祈る拳を開いたら



 状況は好転せず、五月。黒鷲旗の時期に入った。俺のチームは若利くんのいるアドラーズに物の見事にボコボコにされ、Division1の実力を身をもって知ることとなった。悔しいが、不思議と嫌な気分ではない。むしろこの目が覚めるような強さで殴られるのは、今の俺がどこか欲していたくらいのものだった。

  
「佐久早」

 引き上げの準備をしていると、若利くんに呼び止められる。たった一年違うだけなのに、社会人という肩書きは若利くんを更に大きく、厚く見せていた。

「集中していない、とまでは言わないが、僅かに……どこか迷いがあるように見える。何か悩みでもあるのか?」

 見抜かれている。まさかプレーにまで影響が出ていたのか。バレーをしている時は忘れられると思っていたのにこのザマかよ、と自分に腹が立った。「……すぐ改めるから」と答えると、「責めているわけではない。俺も少し、悩んでいた時期があったからな。話してみると、案外思考の整理になるぞ」と返された。若利くん、コートの外でも頼もしいのかよ。

「……俺のことじゃなくて、その……。……知り合いに、就活が上手くいってない奴がいて。俺はやりたいことができてる側だから、かける言葉も分からないし、向こうも俺がいるだけで辛いって。それで、まあ少し……イラついてはいたかもしれない」

 言葉にしてみると、自分がいかに無力かを痛感せざるを得ない。ぎり、と奥歯を噛んだ。若利くんは「それは、」と切り出す。

「俺にもあまり分からないな」

 若利くんは正直だった。それはそうだ。若利くんの立場は俺側に近い。進学も所属先も、引く手数多だっただろう。変に分かったような口を利かないのが、若利くんらしいところだった。若利くんはそのまま続ける。

「周囲にどうにかできることではないのが難しいところだな。時の運と、本人の努力次第と言うしか――」
「っは、あいつが努力してないわけ、」

 続いた言葉の途中で思わず噛み付くように反論してしまって、ハッとする。若利くんは少しだけ驚いたような顔をした後、「すまない、そういう意味では無かったのだが。気を悪くしたか」と断りを入れてくれた。勝手にキレて、悪いのは明らかに俺なのに。軽く指を横に振って、謝意を示した。

「……佐久早がそう言うのであれば、直にそれに気付く企業も出てくるだろう。もどかしいだろうが、今は見守るしかないのかもしれないな。決してそれは、逃げではないと思うが」

 若利くん以外にそれを言われたら、素直に聞き入れていたかは分からない。綺麗事を、と突っぱねていたかもしれない。けれど若利くんの言葉は、いつだって飾らず、真っ直ぐなことを知っていた。それはとても、痛いくらいに。

「早く結果を出すこと、早く認められることだけが、正解とは限らない。違うか?」

 ああ、俺もすぐにそう答えることが出来たなら、あいつを少しでも救えたのだろうか。そんなことをぼんやり思ってしまって、拳を握りしめた。

「……しかし、佐久早はその人の事が相当大切なんだな」
 幾分か驚きの色が混じったような声色に、ふっと視線を若利くんに戻す。若利くんは微かに笑っていた。

「それだけその人を心配して、尚且つ本当に離れるという選択肢が最初から無い様子だったからな。どうなっても、手を離す気はないんだろう?」

 言葉にされると随分と気恥しいが、それは俺にとって至極当然の事だった。たとえなまえに俺といるのが辛いと言われても、俺からなまえの手を離すなんて到底できやしない。

 「……そう、だね」

 もしもその時が来たとして、手を振りほどこうとするのはなまえからで、その手に縋るのはきっと俺の方。みっともないと思われようが、それがありのままの事実だった。
 お前は俺に『私の気持ちなんて一生分からない』と言ったけれど、それはお互い様だ。お前だって、俺がこう考えているなんてこと、一生知らないんだろう。
 
 ◆

 「はい、……っはい……!ありがとうございます!はい……!」

 将来の形を手に入れられたのは、蝉も元気を失ってきた頃だった。初めて告げられた内定の言葉に、電話口で泣きそうになりながらも何とか返答をする。電話を切ってからも、どうもじっとして居られなくて、無意味に部屋をぐるぐる回ってみたりししながら、段々と現実を噛み締められるようになってきた。
 ひとまず親に報告し、深く息を吸って吐いた。深く呼吸ができたのは、凄く久しぶりな気がする。そうして、はた、と思い出したのは聖臣のこと。どく、と心臓が大きな音を立てた。
 わざわざ様子を見に家まで来てくれた聖臣を突っぱねたのは、もう何ヶ月も前のこと。あの日から今日に至るまで、聖臣は私に何の動きも仕掛けてこなかった。当たり前といえば当たり前だ。私の方が『聖臣といると辛い』なんて言ったのだから。それなのに、彼のことを考える余裕が出てきてしまった途端、とてつもない不安が湧く。
 もうとっくに、私のことを見限っていたらどうしよう。今更連絡をして、『もう終わっているのに』なんて思われていたらどうしよう。吹き飛んだはずの陰鬱な気持ちが形を変えて舞い戻ってきたような気分だ。
 それでも何も言わないのは、あの日の彼への不義理に他ならない。恐怖心を抑え込みながら、僅かに震える指先で、メッセージアプリに『内定もらったよ』『色々面倒かけてごめん』と打ち込んだ。

