「はっ、え?今なんて??」

朱袮との事件から数ヶ月経った、すっかり年も明けて、刺すような寒さの痛みにもなんとか慣れてきた頃。私は大学の卒業を控え、繋心さんはバレーボールの指導している母校の烏野高校が、久々に全国出場を決めて、その大会も無事に終わって少し落ち着いたと思っていたそんな時。まだ夢心地みたいにふわふわとしているけど、夢じゃない。バンド人気に拍車がかかってきて忙しくなった怜奈と、久しぶりにプライベートでご飯に行くタイミングを使って報告した内容に、彼女は分かりやすく目を剥いた。

「コーチと結婚!!?するの!!?」
「人の話聞いてたよね?」
「同棲ってもうそういうことじゃん!!私は同棲=結婚に踏み切ったという認識しかできない!!」
「ご飯粒飛んでるやめて」

春高が終わって数日間、彼が何かに悩んでいたのは知っていた。それが私に関わっているということも。朱袮の1件以来、何事もなさすぎるくらい平和で、幸せでいっぱいだった。だけど、もしかしたらそれ、私だけだったりする?と、不安になっていたことが少しだけあったのだ。そうしてその不安が爆発する前に、繋心さんが私を彼の部屋に呼んだ。どうしようとか、なんでとか、何がいけなかったのかとか、色んなことがもやもやしたまま久しぶりに彼の部屋へ訪れると、机の上に雑破に広がった物件資料。

「春高終わったらってずっと考えてたんだけど、‥‥一緒に住まねえ?」

「ゆかり顔気持ち悪い」
「うるさいな!」

あれを思い出すと、どうしても表情筋が全部おかしくなっちゃう。だって私が不安がってた間、結局は繋心さんは私のことを考えくれていたわけであって、私が不安になる要素なんて何処にもなかったのだから。ほんとですかって言った後の笑った顔とか、私の仕事を含めて防音室とかついてる所を探してくれてたりとか、‥そんなの嬉しいを通り越して感激だ。

「アカネさんそれ知ってるの?」
「真っ先に電話した。一緒に住むから住所変わるよって、繋心さんの前で」
「どんだけ鋼のハート!!?」
「だって繋心さんもなんだかんだ気にしてたことでもあるだろうし。仕事の資料も家に送って貰わなきゃだし」
「で、アカネさんなんて?」
「お幸せに、だって」
「丸まったねえ」
「‥丸くなったって言うんですけどね」

スキャンダルの話は、あれから全部朱袮が終息させてくれていて、私に何かが降りかかってくることはなかった。もちろん怜奈のバンドメンバーにはばれていたみたいだけど、そこは怜奈が赤裸々に事情を話してくれたらしい。赤裸々っていうのがなんとも言えない所だけど、有難かったのは確かだし、追求はしないことにしている。以降朱袮との仕事は少しだけ減ったけど、新しい人達との仕事が増えた。‥どうやら彼が手を回してくれたらしい、‥という噂。どこまでも抜け目がないというか、なんというか。

「なんだかんだ‥良い男なんだねえアカネさん‥」
「てか前から思ってたけど怜奈のそれは恋なの?」
「いやいや、アイドル的な」
「あっそ‥」
「幸せにしてもらいなよー?」

ぐびりとビールを流し込んで笑う彼女は、さらに食べ物を追加してジョッキを置いた。幸せにしてもらいなよって言うけど、だから、これは結婚とかじゃないんだってば。まあ‥結婚できたらいいなあとは思うけど。

19時から2人で集まっていたけど、なんだかんだ話していると時間が過ぎるのは早いもので、もうすぐ日付けを越えようとしていた。べろんべろんに酔っ払う彼女に苦笑いしつつも、私も結構なお酒が入っている。久しぶりにこんなにハメ外したなあと、カクテルのグラスを机に置いた。怜奈にも良い人、見つかるといいね。そんな言葉が届いているのかいないのか、ふにゃふにゃと笑った彼女の親指が上に向けられている。次は私が頑張ってあげる番かなあなんて、思っていた時だった。

