前回:「キミなの? それとも、似てるだけ……?」

そして続き。

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 陽が昇り、夜空を白く切り裂く月を駆逐する、黒い輝きが東の空を染める刻限。
 寝床を人間に譲ったために、板の間に敷いた筵の上で薄掛けを被って眠りについたオキタは、光の気配で目を覚ました。
 つられるように覚醒した人間は、運び込んだ時に比べれば驚くほど回復しているように見えた。それに、あの時のような殺気を向けてこないのは僥倖だ―――このまま大人しくしていてくれれば、悶着の種はひとつ減る。
 言葉は通じないものの、明らかにオキタに向けて話しかけてきた様子を見ても、意志の疎通は可能なように思える。
「朝飯作るから、ちょっと待ってろよ」
 やはり、途方にくれた子供のような表情をしている彼の頭をひとつ撫でて、オキタは寝巻きのままで炊事をはじめた。
 オキタの気持ちが通じたのかどうか、人間は寝床にふたたび転がって大人しくしているようだ。
 囲炉裏に起こした火に鍋をかけ、薄い粥を掻き混ぜながら、オキタは神経だけを人間の気配に向けて、彼が一体何者であるのか、改めて考え出した。
 昔語りに聞く人間であるのはまず間違いないとして……より卑近な疑問がある。
――― あいつ、名前はあるのか?
 言葉を話すのだから、当然、彼と会話をする何者かがいたはずだ……今のいままで、他の人間は現れていないのだから、彼は見捨てられてしまったのか、子供たちが言うように、空の上にあるばけものの世界から迷い出てきたか。
 どちらにしても、呼び名がないということはないだろう。
 通じない言葉でどこまでできるかはわからないが、まず、名前を聞き出してやろう。
「わからないことには、呼びようがないもんな」
 ひとりごちて、我ながら呆れて笑ってしまう。
 言い訳をしても仕方がない。自分はただ、彼の名を呼んでみたいだけなのだ。

