ワールドエンドのその先に 04


 わたしごときが王子との結婚をどうにかこうにかできるわけもなく、レオナとの婚約破棄の件は保留となった。
 わたしたちの関係は国民に向けて大々的に発表していたことではないから、今さら破談になったとしても困ることはほとんどない。むしろ、財政が赤字に傾き始め没落しそうな勢いで富を失いそうになっている我が家の必要性はどこにもなく、新興の貴族と関係を結んだほうが王室にとってもよっぽど為になるだろう。
 わたしとレオナのことを知る大貴族たちは口々にこう言うのだ。王室に相応しくない、他にもっと実になる縁談がある、と。

「な、なぜなのか理由を聞いてもいいだろうか? レオナのことが嫌いになったか? それともついに愛想を尽かしたか?」
「あなた、落ち着いて。この子にも事情があるのでしょう」

 両陛下のお言葉になんとお答えしたか、ひとつも覚えていない。ただ、やさしい人たちだと思った。厚顔無恥な痴れ者の言葉にまで耳を傾けてくださったお二人には申し訳ないけれど、わたしはレオナの妻にはなれない。わたしには彼を支えられない。
 宮廷でのことを思い出し、なにをする気にもなれず自室のベッドに横たわっていると控えめにノックが響いた。随分と老い衰えた父がひょっこり顔を出す。あんなにたくましく感じていたはずの父の身体はこんなにも小さくなってしまっている。彼はすっかり悪くなってしまった片足を引きずりながらこちらに近づき、ベッドに腰かけた。二人分の体重に、ギシ、とベッドが悲鳴をあげる。
 きっと婚約破棄のことについて話しに来たのだろう。事前に伝えておいたけれど、父は納得していないのかもしれない。なにを言おうか考えあぐねていると、彼のほうからぽつりぽつりと話し始めた。長男としてこの家を守り続けてきたこと、若い頃は苦労ばかりしていたこと、王室の繁栄がなによりも嬉しいということ。父という人間の人生について初めて触れた気がして思わず聞き入ると、大きな手がわたしの頭を撫でた。

「我が家はもう没落しかけているからな……理由はなんであれ、お前の決断は素晴らしいものだったよ」

 王室のために、王族のために、誠意を以て尽くしてきた父らしい言葉だった。思わず一粒だけ涙をこぼすと、老いた瞳がやさしい色を灯す。

「お父様、わたしは弱いのでしょうか」
「いいや、強い子だ。殿下の許嫁になったことで矢面に立たされ続けていたのはお前だったのだから」
「……」
「もういいんだよ。この土地も屋敷も引き払って、家族みんなで田舎に暮らすのもいいと思わないかい」
「……ええ、素敵ですね」

 声が震えた。
 レオナは悪くない。きっとわたしも悪くない。好きな人には好きな人がいた、なんてドラマチックな恋愛小説の始まりみたいで素敵でしょう。
 この国を出たレオナに好きな人ができただけで、広い世界を知った彼だからこそ真の愛を見つけられただけだ。わたしたちは、ただ偶然、レオナが第二王子に生まれてわたしが貴族の家に生まれたから引き合わされただけの運命だった。レオナを結婚という檻で縛ったところで、虚しいだけ。

「愛した人と幸せにしてくれる人は必ずしも同じじゃない。自分を幸せにしてくれる人と結婚しなさい」

 わたしという存在は彼らの恋をより可憐に美しく引き立てるための演出のひとつに過ぎなかったのかもしれない。


  ◇


 どうしてこんなことになっているのだろう。婚約破棄の件で話がある、とお聞きしたから宮廷に行ったのに、室内にはレオナがいた。学園にいるはずじゃないか、どうしてここにいるのか、そんな疑問より先に、わたしを視界に捉えた瞬間の彼の顔があまりにも恐ろしくて勢い余って逃げ出してしまった。
 足がもつれて今にも転んでしまいそう。既に限界を迎えている肺は苦しくてたまらないのに足の回転は止まらず、立ち止まれない。疲れや苦痛より、レオナへの恐怖心のほうが大きかった。
 待て、と言う声は聞こえてくるけれど彼が魔法を使う気配はない。レオナは無駄な労力を割くことを嫌う。だというのに、わたしとかれこれ十分は追いかけっこをしている。長い廊下を走り回るのは得策じゃないと気がついて、階段を駆け下り中庭に降り立ったその時だった。