 「……えっ」

 思わず漏れた声の原因は、ものの数秒で付いた既読の二文字。目を疑った。聖臣は忙しい身だから、こんな緊急性の無いメッセージを確認するのにはまだ時間がかかるだろうと思っていたのに。ちょっとそれは、覚悟が足りなかったかも。

 『今から家行っていい?』

 ぽこ、と画面の一番下に表示されたメッセージに、再び目を疑う。こんなにすぐ動けるってことは、今日は練習とか無い日だったんだ。かつては何週も前から心待ちにしていた彼の休日を、いつの間にか何一つ把握できないようになっていたんだ。自分の余裕の無さを改めて感じさせられた。
 意識を聖臣のメッセージに戻す。彼の真意は分からないが、今となっては断る理由も無い。例え今から、私たちの関係の終わりがやってくるとしても、向き合うことから逃げてはいけないような気がした。了承の返信をして、アプリを閉じる。……彼が来るまで、少しでも部屋を綺麗にしておこう。


 慌てて掃除に精を出していた所に響いた、ピンポーン、という軽快なチャイムの音。もうそんなに経ったのか、と時計を確認すると、針はそこまで進んでいない。聖臣の自宅からここに来るには、かなり急がないと無理な時間だ。もっと近いところにいたのだろうか。
 完全に掃除が追いついていない。普段の聖臣に見られたら相当嫌な顔をされそうだが、まさかここにきて待たせるわけにもいかない。観念して玄関の扉を開けると、数ヶ月振りに見る聖臣の姿があった。……何一つ変わっていない。私の存在なんてこれっぽっちも影響されないような、綺麗なままの聖臣が目の前に立っている。一つ言えることとすれば、暑さも引いてきたというのに、なぜだかその額にはじんわり汗が滲んでいることくらいだった。

「き、聖臣、あの日はごめ、」 
「俺には、」

 室内へと促しながらも、まず最初に、と口をついた私の謝罪を遮るように、低いはっきりとした声が割り込んできた。滅多に大きな声なんて出さない彼だから、思わず言葉を止めてしまう。

 「俺にはお前の気持ちは分からないし、あの時どうすれば良かったかなんて今でも分からない。……今、あの時よりよっぽどマシな顔してるけど、結局なまえをそうできたのは、救ったのは、俺の知らない企業の知らない誰かで、俺じゃない。……本当に、それには腹が立つけど。これだけは言える」

 いつになく饒舌な聖臣に目を丸くする。決して早口ではないけれど、口を挟む隙は一切無い。途中、ドアが閉まる音すらも、彼の言葉を邪魔することは出来なかった。ただ呆気に取られている私を、真っ黒な瞳は真っ直ぐに射抜いていた。

 「誰がお前を笑おうが、誰がお前を馬鹿にしようが、俺の気持ちには一切関係ない。俺はなまえを、可哀想だなんて思わない」

 思わず、息を飲んだ。……そうだ。聖臣は一度だって、私を下に見なかった。就職先の決まらない私を憐れまなかった。あの日、私を慰めなかったのだって、彼が私に"いつも通り"接してくれていたからだ。
 聖臣は、ただひたすらに、そのままの私だけを見てくれていた。

 「……だから、お前も俺のこと、『世界の違う人間』みたいな目で見るのやめろ」

 ぎく、と肩を震わせる。確かにそう思っていたけれど、そんなに顔に出ていたのか。気まずくて視線を逸らした瞬間、ぐいと手を引かれてふらついた。勢いで寄りかかったのは聖臣のしっかりとした身体で、じんわりと暖かさが伝わった。

 「全部支えるにはまだ、心許ないだろうけど。……ここにいるだろ、俺は」

 少し手を引かれるだけで、少し手を伸ばすだけで、触れることができる距離に聖臣はいる。暖かくて、とくとくと心臓の音が聞こえる。身をもって感じたその距離の近さに、なんだか泣きそうになった。

 「……聖臣は、私でいいの?」

 気を抜くと鼻声になりそうで、ぐっと堪えた末に絞り出したごく小さな声。ともすれば聞き逃してしまいそうなそれも、聖臣はしっかりと拾ってくれていた。

 「……なまえなら、いい。なんだって」

 返ってきたこれ以上無い愛の言葉に、もう涙を止めることはできなかった。

  

 しばらく玄関先で彼に凭れたまま泣いていたが、ようやく落ち着いてきて顔を上げた。目が合ってしばらく、ポケットから差し出されたティッシュを無言で拝借する。勢い良く鼻をかんだ私を見て、聖臣も目尻が少し下がった気がした。が、その後すぐに「……ああ、あと、……インターホン」とやや不満げな声が返ってくる。……ちゃんと確認しろ、ってことか。やっぱりいつも通りの聖臣で、久々に声を上げて笑った。





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