三千世界の鴉を殺し君と朝寝がしてみたい 幕間


「……ナマエ」

 名を名乗ったナマエ・ドラコニアという同い年の少女に、なにかを思ったわけじゃない。特別な出会いだったわけでも、劇的な運命を感じたわけでもなく。
 特殊な生い立ちのせいで他人の敵意には聡かったが、初対面のナマエが俺に向ける敵意は他のどれとも異なっていた。マレウス様のうしろから俺を睨みつける瞳に侮蔑はなく、どちらかと言うと怒っているような表情だったのだ。俺になぜか怒っているが、その理由はわからない。……おかしな子どもだと思った。
 最初から嫌われている自覚はあったため、城内で会ってもナマエに話しかけることはなく、そもそも話が弾むような話題もなかった。
「お主は口下手が過ぎる、友達ができるといいんじゃが」親父殿にも心配されたが、ご恩を返すために生きている俺には友達など不要だった。人間の身でありながら親父殿に育てていただいたご恩は、誰に貶されたとしても消えない。どうでもいい。俺が人間だというとことは事実だから、悪く言われてもなにも思わない。

 すぐに諦めた。誰かにわかってもらうことも、言葉を尽くすことも。

 けれど、彼女は大きな花瓶を抱えて俺の前に現れた。見ていて、なんて言って、お姫様らしく猫を被って、俺の手を取って、普通の女の子のようにスカートを翻して、それから無邪気に笑った。彼女に手を引かれながら見た景色は、衝撃と真新しさにチカチカと光っていた。
 半分人間の血が流れているナマエは、自分が自分らしくあることを絶対に諦めない。弱々しそうな見た目をしているのに、存外にしたたかなナマエは尊厳を失わないようにまっすぐ生きている。他人なんてどうでもいいもの!! と笑い飛ばして。
 とうに諦めていた俺の目の前を、ナマエは凄まじい速度で横切ったかと思えば、その手で俺の手を掴んでくれていた。俺の記憶はいつだって、幼いあの日に手を引いてくれたナマエの小さな後ろ姿を掘り起こす。長い髪に結び付けられたリボンが揺れ、俺にはよくわからない背中の意匠も揺れている。
 思えば、あの時からナマエは俺の特別だった。俺より少し背の高い、凛々しく気高い少女に心を奪われていた。




 ナマエは強さも優しさもある。だからこそ、彼女が危険を冒すことは目に見えていた。星の輝きひとつない、ナマエが殺されかけた晩のことは今でもよく覚えている。

「シルバー、お主には動物たちの導きがある。ナマエを探すのじゃ。わしとマレウスは森を一度巡回してくる。……怪しい気配は消えておるが、用心せい」
「はい」

 ナマエがいない部屋を視界に入れた瞬間の恐怖は、温もりさえ消えているベッドに触れた瞬間の焦燥は、言葉では言い表せないだろう。どうしてこんな時間に、どうして森なんかに。疑問ばかりが浮かんでは、恐れや焦りに呑まれて消えていく。
 俺の前方を飛ぶ鳥は迷いなく進んでいき、早く早くと急かす。わかっている。俺だってもっと早くナマエのもとに行きたい。だが馬に乗っている以上、そうもいかない。冷たい風が吹き抜ける明かりひとつない闇は永遠に続いているのではないかと錯覚してしまいそうになるほど長ったらしかった。
 頼むから無事でいろ。頼むから、傷ついていないでくれ。そうして切実に願うのも、久々だった。
 夜に溶ける大木は魔物のように、座り込むナマエを囲っていた。剥き出しになっている膝は血で濡れ、綺麗だったはずの衣服も泥だらけになっている。俺の名前を呼ぶ声に安堵が混じり、俺を見た途端に力を抜いたことはわかっていたが、どうしても言ってやらなければ気が済まなかった。どうしてこんなに危ないことをしたのかと、どうして自分のことを大事にしてくれないのかと、怒鳴ってでも聞かなければ俺のほうがおかしくなりそうだったのだ。幼い俺には感情を制御するなど不可能に近しく、みるみる血が上っていく頭で「親父殿にまた叱られるな」とも思ったが、ストッパーが壊れた口はナマエを責め続ける。
 俺に涙を見せないように顔を逸らすナマエを見て、ようやく傷つけたことを悟った。もう聞きたくない、と悲痛に叫ぶ声は痛みに耐えているそれで、冷静さを欠いていた頭がさっと冷えた。涙目で俺を睨みつける彼女に、違う、とも、ごめん、とも言えない。ただでさえ口下手な俺には、芯の強いナマエを泣かせてやれる気の利いた言葉を紡ぐことすらできなかった。
 だが、俺は思い違いをしていたようだ。ナマエは強くもなんともない、触れたら壊れそうな脆さを持っている少女だった。「こわかった」と声を震わせて、マレウス様に泣き縋るナマエの姿に、現実を突きつけられたような気がした。ナマエは包み隠さず接してくれている、俺に信頼を置いてくれている、そう自惚れていただけだと気づいて、手を握りしめてしまったのは仕方のない話だろう。
 俺の前では泣かなかった。マレウス様には小さな子どもみたいに泣きついた。その対比が、酷く、惨たらしく思えた。
 ナマエは強くなんかない。弱さを見せられる相手がマレウス様ただ一人だったというだけで、俺が彼女の弱さを知らなかっただけで、ナマエは本当は泣き虫だった。

