「侑」
「‥なんや」

一応退院という形になってから初めて、侑と会った今日。スタジオのど真ん中で、挨拶をしたのに挨拶を返してくれなくて、私に背中を向けたままベースのチューニングを行なっている。前面に張り巡らされた鏡を見ても、侑は下をずっと向いているせいで表情は確認できなかった。

「ふざけんなや!」

3日程前、治と二人で侑と永田さんを説得した時、侑から左の頬っぺたをぱしんと叩かれたことが忘れられない。でも、叩かれるのもしょうがないと思ったし、我に返った侑は驚いたように引っ叩いた自分の右手を見て、でも謝ることはなく悲しそうに私の顔を見つめていた。思わず立ち上がった治を永田さんが押さえて、殴り合いの大喧嘩になってしまいそうな二人を止めているのを、事の発端を起こした私は赤くなった頬っぺたをそのままにして、ぼんやりと見ていることしかできなかったのだ。

「引っ叩いたこと謝らへんぞ」
「謝らなくていいよ。私も謝んないから」

それに、引っ叩かれたことを合わせて考えたって、土下座以上のことをしないといけないくらいのことをしているのは私の方だ。3人でバンド活動している以上、2人にはこれからもっと迷惑をかけることになるし、永田さんにだって契約会社にだって、甚大な損害を被らせてしまうかもしれない。‥でも、それでも考えが変わることはない。声が出なくなることを選ぶなんて無理だから。‥そんなの、絶対にできない。

びいん。ピッチの合っていないEの音が空気に触れて揺れた。不安定なその音はまるで今の私達みたいで、少しだけ悲しくなる。ちょっと前までは全てが順調だったのに、‥いや、それ以上考えるのはやめなければ。

「治は?」
「便所」
「そっか」
「なまえ」
「うん?」
「どうしたってもう、考えは変わらんのか」

びいん、びいん。チューニングをする手は止めない、何度も何度も、安定しないEの音だけが鼓膜を揺らす。どうしたってもう、変わらない。むしろ変わるんだったら、多分もう変わってるだろう。ゆっくりギターケースを撫でながら、私は大きく息を吸った。

「うん」
「‥‥」
「侑、」
「俺は、」
「?」
「ずっと3人でやりたい、新しい曲やって無限に作っていきたい、でもそれは、なまえがおって初めてできることで、なまえがおらんとできんことで。‥5年経っても10年経ってもやれるんやろうなって思っとったんや。ずっとやで、ずっと」
「‥うん」
「どーしても、無理なんか?お前の選択肢の中に、手術するっちゅー選択は増えんのか‥?」
「なんぼ言うねんオマエ」
「治」

ばたんとスタジオに入ってきた治は、もう私の思いを理解してくれている。いや、全てを理解してくれているわけではないのかもしれない。「本当に理解してくれてる?」って言ったら「いや、実際無理やろ」って半笑いで言われる気がする。だけどこちらの気持ちを尊重して、治は受け止められるだけ受け止めようとしてくれているのだ。

「後悔せんようにやらなアカンのやからはよチューニング終わらせろや」
「今やっとんねん声かけんな、狂うわ」
「そもそもその弦ずっと替えてないやろ。そら狂うわ」

煩い2人に険悪な雰囲気はもうない。でも、やっぱり気分は落ち込んでいるのかもしれない。そんな2人をこの目で見られるのもあとどれくらいなのだろうか。

あと何曲作れるだろう?
あと、何回ライブができる?
あと何回2人に、「ありがとう」って言える?

あと何回、飛雄君に「好き」って言える?

未来なんて見たことがないし見れる筈がないし、予想できたってその予想通りにいくなんてこと、あるわけがない。MTRを使い始める前に五線譜のノートに書き込んでいた、まだ試奏もしていない未完成のおたまじゃくし達は、蛙になれないまま譜面だけを泳いでいる。早く孵してあげたい。観客という名の波に、全部。

「ねえ、今日永田さん来るかな?」
「来るやろ。一番過保護やでアイツ」
「私ね、1つどうしてもやりたいことあるんだ」
「やりたいこと?」

にひ、と頬を上げて笑ってしまったが、2人はクエスチョンマークを浮かべてお互い右と左に首を傾げていた。私が「どうしてもやりたいこと」は、この間永田さんを含めた4人で話し合った後、考えていたことだった。後悔なく自分の人生を全うするには、絶対にやっておかないといけない大切なこと。

本来ならば、現段階で咽頭がんの症状として、口が動かしにくかったり舌が動かしにくかったり、もっと声の変化もあるはず、とのことらしいのだが、私は末期にも関わらず何故か大きく発症していないそうだ。これは多分、神様が癌を発症した私に与えてくれた最後のプレゼントだと思っている。

「ふふふ」
「なんやキモいで」

新品の弦に張り変わった音は、もう不況音を鳴らしてはいなかった。

2019.05.17