いたままの空の犬小屋だ。 「犬、まだ手に入れてないのか」 「ああ……別に、焦っちゃいませんから」 猟を生業にする者にとって犬は頼れる相棒だが、良く懐いていたのを半年ほど前に亡くしてから、次の犬を手に入れる気になれず、銃の狩りよりも罠猟を専らにしているのが実情だ。 考えようによっては、良かったかもしれない。犬がいたら、弱ったナガイに後れをとることはなく……殺してしまっていた気がする。 「今日、山向こうからくる加勢は犬を連れてくるそうだ。子犬の融通を頼めるんじゃないか」 「そうさせてもらおうかな」 これは本当に、ナガイを匿ったタイミングで良かった。犬の嗅覚は侮れない。 「じゃあ、五、六個見つくろってきますね……ミサワさん?」 ミサワの目線は、解体小屋からオキタの住居へと移っている。 外観上は、中に希代の怪物を眠らせているなどまったくわからない、何の変哲もない家だ。 ――― それとも、この人には何か変わって見えるんだろうか。 動揺を押し殺し、オキタは務めて陽気らしく首を傾げた。 「なんです、ひとやすみでもしていきますか? 悪いけど白湯しか出せませんよ。一人だとどうも不調法でね」 ここでミサワが応と言えば面倒なことになるが、彼の性格上、人間の捜索に気を取られて暢気に休む気はないだろうと誘いをかけてみる。 「一人、か」 抑揚の薄い呟きに、軽く笑って首を振る。 「寝ても起きても一人っきりです。それこそ子犬でも貰えば、ちょっとは張り合いが出るかもしれませんね」 「ああ、そうしろ。てめえは、愛想が良い癖に誰も近寄らせないからな」 やはり、無関心なようで人のことを良く見ている。 両親が次々と病に倒れて一人になってから、オキタは仕事上の用がある人間でもなければ家にあげていないし、そもそもあまり深く他人と関わろうとはしなかった。 理由らしい理由はない。 強いて言うなら、『違う』という感覚がつきまとっていたからだ。傍に置きたい他人を無意識に捜しては、どれもこれも違うと切り捨ててきた。 とはいえ、それはあくまで内面の話だ。表向きは、オキタは子供の頃から誰にでも愛想が良く、如才ない好青年として扱われてきた。 言葉少なで、かと思えばこんな風に人の内側に入りこむような話し方をする不器用なミサワのほうが、よほど、とっつきにくい雰囲気にあふれている。 「それはミサワさんでしょ。……愛想もないけど」 小声でつけたした軽口に無言で睨まれ、オキタは笑いながら「罠とってきます」と家の裏手に回った。 ミサワの視界から姿を隠したとたん、鼓動が高鳴り、汗が噴き出してくる。 ――― どうにか、切りぬけた。 壁一枚の向こうで、ナガイが何も知らず眠っているのだ……早いところ離れてしまおうと、納屋から虎挟みを持ち出し、ミサワの元に戻る前に平静な表情を取り繕う。 些細な変化も、気取られないように。
山向こうから来た加勢は、オキタの読み通り、怪物の屍骸を拝んでやろうという物見遊山気分の者が多く、半ば恐れ、半ば期待しながらの探索には当然ながら成果が上がることもなかった。 念入りに罠を仕掛けるミサワ達を見ると、些かの良心が咎めないでもないが、これで皆がナガイの『死』を納得してくれれば徒労も御の字だ。 ただ、ナガイの靴で臭いを覚え、海で途切れたそれに困惑する犬が、うろうろとその場を回ったあげく、オキタに吠えついてきた時だけは閉口した。 もちろんそれを見越して、ナガイが身を隠すために包まっていた防水布を岩棚から『発見』する、という茶番を演じていたのだから、本当に困るようなことはない。 「これも、人間のものってことか? ……血がついてますね、やっぱり、死んでるんじゃないですか」 「海に落ちて死んだなら、母御前様の罰が当たったんだろ。当然の報いだ」 ははごぜさま、と、山向こう特有の呼び方をしながら海を拝む男に、内心で頭を下げる。 どうかそのまま、勘違いしていてほしい。 ナガイはもう、自分のところにいれば誰も殺さない。そのはずだ。 「……どうだかな。今まで逃げのびてきた狡猾な奴だ。まだしばらくは、気を抜くんじゃない」 「ミサワさんは疑り深いなぁ」 「用心深いと言え」 「いや、ミサワくんの言うこともごもっともだ。我々も、人間が通りそうな山道に罠をかけておきますよ」 決して人当たりが良いとはいえないミサワだが、落ち着いた指示と、少ない口数を増やす言葉を引っ張りだすオキタとのやりとりを見ている男達は、すっかりミサワを信用したらしい。 男衆を率いるまとめ役が頷くと、それもそうだ、と、楽観的な雰囲気がぴりっと引き締まる。 ―― 味方としてはこの上なく頼もしいが、さっさと諦めてほしいのが本音だ。 余計なことを、と舌打ちしたいのを堪え、オキタも「そうですね」と神妙に頷いておいた。