「俺に手間かけさせんじゃねぇ」
「……っ」
「行動パターンが分かりやすすぎんだよ、お前は」

 レオナは二階の廊下から飛び降り、わたしの目の前に立った。怠そうな声色の中に憤慨を感じさせる。一歩下がれば大きな一歩でその距離を帳消しにされ、いきなり酷使された身体はもうガタガタで、じりじりと近づくレオナの眼光に身動きも取れなくなった。ぺたんと伏せられ横向きになっているわたしの耳は、怯えを悟らせるには十分だったらしい。臆病になっていく気持ちとは裏腹に、「うー……」と本能的な唸り声だけが喉を震えさせた。自己防衛のための唸りだと分かっていても、彼の表情はより険しく、不機嫌になっていく。

「チッ、めんどくせぇ」

 素早く伸びてきた腕はわたしを捕まえ、抵抗する暇もなくあっという間に肩に担がれた。召使いの人たちはレオナと彼に抱えられるわたしを見てそそくさと道を開けていく。うー、うーという唸り声は相変わらずやまない。レオナのしっぽが振り子のように行ったり来たりを激しく繰り返している。
 しばらくして辿り着いた先はレオナの部屋だった。懐かしいその場所はレオナらしくないくらいに綺麗に整頓されたままで、脱ぎ散らかされた服も本棚から出しっぱなしになった魔法書もない。この部屋で二人で遊んだ幼い頃を思い出すと胸が痛くなり、目頭が熱くなっていく。泣きたくなんかないのに、ベッドに投げ出されたせいでその拍子に涙がぽろりと落ちた。
 わたしが起き上がる前に身を乗り出した彼の表情はほの昏く、わずかに憂いを感じさせた。

「いや、いやです」
「いや? それが俺に向かって言う言葉か?」
「殿下、おやめください」
「レオナだ」
「レオナ様、本当に」
「レオナ」
「……おふざけはおやめください」
「おふざけだと? お前はおふざけで俺が帰ってくると思ってんのか。なァ」

 わたしに、気安く名前を呼ぶなと言ったのはあなたじゃない。
 反撃しようにも、押さえつけられた手は動かず、太もものあいだに入り込んだ筋肉質な身体を蹴りあげることもできない。五年以上前とは比べ物にならないくらい成長しているレオナは、残酷な独裁者のように理知的な翡翠の瞳を細めた。
 食われる。いま、この猛獣に。
 艶かしい赤い舌が自身の上唇をぺろりと舐め、綺麗に並んだ前歯がわたしの指を食む。レオナは鋭く尖った歯を剥き出しにして今にも唸り始めそうだ。薄い皮膚を破り、赤い肉を喰らい、骨の髄まで余すことなく食べ尽くす。部屋に置かれた豪華絢爛な姿見には、飢えを覚えた肉食獣に為す術もなく襲われる哀れな獲物の姿が映っている。

「男ができたのか」
「なに、が」
「はっ、とぼけようってか」
「や、いやっ」

 足をどんなに動かしてもシーツの皺が増えるだけ、身体を捩ってもベッドが沈むだけだった。わたしを押さえつける力が一瞬弱まり、その隙にレオナのしたから逃げ出し後ずさると背中にヘッドボードがあたる。わたしをじっと見つめているレオナは楽しげに唇をゆがめ、両端の牙を覗かせた。

「あァ、もう抱かれちまったか。どうだったよ、そいつの味は」
「や、れお、な……まっ」
「離れちまうくらいならさっさと喰い殺しときゃよかった」

 吐き捨てたレオナの下に再び引きずり込まれ、うつ伏せのまま上から押しつぶされた。硬い身体は鉛のように重く、太ももにレオナの長いしっぽが絡みつく。レオナのそれは、番同士の交尾というより、暴れる草食動物を喰い殺さんとする肉食獣の捕食行動じみていた。
 シーツを握りしめるわたしの手にレオナの手が重なって、首裏をざらりとした生あたたかいものが伝う。フー、と荒れるわたしの呼吸を嘲笑う声は間違いなくレオナのものだった。

「ひっ……ぅ! や、いた、いっ」

 鋭い歯が肌を喰い破り、生ぬるい液体が首筋を流れていく。流れ落ちた鮮血はシーツを濡らし、赤く赤く汚していく。耳のそばで、じゅる、と血液を啜る音がした。ぴちゃ、ぴちゃ。舌先で血を舐め取られ、痛みと痺れが走る。

「や、だ! や!! 痛い!!」
「痛くしてんだよ」
「れ、おな……!」
「……なに泣いてんだ」
「ぁ、やだ、いやです」
「泣くな」

 レオナは洪水のようにあふれるわたしの涙を咎め、私の首から口を離した。乾ききったと思っていた涙が流れてとまらない。血だらけの首裏を手で押さえながら身体を丸めこむと、全身の震えがよくわかった。わたしのしっぽが、恐怖から身を守るためにと身体にまとわりつく。レオナはそんなわたしの様子にまた舌打ちをこぼしたけれど、不満があるのはわたしのほうだ。
 自分には他に愛している人がいるくせに、わたしにこんなことをする。意味のわからない勘違いまで勝手にして、責めて、詰って、血が出るくらい噛むなんてちっともフェアじゃない。

「あなたは、好きな人がいるんでしょう。ですから結婚しません、勝手にしてください。わたしのことは気にしないでください」
「あ?」
「最初からそうだと言ってくださればわたしは潔く身を引きました。わたしには決定権なんてないんですから」
「おい待て、なに言ってやがる」
「そんなに可哀想でしたか? 富も地位も失いかけている貴族の娘が婚約まで破談にされてしまうのは可哀想だと、お思いになりましたか? そんな同情はいりません」
「おい」
「そもそもわたしはあなたが好きではありません」
「あ゙ァ゙?」

 顔を空いているほうの手で覆っていなければなにも言い返せない。レオナの顔を見たら愛しくて、かなしくて、苦しくて、きっと泣いてしまう。

「あなたにわたしのような世間知らずはお似合いではありません。もっとちゃんとしたお家柄の……ああ違います、ちゃんとお好きな方と結婚すべきです。魔法のこともあなたのことも理解してくださる女性がいいに決まっています」
「……へえ」
「あなたのことなんですよ。しっかり聞いていただかなければ困ります!! いつも人に心配ばかりさせて……いい加減にしてください。わたしはあなたと違って嫁の引き取り手も少ないんです。あなたはかっこいいからどんな女性も振り向くでしょうけど──なに笑ってるんですか」

 ふはっ、と笑いを耐えかねたような声が聞こえ、思わずレオナを睨みつけるけれどやっぱり泣いてしまっていけない。こんな形では格好がつかない。だというのに、目の前の男はニヤニヤしながらわたしを見下ろしている。

「ニヤニヤしないでください……!!」
「ああ、悪ぃな、元からこういう顔なもんで」
「あなた、私の言いたいことをわかっていますか!?」
「わかってるに決まってんだろ」
「じゃあどうして笑っていられるんですか!!」
「熱烈な告白を受けて気分がいい。それだけだ」
「誰が告白なんて、ん……っ」

 うるさい、と言いたげな翡翠が目の前できらめいた。顔を背けようとするも、手で頭を固定され逃げられない。息が苦しい。涙がけぶる視界の向こうでレオナのしっぽがふらりふらりとゆっくり揺れている。

「お前が並べた条件すべてを満たすのはお前だけだ」
「なにをおっしゃってるんですか」
「それに、なんだっけなァ……? 俺のことが好きで好きでたまらないって話だったか?」
「なっ……」
「お前がなにを勘違いしたのかはめんどくせぇから聞きたくもねぇが……」

 レオナはわたしの目じりを舐め、背中に腕を回し身体を起こした。至近距離で向かい合う形で彼の上に跨ると、首や肩、鎖骨あたりに頭を押しつけられる。ごろごろごろ、と喉が鳴っていた。あのレオナの喉が、こんなに鳴っている……?

「こんだけ恥ずかしいことをやってやってんだ、あとは察せ」
「……」
「おい、なんだその顔は」
「だ、だって、殿下は」
「この期に及んで『殿下』呼びか?」
「……レオナはあの子のことが好きなのでしょう?」
「なに言ってんだ。やっぱり変な勘繰りしてやがったのか」
「あの子の前では笑っていました。わたしには、あんな笑顔は見せてくれないじゃないですか」
「……お前、俺にどれだけ恥をかかせりゃ気が済むんだよ」

 お前が来てくれて柄にもなく嬉しくなった。
 ごろごろごろ。喉を鳴らしながら、レオナが言う。

「う、うそでしょう」
「嘘だと思うなら今すぐ身体に教えこんでやってもいいぜ」

 どうせ遅かれ早かれやることだからな、と耳に吹き込まれた声がとろとろとした甘さを含んでいた。レオナのしっぽはわたしの腹──子宮があるであろう場所の真上を撫で回し、とんとんと叩く。

「レオナ、やだ、待ってください。ごめんなさ、」
「ああ、別に謝らなくていい。詫びには他のもん貰うからな」
「レ、レオナ」
「お前も知ってるよなァ……? ライオンのセックスは長ぇって」
「こういうことは結婚してからだと母が……」
「はは、箱入りのオジョウサマには男心なんてわからねぇか」
「……い、痛くしないでください」

 レオナの肩に顔を埋めると、ごろごろ、と今度はわたしの喉から音が鳴り始めた。するとレオナからもごろごろ音が鳴る。

「お前は、っとに」

 苦しそうに眉を寄せたレオナに唇を噛まれ、二人してまたベッドに沈んだ。いいぜ、とびっきり優しくしてやるよ。囁いたその言葉通り、彼の手は泣きたくなるくらい優しかった。


<< fin.

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