V(姫君の玉の輿)

 彼女はどうしているだろう。

 公爵家は数件あるが何処の家も過去より誘拐が多く、それはシェスター家も例外ではない。
 その手の噂は事あるごとに飛び交うため、彼女とて経験には事欠かぬ筈。つまりそういう存在に対しての免疫がある。公爵は貴族の最高位とは言え、王宮ほど警備は厳重でない。だからこそ尤も狙われる。
 王族の歴史上、王族を対象とした事件は片手で数えるほどしか起きなかった。ハイリスクを冒せるのは余程の条件が揃わねば不可能。よって、必然的にその次の公爵、また侯爵家が一番被害が多くなる。
 勿論、王宮はそういった話を見聞き且つ記録し、事前防御も行なっている。しかし実際起きてからの対策となると、彼等の胆力には劣らざるを得ない。

「よくよく考えるとさ」

 ぽつり。調査も佳境に差し掛かった頃。落とされた言葉に側近は手を止める。

「犯人は今までの犯人と同じ目的かな」

 王宮に手を出す理由はそのどれもが“爵位の昇進”であった。しかも最高位の公爵へ一気にという、何とも無茶で出来の良い話。全て未遂か失敗に終わっている事を鑑みると、今回の結末も大した打撃は与えられないだろう。目的が同じであれば。
 何にせよ、犯人は狂気に駆り立てられている。幾ら身分を上げたいからと王族に手を出すとは。

「それに、本当に貴族だったとしても、今度はその使用人も論う事になる。手間が多い」

 短い犯行声明の筆跡は確かに貴族らしい。王族含め、貴族はやたらと文字を記す。その手馴れた感が表に出ている。一つ穴が開くと、あれもこれもと気になってくる。全てを疑っていられないのに。

「申し上げた筈ですよ。そのような泣き言は」
「……ごめん。続けるよ」

 此処で弱気になってはいけない。彼女にも自分にも、目の前の側近にも誓った。マイナス思考はキリがない。今やるべき事を完了してから、思う存分悩めば良い。
 婚約者が待っている。自分の救助を信じて、じっと耐えている。それを忘れるなんて、彼女が許しても己が許さない。

「よし、男爵も半分を超えた。後少しだ」
「殿下、失礼致します」

 声は騎士隊長のものだった。入室を許可し、報告を待つ。

「早かったね。収穫は」
「糸口が掴めたら早馬を寄越すと。兵も数人残しておきました」
「納得して貰えたみたいだね。上々だ」

 こちらの調査の方が早く終わるだろう。その段階でシェスター家に向かいたいが、待つのも仕事である。その間に使用人や私兵がいるならそれも。やるなら徹底的に、重箱の隅をつつく位まで。

*************

「少しは口になさったらどうです」
「誘拐犯からの施しを素直に受け取る程、私は落ちぶれてなどいないわ」
「強情ですね。毒などありませんよ」

 そういう問題じゃない。余りにも呑気過ぎる。この甘ったるい空気を涼しい顔で受け流して、あまつさえ捕虜を餌付けするような真似までして。本来ならばもっと皮が千切れそうな緊張感があるべきなのに。

「ご自分でも仰っていたでしょう。私の目的は爵位です。人を殺すような野蛮な事はしませんよ」

 血は苦手ですし。あっけらかんとそう告げられると、追撃する気も失せる。これでは余計に胃を鳴かせるだけだ。

「それに、貴女のような美貌の女性を手に掛けるなんて非道、我が信条に反します」

 そう。それはまた結構な事で。もう何も返さなかった。こんな状況で褒められても、ちっとも嬉しくなどない。
 嗚呼、こちらから外にSOSサインでも送れたら良いのに。この冷酷な檻が全てを許さない。
 憎らしい。ただでさえ王宮でも閉じ込められていたと言うのに、一体何処まで巫山戯た状況にいる拷問を強いられるのか。
 気分は地下に潜り込んだ。当分は這い上がってこれないだろう。土竜のように下降の穴を掘り続ける。