大規模な捜索はひとまず打ち切り、後は様子を見て、人間が再び現れるようなら全力で狩りだす。 今後の方針を決め、集落での歓待を受けるという男衆とミサワに別れを告げたのは、昼下がりのことだった。おそらく、宴席は夜まで続くだろう……夜の脅威から放たれた皆が、それを望んでいる。 「なんだ、ただ酒となれば食いつくんじゃなかったのか」 「ご相伴にあずかりたいのは山々なんですけどね。ここんとこ、人間捜しに忙しくて俺の仕事が疎かになってますんで。皆さんが村にいてくれる間に、箱罠を見て回りたいんですよ。人間がハマってたらミサワさんに教えますんで、期待しててくださいね」 「そんな間抜けな奴だったら誰も苦労しねえよ……」 餌につられて中に入り込んだ動物を閉じ込める箱罠は、オキタの得意とする猟法だ。 自分で仕掛けを作り、若い猪も捕まえたことがある。……人間が入れる大きさではないし、ミサワの言う通り、ナガイはそんな見え透いた罠にかかってくれるようなものではない。 呆れて首を振るミサワに「じゃあ、後はよろしく」と明るく笑い、家路に向かうオキタの頭の中には、もう、ナガイのことしかなかった。
たった数時間離れていただけだというのに、ナガイに何かあったらどうしようかと不安が込み上げるのは、過保護というものだろうか。 立場上も、実際問題としても、ナガイに出くわす闇人の心配をすべきなのだが、そんな心境にはなれない。 出かける時と変わらない様子の家にほっと安堵し、戸をきっちりと締めて、早足に踏み込んだ板の間。まず、敷いていた場所にきちんとたたまれた布団が目に入った。 部屋の中には誰もおらず、しんと静まり返っている。 ―― 出ていった、のか。 まだ出歩けるような体ではないのに。やはり離れるのではなかった、と、混乱と後悔、寂寥と焦燥の入り混じった痛みが胸を刺した時、微かな物音が厨房から響いた。 ナガイだと直感した時には、オキタは弾かれたように駆けていた。厨房の板戸を引きあけると、流しに片手をついたナガイが、湯呑みで水を飲んでいる姿が目に入った。 「ナガイ……!」 オキタの剣幕に目を丸くしたナガイに大股に近づき、腕を引っ張る。 簡単によろけた体をさらに引き寄せると、ナガイが慌てたような声をあげた。構わず、ナガイの背中と腰を両腕で押さえて薄い体を自分の身に押し付け、強く抱きしめる。 「オキタさん」 戸惑った囁きで呼びはしたものの、ナガイに抗う気配はない。手袋越しにも触れた体温は高く、首筋に感じるナガイの息も熱い。 背を撫でる己の指先が震えていることを、オキタは驚きもなく受け入れた。 「……いなくなったかと、思った」 この手から離れて死んでしまうのかと思った時、胸に噴き上げた激情は、ナガイを失いたくないという強烈な――執着に近い願いだった。 まるで、彼を失くしたことがあるようだ。ナガイを抱いていると、胸に詰まった、悪夢から醒めた子供のような不安と安堵を一緒くたになった固まりが、少しずつ溶けてほどけていく。 こと、と小さな音が響き、ナガイが湯呑みを流しに置いたらしいのが知れた。少しの逡巡の気配を置いて、おずおずと日避けの外衣を掴んできた手がいじらしい。 そのまま、互いに言葉もなく寄り添って、静かな呼吸と温もりを感じていたのはどれだけだったか。 蛇口から落ちた滴が、ぽちゃんと大きな水音を立て、ナガイの肩が跳ねたのをしおに、オキタは腕を緩めた。感情に衝き動かされて行動するなど、もう長い間忘れていたことだが――これは少し、常軌を逸していたと自分で思う。 身を離したナガイも、探るような、物言いたげな表情でオキタを見上げている。 言葉は通じないが、何をどう示したものか。 しばらく迷った末に、オキタは気の抜けた笑みでもってナガイを見つめた。 つまるところ、ナガイが無事で、ここにいてくれて、安心したというだけのことだ。。 懐に入れた窮鳥が飛んでいってしまったわけではないと、緊張が解けたことでちょっと箍が緩んだだけだ。ミサワの言うとおり、ながらく他人との距離を空けすぎていたから、自分から傍に寄せたナガイを離しがたいのだろう、きっと。 「腹減ったろ。メシにしようか」 平手で肩を優しく叩くと、ナガイは目を逸らして小声で何か呟き、溜息をついた。 『わけがわからない』と、たぶん、そんなふうに呆れているのだろう。 ―― 俺もわからないよ、ナガイ。 出会ったばかりの異形の何が、これほどまでに自分を惹きつけるのかさっぱりわからないが、彼を護りたいという願いだけはまるで生まれた時からオキタの心臓に根を下ろしていたように脈打っている。 案外ほんとうに、つがいなのかもしれない。 だとしたら、女神も随分と悪趣味な悪戯を用意したものだ……受けて立つ覚悟なら、ナガイを拾った時にできているが。
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