幸せな時間はずっと続くものだ、とはもう思っていない。幸せな時間があればそうじゃない時間だってある、悲しいことも苦しいことも、辛いこともある。そのことをきちんと理解していたって「どうして」と思ってしまうのも無理はないだろう。

今まで痛くなかった体、出ていた声。今は嘘みたいに痛くて、掠れて出ない。目が覚めた時に見えたのは真っ白な天井と、いくつかの点滴の袋だった。だけど、体が痛かった理由の一つはすぐに理解することになる。私の太腿辺りに突っ伏した黒い頭の何かが見えたからだ。声が出ない代わりに、点滴を打たれた左腕を伸ばしてゆっくりと体を揺する。
ずっとここにいてくれたのかな、飛雄君。今日は練習とかなかったのかな。‥いや、流石に休んでくれたのかもしれない。私がこんなだから、‥飛雄君はすごく分かりにくいだけで、優しい人だから。

「‥、っ、なまえ、」
「――‥‥ぇ、」
「喋んな、いい」
「――」
「聞いたから、全部」

まるで空気が抜けるみたいに言葉にならない。「ごめんね」も「ありがとう」も、どうやら簡単な単語でさえ声にするのが難しいらしい。いずれこうなるということは分かっていたはずなのに、いざその時がくると歯痒くて泣きたくなる。「全部聞いた」というのも、恐らく病院の先生からなのだろう。飛雄君の目は、泣いたのか真っ赤になって少し腫れていた。

「俺の言葉が足んなかった」
「‥?」
「声なんかなくたって俺はなまえのこと全部愛してんだって、ちゃんと伝えてればよかったんだよな」
「――‥‥ぅ、ぅ」
「だから、隠してたんだろ‥?」

もどかしい。なんにも伝えられないのが、勘違いさせているのが。
飛雄君の純粋な気持ちなんて痛い程伝わっていた。冗談なんかで付き合ったり、一緒にいてくれるような人じゃない。確かに彼が好きだと言ってくれた声は無くしたくないし、その考えは今も変わっていない。けれど、貴方の気持ちが伝わってなかったから隠していたとか、そういうことではないのだ。

「‥、――、」
「なに、え、アレか?」

多分私の声がもう殆ど出ないことを分かっていて、誰か看護婦さんが置いて行ったのだろう。すぐ隣のサイドテーブルにあるメモ用紙とペンを取って欲しいと飛雄君にお願いして、ゆっくりとペンを持つ。‥そう言えばここに来て何日経っているのだろうか。私は、いつまで。

久しぶりに紙に文字を起こす。ちょっとだけよれている自分の文字が情けなくて不格好で、読んでくれるかなって思ったけど、飛雄君は私が何かを書く作業をじっと大人しく見ていた。

飛雄君が声が好きって言ってくれたから絶対手術したくなかったの だからわたしのワガママだよ

紙に汚く滲んだインクに苦笑いしながら飛雄君に書いたものを見せると、ぎゅっと唇を噛んで私の両手をペンごと握る。少し、痛い。

「声なんかいいんだ、なまえが生きていればそれでいい」
「――‥、ぁ」
「今からでも遅くないんだったら俺は昨日医者に頼んでた。悪いところ全部取り除いて、全部治してくれって。だけど、‥ ―― ほんと、なんで俺なまえがこんなになるまで気付いてやんなかったのかって‥」

だけど、の続きを言わなかったってことは、つまり多分そういうことだ。
一人にしちゃうね、ごめんね。
勝手なことばっかりしたね、ごめんね。
嘘ついちゃって、ごめんね。
きっと声が出る状態だったら、私の口からはごめんねばっかりが吐き出されるだろう。でも、飛雄君のことだから「ごめんばっかり言うなよ」って怒るかもしれない。

「ごめん‥」

だけど、違った。謝ったのは飛雄君の方だったのだ。眉毛を中心にぎゅうと寄せて、握っていた私の両手を痛い程に握りしめて。1%だって貴方のせいではないのに「俺が悪いんだ」と自分を責めて。違うのに、‥そんなの全然違う。

「馬鹿みたいだな、俺、ずっとなまえの側にいたのに、なまえのことなんも気付いてやれなくて、‥ごめんな、‥ごめん‥」

取り繕ってる。泣かないように踏ん張って、昔みたいな下手くそな笑顔でいようとしている。震えて止まらない掌を握って抑えようとした感情は止まることなく、私の頬を流れ出した。ああ、ずっと一緒にいたかったなあ。そんなことを今考えたって、もうどうしようもないことを私が一番分かっているのに。

2020.05.22