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 甘く、香ばしく、唾が湧き出すような。
 まどろみから醒めるより先に、永井の感覚をくすぐったのは、どこか懐かしい香りだった。
 米を煮た匂いだ。そう心付いたとたんに胃の腑が痛むほどの空腹を覚えて、小さく呻く。
 身を起こした視界、部屋は相変わらず薄暗いが、一度目覚めた時よりはいくらか明るくなり、ものの造作もはっきりと見分けられるようになっていた。家主であるあの闇人が、障子戸を立てた隣室で動いている気配はある――煮炊きの匂いも、そこからするようだ。
 朝飯の時間かと納得し、永井は熱っぽく重い手足を身に引きつけるようにして座り直した。
 あの島では死体にとりつく化け物でしかなかった闇人たちは、ここでは当たり前のように『生きて』いるのだと、改めて実感する。
 闇人たちは、夜間はほとんど出歩かない。黒く蝕まれた太陽の代わりのように、永井の知る世界よりも鋭くぎらついた月光が降り注ぐ時間はなおさらだった。
 この世界では、あの異様な月光だけが永井の味方だった。月夜を選んで移動し、川の水を浴びて自分の痕跡を消し、夜行性の生き物になって生き延びてきた―――月のない夜には、もう役には立たない銃を抱え、物陰でじっと息を潜めていた。
 真っ当な、と言って良いのか、こんな刻限に闇人の前に無防備な姿を晒していることが、なにか悪い冗談のように思える。
 ……本当は、自分はあの島でとっくに死んでいて、地獄にでも落ちたんじゃないだろうか。
 沖田の姿をした異形に手を差しのべさせて、尽きかけた気力を取り戻したところで、異端として追われる責め苦を与えるつもりではないのか。
――― だったら、沖田さんの幽霊がいたっていいよな。
 沖田の脱け殻を乗っ取った得体の知れないものではなくて、本当の沖田がどこかにいるかもしれない。
 ふと浮かんだ考えを、すぐに打ち消す。
 沖田は地獄に落ちたりしない。他人の血に塗れた手をしているのは、自分だけだ。
 永井の暗い思いを逸らしたのは、板床を踏んで戻ってきた闇人と、彼が運ぶ盆に乗せられたものだった。
 薄く湯気の立つ陶器の茶碗と、丹塗りの汁椀がひとつずつ。
 文字通りに固唾を飲んで見守る永井の傍らに膝をついた男は、枕元にあった正方形の箱―――古びてはいるがしっかりした作りのものを引き寄せ、片手で器用に開いた蓋を逆向きに被せ直した。へりが高くなって、簡易な膳になったところにふたつの椀を乗せ、永井の前に押し出す。
 茶碗の中身は白粥、汁椀は小さな葉を浮かせた吸い物のようだ。吸い物の具らしい、細く白っぽいものは干し魚を裂いたものだろうか。
 意図が読めず、手を腿の上に置いたまま動かずにいる永井に、沖田と同じ顔をした彼は屈託のない表情で膳を指す。
「―――」
 繰り返す言葉の意味はわからなくても、言っていることはわかる。食え、と、そういうたぐいの発言をしているはずだ。
 永井がおそるおそるの態で茶碗を持ち上げると、男は盆の上に乗せていた木匙も差し出してきた。
 そんな自然な所作ひとつにも沖田の面影が濃く漂うことに、胸が詰まる。
 小さく頭を下げてから、永井は木匙を粥に差し入れた。……見たところ、米がほとんど原型を留めないまでに煮込まれている以外は、普通の粥だ。毒が入っていたとしても、永井に文句を言う筋合いはない。
 自身の空腹が唆すまま、永井は粥を掬った匙を口に運んだ。とろみのついた甘さと温かさが、舌をじわりと浸し、脳髄を痺れさせる。人間の本能に訴えかける快楽に近い感覚に、永井は身の裡が震える酩酊を覚えた。
 味わう、という、日常の中では当たり前に行っていたことが、これほど沁みるものか。
 気付けば、永井は茶碗を抱え込むようにして夢中で粥を口に運んでいた。
 陶器の表面に残る粘りまでこそげとって平らげ、汁椀を掴んで、温くなった吸い物を喉に送りこむ。舌に残る米の甘さをほどよく洗い流す、薄い塩味の汁が臓腑に沁みて、鼻の奥がつんと痛くなった。
 最後に料理と呼べるものを口にしたのは、どれほど前だったろう。……輸送訓練に向かう日の朝、食堂ではち合わせた沖田と食べた代わり映えのしない朝食から先は、なにもなかったはずだ。 
 戻れるはずのない時間に、少しだけ、手が届いた気がする。
 滲んだ涙を手の甲で拭い、洟をすすりあげて、小さく笑う。
「……うまいよ、これ」
 満たされたのはきっと、空腹だけではない。
 これが罪人に与えられる猶予で、最後の食事だとしても、不服はなかった。
「―――?」
 なにかを問いかける口調に、男の顔を見ると、何かを早口に告げてまた立ちあがってしまった。
 障子戸をあけたまま出て行ったのは、すぐに戻るつもりだろう。
 椀の残りを啜りながら、窓の見えない暗い廊下をぼんやりと眺めていると、男は手に急須のようなものを持って戻って来た。
 永井の置いた粥椀の中に中身を注ぐ手元を見れば、ただの白湯のようだ。やはり永井が置いたままでいた木匙でくるくると掻き混ぜ、茶碗を持ってどうするのかと思ったら、窓を少し押し上げて中身を棄ててしまった。
 空になった汁椀にも同じことをするのを見て、食器を洗っているのかと合点がいく。
 じっと見つめていると、男は永井に湯の入った汁椀を差し出してきた。
 なんとなく、「飲め」と言われている気がする。
 確かに、ずいぶんと寝汗をかいたので、もう少し水気が欲しかったところだ。
――― まあ、いいか。
 自分の食事だし、と、受け取った汁椀の中身を啜る。少し熱いくらいの湯だったが、疲弊した体を温めるには丁度良かった。
 飲みほした椀を、差し出された手に渡すと、男はにこりと笑んだ。箱の中に食器をしまい、蓋を閉じる動作も機嫌が良さそうだ。食事の時はテーブル代わりで、終われば収納に変わるのは、うまくできているものだ。
