イヴの傍証 07


 人間の女性は人間の男と番い、その薄くてたいらな腹に生命を宿し、十月十日の時を経て子を守るらしい。卵生でもなく卵胎生でもなく、母親が自らの血肉で我が子を育て、慈しむ。
 ずっと泣き続けているナマエは虚ろな瞳で僕を見上げた。なんと悲しい色を灯すのだろう。
 散々セックスという行為をバカにしておきながら、未だ誰も知らなかったであろうナマエのそこを暴いた。これは確かに、愛を知らなければとてもとてもむなしい行為だ。空腹と渇きは癒えた。けれど心はまだ寂しかった。

「……ジェイド」

 もしも彼女が子どもを宿せば、僕が知ることのできるそこより深い場所で子どもを守っていく。十月十日もそこにいて、僕の最愛のあたたかい海の中にいて、産まれてからも彼女の愛情を一身に受ける。
 ずるいじゃないか。僕は彼女の心さえ、ひとつとしてもらえないのに。僕が絶対に触れられない場所で、守られて、あいされて。

「僕と生きてください」

 うわ言のように囁いても、シーツにくるまり横たわるナマエは何も言わなかった。ただ、大きな目をぐずぐずにとろけさせて、首を横に振るだけだった。こんなに小さな身体で僕を受け入れてくれた彼女に、泣いてしまいたかったのは僕のほうだ。

「ジェイド」

 ジェイド、と愛おしそうに呼ぶくせに。シーツを掴む指先に指を絡めたら、桜貝のような小さな爪があまりにもかわいらしくて胸が苦しくなっていく。ナマエを形作るすべてのパーツは僕と同じ生き物とは思えないくらいに頼りなくて、ちょっと乱暴したら粉々に壊れてしまいそうだった。

「まだ、まだあるんです。君と一緒に見たいものも、食べたいものも、連れて行きたい場所だって……! そうだ、二人で逃げましょう、そうすれば、きっと──」
「ダメ、ダメだよ」
「どうしてですか? あなたが望むなら、僕は海に連れていきましょう。海の中なら、どこへだって案内できます」

 僕は迷子だった、あの夜にフロイドと見た海を思い出した。ナマエも僕も、まったく違う場所で孤独を抱えているように思える。このまま、ナマエはとぷんと沈んで消えてしまいそうで恐ろしく、情交が終わっても離してあげられそうになかった。

「俺はジェイドに相応しくない」
「まだ、それを言うんですか」
「十年」
「十年……?」
「十年だけ、待って。ジェイドの隣に立てるように頑張るから」
「待てません。僕のためだと言うならそばにいてほしい」
「じゃあ七年……?」
「嫌です」
「五年は?」
「長すぎます」
「わがままだ」

 ナマエが場違いなくらい幼い笑い声を漏らした。無邪気で、無垢で、しあわせそうな。

「いくらでも言いますよ。愛している。ナマエが望むなら、僕は海に帰らなくたっていい」
「や、痛いッ」
「ナマエ……お願いです」

 可哀想な生き物は悲鳴をあげた。無防備な鎖骨には噛み跡がついていた。
 どうか行かないでと素直に縋ればいいのに、僕はどこまでも器用じゃない。これが片割れだったなら、上手に懐に潜り込んで丸め込んで、お願いできただろうか。

「ナマエが望むもの全部、全部聞けば、あなたは僕と一緒にいてくれますか。魔法で聞き出せば、そばにいてくれますか」
「も、それはやだ……」
「だったら聞かせてください。本音も何もかも、隠さなくていい」

 僕の愛しい女の子は目を伏せ、やわらかくておいしそうな唇を震わせた。

「おれ、じゃなかった……わたしはジェイドの隣にいていいの?」
「僕はそばにいてほしいと何度も言いました」

 赤い頬を幾筋も水滴が流れた。

「ジェイドの故郷に行ってみたい」
「ええ、行きましょう」
「わたし、ほんとは、甘いものが好きなの」
「僕も嫌いではないですよ。一緒に作って食べましょう」
「かわいいものも、好きなの。かわいい服が着てみたい」
「ああ、あなたにはとても似合うでしょうね」
「ずっと、ずっとね……誰かに、愛されてみたかった、それで……」
「ええ」
「誰かの、お嫁さんになりたかった」

 僕は、こんなにも愛らしくていじらしい生き物を他に知らない。転んでしまった子どもみたいに泣いてしまえばいいのに、ナマエは声を押し殺して泣こうとする。

「ジェイドのお嫁さんにしてくれる……?」

 瞬くような光の粒を押しのけて、愛情が、慈しみが、押し寄せた。奥歯を噛んでいないと今にも泣いてしまいそうで、ナマエを抱きしめていないと幻だと勘違いしてしまいそうで、彼女を両腕の中に閉じ込めた。

「僕を喜ばせてどうするんですか」
「苦しいってば」
「あなたがかわいすぎて絞め殺してしまいそうです」
「……フロイドみたい」
「他の男性の名前を出すなんて些か無粋では? たとえフロイドでも、嫌です」

 ナマエがまた笑った。今ばかりは余裕のない男だと思われたって構わない。
 今夜のことを忘れないように、約束を違えないように、左手の薬指をお互いに噛み合った。ナマエの小さな指に残った歯型は、僕の欲求を満たすには些か不十分だ。あぶくのように消えはしない印が早く欲しい。
 くすぐったそうに笑う彼女と見つめ合い、どちらともなくキスをした。

「あいしています、ナマエ」
「ん」
「ずっとずっと、愛しています。どうかそばにいてください」
「うん、そばにいさせて」

 ベッドが軋み、ナマエの小さな「うばって」と囁く声が聞こえた。僕は何も言えなくなって、彼女の高い体温と僕の低い体温がもう一度深く混ざりあった。


<< fin.
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