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馬鹿みたいにモテる目の前の男は、むっすりと口を噤んで怒っていた。怒っている原因はどうやら私にあるらしいのだが、さっぱり理由が分からない。いや、理由なら一応明言はされているけれども、その理由の意味が分からないのだ。

「なんで俺のチョコがないの!」

はいはいそれ聞いたの3回目。及川君より2つ歳上の私はもちろん徹よりも2年上の社会人で、それなりに仕事を与えられている言わば出来る部類側の人間だ。別に凄く出来るわけじゃない、大半の仕事はそつなくこなせるというだけ。そうして目の前の男はそんな私の勤める会社に入社してきた期待のホープだかなんだかで、今や彼の方が一歩リードしている状況だった。うるさいな、男は成り上がっていくもんでしょ、別に悔しくないし。‥いや悔しいけど。

そうして今年もやってきたバレンタインに、私は毎年のように買ってきたチョコを全部配り終えて、帰る前にと1人給湯室のココアで一息ついていた時だった。ばたばたばた。慌てたように現れたのは、さっきまで課長に呼ばれてきりりとした顔を見せていた及川君。‥ああ、ネクタイがない。取ったのかな。そんなことをぼんやり考えながらお疲れという調子で軽く手を上げると、よかったあ、なんて嬉しそうに笑っていた。

何がよかったんだ?なんて疑問はその直後に晴れて、そして私は困っていた。別に、バレンタインのチョコの数なんて適当で、ちゃんと人数分持ってきてるわけじゃなかったし、あげられなかった人にだって軽口で「明日チロルでいいから頼むわー」なんてけらけらと言われるくらいなのだ。そんな友チョコならぬいつもお世話になってますチョコを欲しいと?

「上司なのに俺にないのはおかしいと思いません?」
「下克上中なんでしょ。そろそろ及川君上司かもよ?」
「センパイはセンパイです」
「‥。わかった、チロル、何味がいいの」
「そんなのイヤです」
「はあ?」
「センパイからはちゃんとしたのほしい」

ちゃんとしたの?ちゃんとしたのってなんだっけ?高級なブランドチョコ?それとも彼氏に送るような手作りのチョコ?いやいやいや、ないないない。そもそも君は上司、同期共にたくさん貰っていたじゃないか。ごくごくとココアを飲み込むと、私を揶揄っているだろう及川君に嫌味ったらしくふふふと笑った。あげるものなんて何もないよ。ないけども。

「じゃあこのココアで勘弁してよ」
「はあ?」
「半分飲んじゃったし、口紅少しだけついててもよければ?」

目には目を、歯には歯を。つまり揶揄われるなら揶揄ってやる。女のルージュなんかついたマグカップに口をつけるのなんて、潔癖症っぽい及川君にはできそうにないんじゃない?そうして毛嫌い気味にこの人最悪だなくらい思ってくれればいい。本当に仕事の出来る頭の回転の速い男に、手篭めになんかされるのなんかごめんだもの。私はほいほいと言う事聞くような女じゃない。受け取ることなんて絶対しないだろうと思っていたマグカップを差し出すと、及川君は眉間に皺を寄せて少し睨んだ後、奪い取るように掻っ攫っていった。

「え‥は、ちょっと、」
「なんですか、貰っていいんですよね?半分」
「いや、‥普通受け取らないでしょ、マグカップに赤いのついてるじゃん、分かったらさっさと」
「‥つきました?」

ぺたり。及川君は私が捲し立てるのを無視して、薄い唇を赤に濡れたそこに口付けた。まるでキスでもするみたいに優しく触れて離れていく姿に私がとんでもないことをさせた気分になってしまう。唇をマグカップから離した及川君のそれには、確かに私と同じ色の真っ赤なルージュがついていた。‥ほんのり濡れた唇に、私と同じ色が。

「‥あま、」
「馬鹿じゃないの‥頭おかしいの‥?」
「頭おかしいのはセンパイでしょ」
「いやいや」
「こんなことで俺が引くとでも思ってます?」
「思ってたよ、むしろ今でも思ってる」
「残念」
「なに、‥ちょっとこっち来ないで、」

ずいっと近付いてくる及川君は、飲んでいたマグカップを机に置いて迫ってくる。狭い給湯室、只でさえ近かった距離はいつの間にか0になりつつある。

「こっちにも甘そうなのついてますけど」

奪っても問題ないですか?大アリだこの馬鹿野郎!だけど、出掛かった声も心臓がそのまま飛び出してしまいそうで出すことができなかった。‥なんなの、最近の若い子はこんなに簡単にキスでもなんでも出来ちゃうの?2つしか歳が違わないという事実を頭の外に放り投げて、食べますけどもういいですよね?と笑った及川君に、私はなんのアクションも起こせずにがぶりと食べられてしまった。‥ああ、砂糖入れすぎてたかもしれないなあ。こんなに甘く感じるなんて。

2018.02.15