前回:闇界ウルルン探訪記『永井がー、闇人の世界でー、沖田’にー、出会った』

そして続き。

++++++++

 オキタが、集合場所である山の端に戻ったのは、陽が沈み、月光が皓々と照り出す時間帯だった。
 捜索隊の面々は当然ながら何の成果もあげられず、言葉少なに不安そうな表情を見合わせている。
 日が落ちるまで海岸を探したが人間はいなかった。そんなオキタの嘘をミサワはどう思ったか、無愛想な顔からはまるで判じがつかない。
「ただね。岩場でこいつを見つけたんですよ」
 人間が身につけていた、奇妙な黒い長靴―――革のようだが、ところどころは見たことのない材質で作られている―――を差し出すと、ミサワは顔を顰め、それをためつすがめつした。
「……人間のものか」
「でしょうね。他じゃちょっとお目にかかったことのない代物だ。それに……ヤツが身を隠していたような痕跡もありました」
「まだ、いると思うか」
 声を低く抑えたミサワに、オキタは「さあ」と首を振った。
 自分が今、大それたことをしでかしている自覚はあるのだ。しかし、動揺はまるでない。
 人間を拾った時には覚悟が決まっていたのだろうな、と、オキタは他人事のように自分を省みた。
 人間は今、オキタの家で眠っている。
 あれから一度だけ目を覚ました彼は、オキタの名を呼び、縋るように手を伸ばしてきた。無下にはできず、焼けるように熱い手を握ってやると、どこか焦点の定まらない目が安堵に緩む。
『おきたさん、―――……』
 掠れた声で紡がれる言葉の意味がわからないことが、どうにももどかしい。オキタは、胸を締め付ける苦しさを持て余し、手に力を籠めた。
 そうして近付いた距離で、人間の、肌より色の薄い唇が白く乾きひび割れているのに気付いて、水を飲ませてやろうと立ち上がる。手をほどいた時に、心細いような目付きをされたのがなんとも胸をざわつかせた。
『飲めるか?』
 背を支えて体を起こしてやり、水を汲んだ柄杓を口元に持っていくと、彼は、半分ほど飲み込んでから、ひびわれた唇を震わせて咳き込んだ。手と同様に熱い、むきだしの背を擦っているうちに、呼吸がいくらか落ち着き、瞼が伏せられた。
 力の抜けた体を、布団の上にそっと横たえる。苦しげな息に合わせて胸が大きく上下している様子が痛々しい。
 オキタは、獣の命を奪うことを生業としている。
 弱った獣がいれば、命を絶ってやるのが慈悲だと思って生きてきた。それが人に害を為すものであれば、尚更だ。
 自分はいったいいつから、これほど情が深くなったのだろうか。それも、得体の知れないばけもの相手に発揮するには危険すぎる感情だ。
 そうとわかっていても、無防備な寝顔を見ていると、強烈な庇護欲がオキタの心の奥底から涌きあがり、理不尽なほどに精神を縛り付けていく。理屈ではない場所で、これは守るべきものだと、強く訴えかけるなにかがある―――まるで、自分がもうひとりいるようだ。
 この先どうするかは思い付かずとも、現状ではっきりしているのは、彼を他の者の目から隠さなくてはならない、という一点だ。
 見つかれば、殺される―――彼がこれ以上、殺戮を繰り返すのも防がなくてはならない。
 逡巡の末、オキタは人間の手首を合わせて細い帯で縛り、余った部分を柱に括りつけた。逃がさないためというよりも、彼が迂闊に外に出てしまわないための措置だ。
 楽観視するには危険すぎる状況だ。獣を閉じ込めておく檻に放りこむ方が、双方にとって安全なのだろうが……衰弱した体に負担をかけたくはなかった。
『これから出かけるけど、じっとしてろよ。ここは誰も来ないから』
 言葉が通じないのを知っていて、見た目よりも柔らかい髪を撫でてゆっくりと話しかける。自分は敵ではないと、それだけ伝われば良いと念じながら。
『……りょう』
 眠っているような彼の唇が動き、零れた声は、たしかにそう聞こえた。
 それが、何かの名前なのか、返事なのかも曖昧なまま、オキタは、後ろ髪を引かれる思いで住処を後にした。
――― そして、こうして仲間を裏切っている。
 真摯に人々を守ろうとしているミサワに対し、罪悪感のかけらもなく平然と嘘を吐いて。
「陽が昇ったら、何人か連れてあのあたりを捜してみますか?」
 何も見つからないとわかっていて、こんな提案さえしてみせる。
「ああ。そうする。お前も来い」
「了解しました。じゃあ、また明日」
 真面目な態度を取り繕って頷き、ミサワに背を向ける。月の光を遮るよう、日除けの布をきつく巻き直したところで、
「オキタ」
 鋭く、呼び止められた。
「……お前、妙なにおいをさせてるな」
 ぎくりと強張る足を止め、息を飲んだのは束の間。
「そりゃあ、これでも猟師ですからね」
 振り向いたオキタの白貌は、いつも通りに飄々としたものだった。
「獣の臭いが染みついちまって取れやしませんよ。こんなんだから、つがいになってくれる女もいない……ミサワさんもそうでしょ?」
「お前と一緒にするんじゃねえ」
 おどけた問いかけに低く唸り、追い払う仕草をするのに笑って背を向け、ひらひらと片手を振って歩き出す。
 焦りを微塵も見せない、ゆったりした足取りで。
――― あぶなかった。
 ことさら呑気そうに歩を進めながら、オキタの心の隅には恐懼が凝っていた。
 隣合った集落の似た者同士、そう浅くも深くもない付き合いをしているが、ミサワはおそろしく勘が良い男だ。海の太母への信仰心に基づく、人々を守る役目への責任感は人一倍強い。
 オキタが少しでもおかしな所を見せれば、容赦なく追及してくるだろう。
 あの人間の容態が落ち着いたら、何か対策を講じたほうが良いかもしれない。オキタは自分の姿がミサワの視界から離れたのを見計らって、足を速めた。