 力が欲しい。無様な小鳥でいたくない。いっそ、当たって砕けても構わない。身体を縛り付ける枷を一気に取っ払って、跳ね除けてしまいたい。
 なのに、この瞳に映る非情な現実は。惨めで、哀れで、何て醜い。
 常に溢れていた瞳の輝きが、減少の一途を辿る。それまでの気の強い彼女は、飲み込もうとする暗い影に圧されていく。気丈に振る舞って彼女の精神を保つのは、男爵と対等に問答を繰り広げる口だけだった。

「ほら、朝から何も食べていらっしゃらないでしょう。腹の虫は正直に」
「いらないと何度も言っているでしょう。飢えて死ぬならそれまでよ」

 嗚呼、最悪だ。屋敷が崩壊した事よりもっと、今日は人生最悪の一日だ。誘いかける甘言に反射的に拒否反応を示す言葉だけが、今のエリゼにとっては頼りだった。
 こんな醜態を彼等に見られたくない。公爵シェスター家の令嬢としてあるまじき姿を晒す、情けない命など。慣れ親しんだ誘拐如きで弱る神経など、焼き切ってしまえたら良いのに。それほどの勇気も出せない己が、人として信じ難かった。

 もう誰も来なくて良い。助けなどいらない。放置して、忘れ去られてしまえば――

「……!」

 今のは誰の言葉か。誰の感情か。己の心の内から、まるで最初からあったかのように浮かび上がった絶望と諦めの境地。俄には受け入れ難い。この香りに毒されて、遂に堕ちるところまで堕ちてしまったのか。
 何て事。あんな言葉を己に吐いたのは初めてだ。有り得ない。何時の間にか、己に巣食う悪魔が精神を蝕んでいたなんて。そしてそれに耳を傾けて、うっかり受け入れようとしていたなんて、もっと有り得ない。
 私は――公爵令嬢エリゼ・シェスターは、そんな言葉に安易に唆されるような愚かな存在ではない!

「そうよ……何時も気高くあらねばならない……あの人がそう言っていたじゃない」

 決して簡単に揺らいではなりません。貴女は公爵令嬢なのですから――
 夢で囁かれた一言が、胸を貫く。霞がかっていたその疑問が解けた。あれは母と乳母だったのだ。小さい頃はよく頭を撫でられながら公爵令嬢とは何たるか、その心構えを説かれていた。
 尤も、あの幼さは思い返すと今の自分にお似合いのものだった。心の何処かにあった不安を処理しきれず、柄にもなく狼狽えていたのかもしれない。

 急に独り言を発したエリゼに一瞬不審げな視線を送る男爵。顔は俯いたまま、表情は美しく波打つ長髪に隠され変化が読めない。

「どうなさいました、公爵令嬢」
「いいえ、貴方には関係ないわ男爵」

 恐る恐る話しかけてくるその声に思わず口角を上げる。そして、とびきりの微笑を湛え、言った。

「少々ね、面白いと思ったのよ――」
「……は……?」

 人というのは単純だ。あっさりと沈んで、あっさりと浮き上がる。全く以て可笑しい。己の人間らしさが、面白くて楽しくて堪らない。面食らった男爵の顔も、それ以上に笑えて仕方ない。
 ――そうよ。たかが命の危機のないレベルの犯罪に巻き込まれた程度で、揺らぐ方がちゃんちゃら可笑しいの。そんなやわな精神で今まで公爵令嬢として務めてきた訳ではない。それくらいで潰れる心なら――そうなる前にこちらから踏み潰してやる。

「今までの経験と違うから何? そんな過去を当てにするだなんて願い下げだわ」

 落ち込んだ精神を持ち直したエリゼの不敵な笑みは、瞳の輝きと相俟って一層綺麗なものとなった。


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