キリング・セオリー 11


 ひとつひとつの思い出を大切にしようとしたら、彼らを取り巻く時間は残酷なほど早く過ぎ去るのだとようやく知った。
 一年時の教科書や参考書などの不要なものをゴミ袋に詰め込み、もう使わないであろう新品のノートやペンを友人や後輩にあげると部屋は随分と殺風景になった。殊更、冬の寒さがそうさせているのかもしれない。校舎や運動場が雪景色に包まれたナイトレイブンカレッジはウィンターホリデーを迎え、鼻先や頬を赤く染めた生徒たちは次から次に闇の鏡の向こうに消えていった。地元の友達と遊ぶ、愛猫を撫でる、母親の手料理を食べて寝る――惜しみもなくホリデーの予定を語らっていた彼らは今頃、家でゆっくり休んでいるだろう。そんな彼らとは違って、ナマエはポムフィオーレ寮の自室にいた。足音や布が擦れる音すら響く室内は生活感がなく、少し前まで人が生活していたとはとても思えない。冬が明ける前にはこの部屋に残った彼女の匂いも綺麗に消えているだろう。後輩と同室になった同級生のうちの誰かが、ここを使うかもしれない。
 年季の入ったキャリーケースひとつに詰め込めるほどの、裏を返せばそれだけしかない日用品は実践魔法で圧縮してしまえば林檎ほどの大きさにしかならなかった。クルーウェルと薔薇の王国に行く際には身軽なほうがいいので困りはしないのだが、こんなに荷物が少ないならキャリーケースもいっそのこと不要だろう。侯爵邸の埃被った物置小屋で見つけたそれは車輪ががたつき、立ち回りも悪い。デザインは昔風で古めかしく、これを持ってクルーウェルの隣に並ぶには不釣り合いすぎる。このタイミングで捨ててしまおう。そう決めたナマエはポケットからマジカルペンを出すと呪文を唱え、片手に収まる程度の大きさまで小さくした。おままごとセットの玩具のようにミニチュアサイズに変化したキャリーケースは、よほどガタが来ていたのか磨き抜かれた床の上で倒れてしまった。こうして見てみればアンティーク調の玩具に見えないこともない。小さな女の子が好きそうだな、と考えながらナマエはそれを拾い上げ、机の横に置いているダストボックスに投げ入れた。カランカランとぶつかる音を聞き流し、性別転換薬や薬草、圧縮済みの日用品を通学用鞄に入れていく。
 日用品と言っても、歯磨きセットに数枚のタオル、あとは数日分の下着と着替えだけだ。一人旅の十分な用意ができているとは言えないものの、ナイトレイブンカレッジを出れば過酷な生活が待ち受けている。侯爵家から見切りをつけられたナマエは魔法だけで食い繋いでいかなければならず、今以上の贅沢な生活はできない。そもそも根無し草になるのだから、必要最低限の品物だけで十分だろう。大学受験の資格を得て進学するか、すぐにでも研究機関に研究論文を出すか、その結論は生活を安定させてから出すつもりだ。どちらかといえば、無一文のナマエの研究を支援してくれるパトロン的存在が必要になってくるので、大学に進学してそこそこ著名な教授に気に入られるのが一番現実的な近道だろう。
 そうやって現実的に考えてみても何通りにも分かれている未来のことは誰にもわからない。彼女がわかっているのは、もうすぐ自由になるということだけだ。
 ナマエは彼女の痕跡ひとつ残っていない部屋を隅々まで見渡し、いつもより軽い鞄を肩にかけた。何もない、最初から誰もいなかったかのように綺麗に片付けられた部屋を見ていると、ナイトレイブンカレッジで重ねた思い出が頭を駆け抜ける。友人は多くなくても、それなりにできたほうだった。頭がいいナマエに試験前に泣きついてきた同級生たちと談話室で勉強会を開いたこともある。カツアゲされたりクルーウェルに恨みがある上級生たちに呼び出されたりと入学したばかりの頃は散々だったが、ウィンターホリデーが明けたあとは何事もなく平穏無事な学園生活を送ったように思う。
 鮮明に残っている思い出をひとつひとつ辿るも、彼女の記憶は彼との思い出ばかりを手繰り寄せるのだから笑えてしまう。大人に対しては慇懃無礼な態度を取りがちな例の問題児は、教師に怒られ問い詰められる度に「いいえ? 何も申しておりません」と外向けの優等生らしい笑みを貼り付けていた。彼は頭を使った喧嘩に滅法強く、一度だけその喧嘩の仕方を真似て大笑いされたことがある。あのときは「この人も笑うんだ」と驚いて、鋭い犬歯が生えていることを初めて知ったのだ、確か。
 いつの間にか緩んでいた口元に手を当てた彼女は、どうやら本当に学園生活を楽しんでいたらしい、とようやく気づいた。思い出し笑いをしたところで誰にも見られていないのに、なぜだか見えざる誰かに見られている気がしてきて居た堪れない。表現し難い気恥ずかしさを吐き捨てるように軽く咳払いをするとちょうど、扉が四回ノックされた。ほとんどの寮生が鏡の間に向かった頃合であるから、思い当たる人物は一人しかいない。特に気にすることなく彼女が返事をすればやはりクルーウェルが顔を出した。彼の手には去年のウィンターホリデー前に見た鞄が握られている。