 人間は、オキタが出ていった時と同じ姿で昏々と眠っていた。
 拘束を気付かれなかったと、何故だか後ろめたさと安堵を覚えながら手首の布を解き、蒲団をかけ直してやる。呼吸は弱いが落ち着いたものに変わり、苦しげな表情も和らいだようだった。
 オキタの家は、水辺に暮らす他の多くと同様、窓に葦簀を立てて外からの光を遮っている。満月に近ければ雨戸を立てることもあるが、半月を過ぎた下弦の光は乏しく、さして害のあるものではなかった。
 ……そう、理由を並べ立てても、物音をたてて彼を起こすのがしのびない、というのが本当のところだ。集落の皆はばけものを恐れてかたく雨戸を閉ざしているというのに、当のばけものを手元に置いているオキタが気にするのが人間の安眠だとは、お笑い草だが。
「……何を、してるんだろうな」
 村八分で済まないようなこと、なのはわかっているが。オキタは自嘲の息を吐き、幾重にも肌を覆っていた日除けを解いていった。
 頭巾も取り、簡素な部屋着姿になって、改めて人間の枕元に胡座をかく。
 盗まれ、食い散らされた食料は、麺麭や干し魚、野菜など、そのまま食べられるものばかりだったはずだが、たぶん、自分たちとそう変わらない食性なのだろう。数日、ものを食べていないなら、最初は重湯でも飲ませるか―――。
 寝顔を眺めながらつらつらと考えるうちに、人間が眉根を寄せ、低く呻いた。夢でも見ているのか、瞼が震え、唇がわななく。悲しげな表情をしている、と思った。
 手を伸ばして髪を撫でてやると、ふうと溜め息をついて穏やかな寝息を取り戻す。
 それにつられて、思わず口元を緩めながら、オキタは人間の体温が残る掌を見つめた。
「……風呂にも、入れてやらないとな」
 べたついた感触に苦笑して呟き、オキタは自分も遅い眠りに就くことにした。