「ナマエにはマレウスだけじゃったからのう。赤ん坊の頃から、わしにも泣きつかんおなごじゃった」

 親父殿がおっしゃるには、ナマエは半分人間だからという理由で何度か殺されかけたらしい。人間の血を引く姫君は茨の谷にふさわしくない、と言われながら育てられたナマエは生きていくために泣かなくなり、弱みに付け込まれないように、悪意にくたばらないように、矜恃を奪われないように、気丈に振る舞うことで自分自身を守ったのだと。
 哀れな姫。寂しいと叫ぶことも許されなかった可哀想な姫。
 この頼りない胸に燻ったのは同情か、愛情か。けれどもどうか、後者であってほしいと思う。彼女が望まぬものは俺も望みたくない。
 俺にも弱さを見せてほしい。そう思うようになったのは、ごく自然な流れであるように思えた。
 俺は自分自身を飾り立てるのも、言葉を飾り立てるのも苦手だ。それでも、弱さを隠してしまうナマエのそばにいたかった。何年も前にナマエが見せてくれたおとぎ話に登場する騎士と姫君のように、大切な少女と共にいたかった。

「シルバーが……いいなら」

 まさか受け入れてもらえるとは思ってもいなかったが、突拍子もない俺のプロポーズに頷いてくれたナマエは少しずつ心を開いていった。

「シルバー」

 女らしく育つにつれて、驚くほど綺麗になっていく彼女は俺を穏やかに呼ぶ。流れる時は呪いのように、ナマエを美しくしていく。物事の美醜に関しては頓着しない質ではあったが、女へと羽化する彼女の姿形はゆっくりと時間をかけて身体を蝕む猛毒のようだった。

「シルバー、妖精がビスケットをくれたの」

 ナマエの背を追い抜き、出会った頃よりもずっと成長した俺にはその小ささが気になった。見下ろせば伏せられているように見える睫毛も、ナマエがこちらを見上げれば飴玉のような瞳がよく見える。少し前までは同じ高さほどの目線で話していたような気がするのに、ナマエの両目に見つめられると、らしくもなく動揺してしまっていた。
 彼女の性別はちゃんとわかっていたつもりだったが、まるみを帯びるなだらかな身体に成長していくナマエの姿を見てようやく、“本当の意味で”気づかされたのだと思う。彼女は女なのだと、無理やり理解させられた。
 常に無防備にしているナマエには男心なんてわからないだろう。好きな女に触れたいと、そう思うのは男の性なのだからしょうがないと言われてしまえばそれまでだが、未熟なくせに手を出す半端な男にはなりたくない。
 触れたらもっと欲しくなるとわかっている。

 今はまだ、ナマエのそばにいられたら、それだけで十分に幸せなのだ。


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