「ゆかり」
「えっ、あれ?なんで!?」

個室の扉が突然開いて驚いていると、その先にいたのは繋心さんだった。なんで、いるの?どきどきしていると、ふ、と笑って頭の上に掌が乗った。わしゃわしゃと撫でながら、私の目の前で潰れかけている怜奈に視線がいく。

「店ここだって言ってたろ?聞いたら店長がゆかり個室にいるって。武田先生と飯食ってたからついでに寄ってみ‥って、そっちの奴大丈夫か?」
「‥!、?コーチ!!!!?」
「え、あ?はい、」
「想像を遥かに超えた、てか真逆‥金髪かーーー」
「いやっ‥‥え、なんだ‥?」
「すみません、酔ってて‥」
「誰か迎えくんの?」
「だいじょーぶ!ここのスタッフの女の子が大学の知りあいで送ってもらうつもりだったんです〜」

だからゆかりのことは頼みました!と机におでこをぶつけた怜奈は、ひらひらと私に手を振った。

え、ほんとにいいの?また誘うから大丈夫、と大きく両腕で丸を作った彼女は、ぴんぽんと呼び出しボタンを押した。あ、まだ食べるからと気にしないでとけたけた笑う姿は、本当に自由である。財布からお金を出して机の上に置くと、幸せ者は帰れと一掃された。だけどそんな彼女の顔は、とても嬉しそうだった。

「‥前の電話の子ってあの子?」
「はい。超人気バンドのドラム」
「まじで!知らねえ‥失礼なことした‥」
「そんなの気にしない子だし大丈夫ですよ〜」

乗り馴れた軽トラに乗り込んで、帰る先はまだ私の1人暮らしのアパートだ。寂しいけど、もうすぐ帰る先が同じになる。待ち遠しくて堪らないなあと考えていると、ハンドルを掴んでいない左手が、私の右手を掴んだ。ええー珍しい。いつも危ないからとか言うのに。

「どうかしました?」
「顔赤い、ちょっと酔ってんだろ」
「へへ、ばれました?」
「明日仕事は?」
「自宅ワークですねえ」
「お持ち帰りしていいですかね」
「‥ふふ、どうぞ〜」

じゃあ遠慮なく、とふるりと震えた指の先。ふうーと大きく吐いた息は、どうやら何かに緊張していたようだった。












坂ノ下商店のお兄さんが、いつの間にやら誰かの夫になったらしい。

肌を刺す寒さから肌を包むような暖かさになってきた頃、近所の人や、烏野高校のとある生徒達の間で噂になっていた。私の左手の薬指に光るぴかぴかの指輪が、その噂が本当だという証。

「そういえば烏養コーチ、結婚するんだってな」
「もうしてますよ」
「俺達卒業した後だったからな〜。結婚するとは聞いてたけどその辺がまだ分かんなくて」
「どんな人だろうな〜、バレーしてる人かな!」
「なんでキミはなんでもバレーに直結するわけ?」
「バレーに直結してるかもしれねえだろ」
「影山は直結してても驚かないけどね‥」
「お祝いなんかしねえとな、サプライズとか面白そうだべ」
「俺も結婚したい」
「俺も‥結婚‥」
「お前らは清水先輩から離れなさい」
「なんか私達からって分かるような物が良いですかね‥?いや重い‥?そんな重いものを新築の家に置くなんて奥さんも嫌な気分に‥」
「仁花ちゃん大丈夫、良い案だと思うよ」

未だにここのアルバイトは続けている。アルバイトというよりは、もうここの家族という感覚だけど。何度も見た顔ぶれ達は繋心さんの教え子達だ。多分、私が彼の奥さんだってこと、知らないと思う。笑いそうになる顔を何度も引き締めて、店出しするアイスをアイスボックスに入れていると、一際小さな身長の日向君(名前覚えちゃった)がぐわっと私に顔を向けた。

「お姉さんが結婚したらどんなお祝い貰えると嬉しいですか!」
「俺の嫁に聞いてどうすんだよ」

ガラリと開いた扉から、彼の顔が見えた。ただいまという声が、しんとした店内に響いている。私の頬っぺたにするりと伸びて、お前もお疲れとでも言いたそうに優しく撫でる掌。お帰りなさいの声は、彼の可愛い教え子達の声によって掻き消された。


坂ノ下商店のお兄さん


2018.04.14 本編完結

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