+++++++++


 ずいぶんと遠い、懐かしい夢を見た。
 何日か、何年ぶりかのような、穏やかな気分で目を覚ます。
――― 暗い。
 永井は、自分が目を開けているのか、閉じたままなのかわからなくなる錯覚に、せわしなくまたたいた。
 周囲は、ものの輪郭を曖昧にする闇に満たされている。まったくの暗闇ではないのは、窓辺から鈍い光が差し込んでいるからだ。
 暗がりにじっと目を凝らしていると、板の間らしい部屋の、煤けた木目を連ねた天井、自分が眠っていた布団の先に置かれた、小さな木桶が闇の中に浮かびあがってくる。木桶の縁に置かれているのは柄杓だ―――そういえば、あれで誰かが水を飲ませてくれた。
 どうして、ここに来たのだったか……。
 夢の続きのような、半覚醒の気分で、無意識に布の上を探る。
 武器が無い。
 弾が切れた後も、お守りのように抱えて肌身離さずにいた小銃も、ナイフも、あるはずの物が綺麗さっぱりと無かった。
 その事実が、ぞっと胸を冷やした。
 戦い続けなければ死ぬ、死ねばすべてが無駄になる、その強迫観念だけが今まで永井を生かしてきた。戦う手立てを失うことは、死と同義だ。
 にわかに強く打ち始めた鼓動が、永井の耳元で血流を潮騒のように轟かせる。パニックで叫び出しそうな舌を、歯を強く噛み締めて抑え、汗の滲んだ指を立てて敷布を掴み、身動きをせずに血走った目玉だけで忙しなく左右を見渡す。
 と、視界の端に何かが動いた。
「……ッ!!」
 一体いつからそこにいたのか、たったいま起き上がった風情で、上半身を起こした人影がそこにある。
 浴衣に似た単衣を着て、寝乱れた髪のまま、こちらに背を向けている後姿を確認した瞬間、永井の緊張は混乱へと移り変わった。
 熱い手で心臓を掴まれたような、冷水を頭蓋の内側に流し込まれたような、ひどい感情の高揚が体を震わせる。
「お、きたさん……」
 見間違えるわけがない。そこにいるのは、沖田だ。
 永井の声に気付き、沖田が床に片手をついた姿勢で振り返る―――薄闇の中で細部は判然としないながらも、額に垂れ落ちた前髪をかきあげる仕草も、端正な顔立ちも、確かに沖田だった。
 ……そこに、どうしようもない違和感が付き纏っているのは、なぜなのか。
 その答えを掴む前に、沖田は板の間をいざり寄ってきた。目を見開き、浅い息をしている永井を覗きこみ、気遣わしげに首を傾げる。
「―――……」
 何かを問いかけるような、穏やかな声。ひどい訛りがあるような言葉はまるで聞きとれないが、その声音は、息苦しくなるほど懐かしく、慕わしいひとのものだ。
 だというのに―――違和感の正体は、残酷な明確さで永井の前にあった。
 薄明りにも茫と目立つ白い肌、虹彩と瞳孔の区別がつかない真っ黒な目。あの島にいた『彼』のような黒い血の紋様は走っていないが、それは、明らかに闇人の特徴を備えた……それでも、永井のよく知っている『彼』だった。
 違う。
 そんなわけがない。
 あの『彼』は、沖田宏は、永井自身が粉々に砕いてしまった。
 そのずっと前に―――永井のために、死んでしまった。生きているわけがないのだ。
「ん?」
 どうした、と。永井に問い返すような相槌が、まるきり沖田と同じで、息が詰まる。
「なんで……ここに、いるんだよ」
「―――」
 掠れた声で問う永井に、沖田のような闇人は、少し困った風に笑んだ。
 やはりわけのわからない言葉で喋りながら、永井の頭をひとつ撫でて、立ちあがったかと思うと、どこかに行ってしまう。
 ぺたぺたと、遠ざかる白い足裏を見ているうちに、飛んでいた記憶が戻ってきた。
 傷と、積み重なった疲労のせいでまともに歩くことさえ難しくなり、身を潜めていた岩場に、アレが現れたのだ。
 闇人は殺す、殺さなければ生きられない―――とっくに限界を超えていた身体をここまで突き動かしてきた衝動に従い、飛びかかり、ナイフを首に突き立てようとした刹那、アレの顔をまともに見てしまった。
 沖田と、同じ顔を。
『うそだろ……沖田さん……なんで……』
 ああ、これは、自分のための死神だ。
 深い諦めと安堵に、心の中のなにかが壊れる音を聞いた。いや、とっくに壊れきって、めちゃくちゃにつながっていたものが、どこかで真っ直ぐに戻ったのかもしれない。
『俺を、殺しにきてくれたんですよね……そうでしょう? そうだって言ってくださいよ、ねえ!』
 沖田を死なせた。三沢を殺した。たくさんの、たくさんの、たくさんの命を奪って、ただ生きるために生き永らえてきた。