 永井が妙な感心をしている間に、男は箱を部屋の隅に片付け、永井の横に胡坐をかいて座った。
 どうにも、神妙な……少し、緊張したような顔をしている。あの島にいた闇人と同様、肌と見分けのつかない色彩の眉のせいでいまひとつ表情が掴みづらいが、布を被っていないぶん、感情を拾いやすい。
 男は永井と視線をあわせ、軽く咳払いをした。……実に人間臭い仕草だ。
 何をするつもりかと思えば、人差し指を自分に向け、口を開く。
「オキタ」
「は……?」
「オキタ」
 白い指で自分を指して、ゆっくりと繰り返す男は、永井に向けて己の名を名乗っているようだった。
 自分は、沖田であると。
 現実味の薄さに目眩がして、永井は急に息苦しくなった呼気を吐いた。差異をあげつらうより共通項を探すほうが簡単なほど沖田に似ているのに、名前まで同じなどということがあるだろうか。
「そんなわけ、あるかよ……お前は沖田さんじゃないだろ……っ!」
 混乱と苛立ちを綯い交ぜに声を荒げると、男の手が永井の口を塞ぐ。眉宇をひそめ、人差し指を唇に当ててちらと窓を見やる仕草は、意図を誤解しようもない。……大声をあげれば外に気付かれる、というのだ。
 そう気付くと、力が抜けてしまう。
「わかったよ、騒がないから」
 永井が大人しくなると、男は手を放し、軽く肩を竦めるような仕草をした。
 二人がかりでちょっとした悪さをして、上官に絞られた後、沖田が見せたのと同じだ。
 ……どういうわけだかは解らないが、沖田と同じなのは容姿だけではないと、認めざるを得ない。
「沖田、さん」
 呼ぶと、男は目を細めて頷いた。これは、男の名前だ。
 そして、もう一度永井を指し、問いかける調子の言葉を発する。名前を訊ねているのだろう。
 永井は首の後ろを掻いてから「永井」とぶっきらぼうに告げた。
「―――?」
「だから、俺の名前。……永井、だ。ながい」
 自分を指して告げると、男はひどく嬉しそうに笑った。
「永井」
「……うん」
「永井、永井」
 沖田とおなじ声で、呼び方で、男は永井の名を繰り返す。それが胸に染み透ると、おさまったはずの熱いものが、ふたたび込み上げてきた。
 荒れ狂う激情は、喪った人への悲しみと、失ったはずの声に自分を示す名を呼ばれたがための、気が狂うほどの喜びとでできている。
 笑おうとして果たせず、永井はきつく噛み締めた唇を震わせた。
「ふっ……う……あ、ああ……」
 声を押さえることもできず、永井は身を折って嗚咽した。
 すっかり緩くなった涙腺は、永井を弱くする代わりに、胸の底で固く凝っていた黒いものを押し出していく。
 男に背を抱きよせられ、涙はいっそう止まらなくなった。手に力を籠め、男の胸に顔を押し付ける。目を閉じてしまえば、縋りつく永井をあやすように背を叩く仕草まで、彼は沖田そのものだ。
 着物越しに伝わる低い体温と、ゆっくりした鼓動が、彼を血の通ういきものなのだと永井に教える。そして、火薬と微かな獣脂の臭いに混じって、ひなたで乾いた草に似た、清々しくもやわらかい、気持ちを落ち着かせるにおいがした。
――― 沖田さんとおなじだ。
 この異常な世界に落ちてから涙など流したことはなかった。それなのに、この男に出会ってからずっと泣いている気がする。
 死んだ沖田のために流した涙と、同じほど。
 低く、穏やかに囁きかけられる言葉はやはり、意味の取れないものだ。
『大丈夫だよ、永井。お前をカバーするために俺がいるんだからさ、ここから巻き返すぐらいの気持ちでいろよ。ほら、根性出せって』
 いつだったか、訓練中にミスをした時に、同じような調子で励ましてくれたことがあった。
 この「オキタ」にも、同じようなことを言われているのではないかと思ってしまう。
「わかんねえよ……お前らの言葉なんて、ひとっつも。でも、あんたはほんとに、沖田さんなのかな」
 宇宙には自分のいる世界とそっくりな平行世界が無数にあって、その世界の数だけ、自分とそっくりな人間がいる。
 ずいぶんと前に見たアクション映画が、そんなような話だった。。
 まったく違う人生を送り、時には名前や国籍まで違っていても、それは、同一人物がそれぞれ異なる可能性の末に生まれてきた存在なのだという。
 それなら、この世界に、最初から闇人として生を受けた沖田がいても不思議はないのかもしれない。
――― あいつみたいな考え方だな。
 鉄塔で会ったおかしな男のことを思い出すと、少し可笑しくなる。永井が鉄塔から落ちた時に離れたきりだが、彼はあの後、どうしたろうか……案外、ちゃっかりと鉄塔のてっぺんに見えていた(彼いわくの)本当の夜見島に戻れたのかもしれない。
 悪運は強そうな奴だったから。
 気がそれて、涙も止まると、オキタの腕に収まったままでいることにいきなり気がついた―――いや、忘れていたわけではないが、意識していなかった。
「も、もう……いいです、落ち着いた……から」
 口の中でもごもごと弁解をしながらオキタの胸を押し放す。さんざん甘やかされたあとの、妙に気恥かしい空気のせいで、熱くなった顔を上げることができない。
 永井がうつむいていると、オキタは急に陽気な調子で何かを告げ、永井の背後に移動した。
 何か、雑巾を絞っているような音がする―――と思ったら、肩に置かれた手が、永井が羽織っていた着物の襟をぐいと押し下げた。
「なぁっ!?」
 泣いた余韻も何もかも吹き飛び、すっとんきょうな悲鳴をあげてしまった永井の口を、またしても冷たい手が塞いだ。
 駄目だろ、というように、呆れた声が落ちてくる……相手が沖田だと思えば、言葉はわからなくても感情は十分に理解できるのだ。
――― 誰のせいだよ!!
 怒鳴りつけることだけは、根性でこらえた。


++++

というところで、続く。


続きを読む 2012/09/12 19:29
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