何も気付いていなかった。目を瞑って歌っていたのだからしょうがないのだけれど、1曲歌い終えてすうっと目を開けると、微動だにしない青年が2m先くらいに立っていたのだ。うわっ!吃驚した!その驚きは青年に全く通じていなかったようで、じいとこちらを見ていた漆黒の目がぎょろりと動いた。だから、こわ!こわいってば!

「えっと、あ「‥すげーっすね」はい?」
「ランニングしてたんすけど声が聞こえたんで」
「ランニング‥」
「いつもこんなにお客さんいないんすか」

誰もいないすっからかんの風景を見て首を傾げていると、ど直球に言葉の刃物という名の凶器でぐさりと刺してきた。うーわそれ滅茶苦茶失礼なんだけど。真顔で言い切った青年は笑うことは全くしなかったけど、ついかちんときてしまって自分の口端が少しだけ歪んだのが分かった。別にいいんですけど。こちとら初めて来た場所にお客さんが群がるようなアーティストじゃないんですまだ。まだね。

「今日初めてここに来たんです。‥もしかして気分悪くしました?」
「大丈夫っす」
「そうですか‥で、なにか用ですか‥?」
「すげえ良い声なのに皆勿体ねえなって」
「は、‥へ?」
「俺すげー好きです」

ざわり。冷たかった風が温い。な、なに‥なんか告白されてるみたいなんだけど。いや違うんだけどさ、単純に声が好きだって言われてるだけなんだけどさ!びいんと指に弦が引っかかる音がして我に返ると、風のひやりとした感触が元に戻っていた。真っ黒の瞳はじいとこちらをずっと見ていて、なんだか落ち着かない。‥なに、なんか歌え?歌えって‥?

「いつもここいないですよね」
「だから今日初めて来たんです、ここ」
「‥喋る時と歌う時は全然声が違う」
「ちょっと人の話し聞いてます?」
「もっと聞きてえけど、練習始まるしな‥」

駄目だ、この人全然人の話し聞いてないわ。ぶつぶつ1人で独り言を続ける彼に溜息を吐くと、コードを1つ大きく鳴らす。もう1曲だけ歌って帰ろうか、いや彼の為ではなく。お腹に力を込めて、1番リズムカルなナンバーを。自分を乗せたい時に聞いたカバー曲を。

今日は声の調子が良かったなあ。明日は仕事があるから、ホームページには明後日路上しますって載せておこう。そうして伸びやかになる自分の声についつい笑ってしまった。だって嘘みたいに出るんだもん、声。ふと奥のマンションから人が何人か覗いているのが瞳に映った。もそり、もそりと増える影はこちらを見ている。前を向いた瞬間ぱちりと目が合った青年は、何か大好きなものを初めて与えられたような少年みたいな目をして私を見ていた。そ、そんなに見られると流石に照れるんだけど‥。

またきます

そんな風に口パクをしたであろう青年は躊躇しながらもゆっくりと走り始めていて、走りながら何度もこっちを振り向いていた。練習と言っていたということは、部活?いや、さすがに高校生という感じじゃないか。じゃあ大学生?チームかなんか?そこまで考えていたが、私は段々と考えることが面倒臭くなってきて思考を放棄した。よく分からなかったけれど、多分彼は彼なりに私を褒めていてくれたのだろうからそれでいいじゃないか。

気付いた時には周りに少しギャラリーが増えていて、さっきよりも暗くなっていた。もうこんな時間か、そんなに歌っていたのか。疎らに鳴り出す拍手にギブソンを掻き鳴らして御礼をする。CDとかないんですか?その言葉にも慣れつつあるが、また嬉しくなって声が大きくなった。

「なあ」
「え?」
「自分1人でこんなことやっとんの?」

今日はまた色んな人に会うなあと、顔を上げて思った。言葉に棘はなさそうだったけど、やはり言い方には棘があるように聞こえるのはしょうがないと思う。

「勿体ないよなあ、治」
「おんなじこと言うなやこのボケ」

同じ顔をした鏡の中の2人みたいな男2人。背中に見えた楽器のケースに少しだけ心が踊った。あ、同業者なんだ。多分。にいっと笑った片方は私にずいと自分の掌を突きつけてまた笑う。あ、握手?というか‥ちょっと胡散臭い?だけどたっぷりと纏わり付いたような自信が目に見えるようだった。

2018.03.02