 怯えきった目をして、悲鳴を上げて逃げ惑うだけの、弱い命を。あの島で会った少女のような、市子のような、自分のような、恐怖を抱えた者達を。
 だから、沖田は自分を解放するために戻って来てくれたのだ。
『もう、わからないんです。どうして俺がここにいるのか、なんで死んじゃいけないのか……なんにも、わかんないんですよ!』
 子供のように泣きながら、永井は押し殺してきた内心を沖田に向かって吐き出した。
『ひとりでいるのは嫌なんです、だから、もう、諦めていいって言ってください』
 挫けるな、根性見せろ。
 沖田はいつもそう言って、永井を励ましてくれた。倒れそうになれば手を引いて立ちあがらせ、永井が自分の脚で歩きだすのを待ってくれた。
 お前ならできる。そう言われると自分でもそんな気がしたし、沖田の信頼が嬉しくて、応えようと力を振り絞った……どれほど擦り減っても、沖田が救ってくれた命を、投げ出すことはできなかった。
『ねえ、連れていってください……俺を、ひとりにしないで……』
 沖田は、泣き続ける永井を黙って見つめているようだった。
――― ああ、俺が泣いてばかりいたら、困らせてしまう。
 手の甲で涙を拭い、深い息を吐いて、沖田の名前を呼ぶ。
 手袋はもう随分前に失くしてしまったから、泥の詰まった爪を申し訳なく思いながらそっと触れた頬は海風に冷えていた。それでも、血の通っている、生きた感触がした。
『沖田さん』
 なんだ、生きてるじゃないか。
――― おれはもう、このひとを殺さなくていいんだ。
 それが嬉しくて、永井はただ笑った。
 このまま死んでしまえるならそれで良いと、そう思った。
 ……そして意識を失い、気が付いたらこの有様だ。
 もう、わかっている。
 あれが沖田であるわけがない。
 熱っぽいながらもまともな働きを取り戻しはじめた頭で、自分の置かれている状況を推しはかる。
 まず、武装は解かれている。それに、身に着けていたものもあらかた取り払われ、あの男が着ているような闇人の服を着せかけられているようだ。
 自分の身体を探る右の上腕が鈍い痛みと痺れを訴え、左手でそっと触れると、細い布が巻きつけてあるのがわかった。
 気絶している間に治療された、らしい。
 水を飲ませてくれたのも、おそらくは彼だろう。つまり、あの闇人は、自分を殺す気が無いどころか、助けてくれたように思える。
 ……わけがわからない。
 この世界の闇人が、あの島のソレとはいささか異なる存在であるらしいのは、すぐに理解できた。
 殺しても、闇霊は現れない。生き返ってこない。……何より、まるで無防備だった。最初に出会った群れを殺し尽くした後、乳母車の中で泣き喚く小さな闇人を見た時、心の底から戦慄した。
 自分が、無辜の民を殺戮した怪物にでもなったのかと思った―――そして、その印象は、おそらくは間違っていない。
 今まで出会った闇人は、永井を恐れて命乞いのような仕草を見せ、あるいは、必死に立ち向かってきた。……親子連れに見えたものは、子を庇っていた。
 それに気付いても、どうしようもなかった。
 永井を『敵』として理解した闇人達は、徒党を組んで永井を追うようになった。
 傷つけなければ、脅し、奪わなければ、自分が殺されてしまう―――泥水を啜り、盗み取った食料で食いつなぎ、ひとくいの獣のように逃げ回り―――実際、獣じみた存在になっていたと思う。
 それを、人間に引き戻したのは、沖田だ。……沖田の姿をした、おかしな闇人だ。
 この後、自分はどうなるのだろう。
 闇人しか存在しないような世界で、奇怪な生物として見世物になるか、嬲り殺されるか……。
「……どうでも、いいか」
 沖田が自分を助けに―――殺しに来てくれたのだと思った時に、永井の中にあった、人間であることを棄てても生き延びなければならないという決意は崩れ落ちたのだ。
 拳につくった手の甲を目の上において、永井は、くらくらと揺れる視界を閉ざした。
 あの男がこれから何をするにしても、それまで、眠る暇はありそうだ。
 敵に、死に、自分自身の終わりに怯えながら、疲労に足を取られて墜ちるのではなく、ただ休むために眠るのは、この世界に来てから初めてだった。



+++++++++


つづく

……はず。



続きを読む 2012/09/03 19:52
255569



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -