祈る拳に潰される




「……い、おい」
 身体を揺すられる感覚で目を覚ます。身動ぎをすると、身体がピキリも傷んだ。ベッドに凭れかかる形で、不自然な体勢で眠ってしまったらしい。しかもよく見たらスーツのままだ。不味い、皺になってしまう。明日も使わないといけないのに。あれ、そういえば何で身体を揺すられたんだっけ。面接が終わって、一人で帰ってきて、誰とも会う約束なんてしていないはずなのに。
 ようやくそこまで考えが至って、バッと身体を起こす。肩に置かれた手を先を辿ると、眉根を寄せた恋人と目が合った。

「聖臣、なんで、」
「連絡したのに既読にもならねえから……こんなところで寝るなよ、風邪引く」

 彼の真っ黒な瞳に映っている私は、随分とみすぼらしく見えた。聖臣が全くもって普段通りだから、余計にそう感じさせられる。こんなにすぐ側にいるのに、彼と私には明確な、一生埋まることのないかと思ってしまうような差があった。

「……部屋、掃除してる?」
「え、あ……ごめん」
「だろうな」

 大きなため息に、寝起きで熱くなっていた身体がすうっと冷えていく感覚がした。聖臣のこんな反応なんて、分かりきっていたことなのに。普段の私なら、へらりの笑って躱せるはずなのに。

「『どうせ誰も見てない』なんて考えるなよ。そういう所から綻ぶ。尽くせる手は尽くせ。……そんなんじゃ、受かるもんも受からねえだろ」
 
 あ、これ、駄目かもしれない。
 
 聖臣はMSBYブラックジャッカルへの入団が決まっているから、自動的に株式会社ムスビイに入社することになる。有名企業で、倍率を考えると気が遠くなるくらいだ。当たり前だけど、私はエントリーシートの段階で落ちた。でも仕方がない。彼は選ばれた人で、私は選ばれなかった人だから。……そう考えていると、なんだか急にもやもやした感情が溢れてきた。どうしてそんな顔するの。どうして責めるように言うの。
 聖臣はこういう苦しさ、味わったことないでしょう。


「……聖臣にはさあ、私の気持ちなんて一生分かんないよね」
「……は?」

 ぽろりと零れてしまった言葉と、聖臣の声にバッと顔を上げる。違う、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。今の聖臣の声、本気でイラッときている時の声だった。背中に冷や汗が伝っているのに、すぐに撤回しなきゃいけないのに、何故か唇が止まってくれない。

「聖臣ってすごい人じゃん。でも私、わたしは、どこからも必要とされてない。私の人生はもうきっと価値がなくて、わたし、私なんて――」
「……おい」

 自分でも何を言っているのか分からなかった。頭と心と口が全部乖離しているような状態で、冷や汗が止まらない。もう自分じゃどうやっても止まらない私を止めてくれたのは、聖臣のこれまででいちばん低い声だった。しかしその声とは裏腹に、彼はあまり怒った顔をしているわけではなかった。ただ、じっと私を見つめているだけ。それでも私を止めるには、何よりのブレーキとして働いた。

「……ごめん、なさい。でも、今ちょっと」

「聖臣といっしょにいるの、辛い」

 聖臣を見ていると、私の劣等感が掻き立てられる。聖臣が羨ましくて仕方がなくなる。そしてそんな風に思い、彼に当たってしまうような自分が何よりも嫌になる。大好きな彼の存在が、今は誰よりも私を苦しめた。
 私の小さな声に、聖臣は呆れた表情もため息もつかず、かといってすぐにはなんの反応も返さなかった。私の鼻水を啜る音が何度か響いた後で、ようやく聖臣はぽつりと呟く。
 
「……謝るな」
 聖臣はそれだけ言って、すくりと立ち上がる。その動作に一切の緩慢さが見られないのも、私の心を刺してくる。「スーツかけて、寝るならベッドで寝ろ」と、座ったままの私の遥か頭上から声が降ってくる。聖臣の顔はもう見れなかった。私の反応を待っていたのか、ぼんやり眺めた聖臣の足はしばらく止まったままだったが、少ししてようやくドアの方へと歩み出した。
 聖臣の背中が遠ざかり、ドアの向こうへ消えていくのを見て、ようやく息が楽になったような気がした。こんなに薄汚くなってしまったこの部屋では、2人分の酸素すら十分に賄えないらしい。家主のように不出来で、乾いた笑いが零れた。はは、という声は、特に何にも響くことなくあっという間に壁に飲み込まれる。ああ、本当に駄目だ。
 私が追い出したのに寂しいなんて、どうかしている。

 




 
「……それで、すごすご逃げ帰ったわけ?」
「すごすごも逃げもしてねえよ。帰っただけだ」
 大学の交流戦後、俺の調子の変化を目敏く察知してきた従兄弟は、遠慮も何も無く根掘り葉掘りあいつとのことを聞いてきた。……それで結局話してしまう俺もどうかしている。その異常性を元也も感じたようで、うざったい相槌は抑えて俺の話を聞き、俺を責めるような声色でそう告げた。
「ダメだろ〜こういう時はマジでナイーブになるんだから。俺のところに永久就職しろ!くらいドーンと言えないもんかね」
 こいつも実際には経験していない癖に、分かったような口を利く。やれやれ、みたいな態度が癪に触った。
「まだ養っていけるだけの収入が無いのに、言えるわけねえだろ。責任感の欠如……」
「ああ、マジ?流石に冗談だったんだけど、お前の方が本気だったわけね」
 へら、と笑う元也の表情が、少し前に見た諦めたように笑う彼女と被って無意識に舌を打った。
 俺自身、あの日は下手を打ったと思っている。自分が好きになった彼女を丸ごと否定されたようで、これまでになく腹が立ってしまった。そしてその言葉を、他でもない彼女自身が吐いているという事実。それから、俺には何もしてやれないというもどかしさが混ざりに混ざって、頭がおかしくなりそうだ。
 運良く望んだ通りの道に進んでいる俺の言葉は、今の彼女にとっては凶器以外の何物でもない。言葉どころか、頭から爪の先まで、存在自体があいつを苦しめる。

(……なまえを救えるのは、俺じゃない)

 そう心の中で呟いてみせると、吐き気のような何かがせり上がるようだった。
 





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