「随分と広くなったな」

 彼はぽつりと呟いた。感慨深いとも、平坦とも言えない声色だった。

「大体のものは処分しましたからね」
「荷物はそれだけか?」
「はい。必要なのは小さくしたんですよ」
「……そうか。もう行けるか?」

 クルーウェルは扉の近くに立って壁に寄りかかっている。あまり寒さには強くないわりに、今日の彼はコートを着ていない。不思議に思いつつも、ナマエはもう一度だけ部屋を振り返ると机の上にマジカルペンと銀色のルームキーを置いて廊下へと出た。

「あっさりだな」
「ここで過ごしたのはたかだか三ヶ月だけですし」
「ああ、確かに」

 クルーウェルと過ごした部屋のほうが、ずっと思い出が詰まっている。それを口にしたらこの学園とも、そしてこの先輩とも離れ難くなるだろうと思ったナマエは前を向いて歩いた。
 けれど、前だけを見て歩くには学園の中は彼と過ごした日々の欠片が溢れすぎていて。
 勉強を教えてもらった図書室、一緒に悪巧みをした魔法薬学室、水やりという名目で駄弁った植物園、防衛魔法と実践魔法を叩き込まれた中庭。すっかり見慣れた景色の一歩先の向こう側で、クルーウェルのそばで笑っているかつての自分の姿が透けて見える気がした。
 あの日々は終わってしまう。終わってしまうのだ。朝、ベッドで目覚めたらいつも通りの毎日が繰り返されそうな気さえするのに現実はそうではない。胸の中にある感情が喪失感であるのか虚無感であるのかわからないまま、ナマエはクルーウェルについていった。寂しいという感情には本当に痛みがあるらしい。胸にぽっかりと空いた穴を通り抜けるような十二月の風は冷たく、抉られたような痛みを与える。

「寒くないんですか」
「寒くない」

 両目を眇めたくなるほど寒いのに、彼はコートを着ていない。風が掠める頬なんて霜が降って凍りつきそうだ。睫毛も、凍ってしまうのではないだろうか。

「風邪引きますよ」
「大丈夫だ。いい加減にしつこいぞ」

 薄い唇やなめらかな頬からは血の気が引き、端正な顔立ちをより無機質にしている。ナマエが知る限り、クルーウェルは寒さに慣れていない。真冬の朝、ルームメイトだった頃に暖かくて柔らかい毛布の中に潜り込んで眠っていたことを知っている。なんともなさそうに歩いている彼の、革手袋に隠された手は冷えて真っ赤になっているだろう。彼女の前を歩く痩せた背中は十代の少年特有の頼りなさがありながら、広い肩幅からすとんと細くなる腰元は青年らしい。ピアスがつけられている耳朶は赤く、唇から吐き出される吐息は煙草の煙のように白い。

「俺じゃなくて他のところを見ろよ、お前は。俺を見すぎだ」

 ナマエを振り返ったクルーウェルは困ったように笑った。身体の末端が凍りそうなほどに冷え込む中、彼がいつもより緩やかな歩調で歩くのはナイトレイブンカレッジとの別れを名残惜しく思っている後輩のためだっただろう。



 あっという間に辿り着いた鏡の間には結構な人数の生徒がまだ残っていた。ざわめきとともにいろんな匂いが混じり合った生ぬるい空気が身を包み、寒さにやられて痺れていた指先からじわりと温まっていく。そこかしこから楽しげな会話が漏れ聞こえ、長期休暇を前にして生徒たちが浮ついているのがわかる。
 生徒たちのあいだを縫って鏡の前に立つと、クルーウェルは奇妙なマスクが浮かぶ闇の鏡の表面に触れた。革手袋が触れたその場所から波紋が広がって鏡の縁へと消えていく。

「薔薇の王国はここよりは暖かい。……それより」

 ふと彼女を見下ろしたシルバーグレーの瞳はいつになく揺れ動き、そっと声量を落として彼女の耳元に唇を寄せた。

「挨拶はしなくていいのか。これが最後だろ」

 ぞわりと、背中を爪の先でなぞられているような心地がして肩が震える。目の前にあるクルーウェルの首筋が妙になまめかしく、肌の匂いまでもが漂ってきそうな気がして目をつぶりたい衝動に駆られた。彼が「友達に挨拶しなくていいのか」という意味でそんなことを言っているとわかっていても、ナマエはそれどころではない。

「……いいです」

 上擦りそうになる声を必死に押さえつけてクルーウェルから離れれば、熱くなった息をようやく吐き出せた。すでに退学処分を受けているナマエは人知れず、クルーウェル以外の生徒に見送られることもなく学園を去る。そのことは、誰にも伝えないと決めていた。

「少し寂しいですけど、これからが楽しみです」

 その言葉はちゃんと本心だった。クロウリーと立てた計画は恐ろしく上手くいき、憤慨した侯爵は予想通り「一切顔を見せるな」とナマエを切り捨てた。晴れて、闇の鏡を通り抜ければ誰にも邪魔をされない自由な子どもになる。この先は、一人で生きていく。

「迷子になられても困る。俺の腕を掴んでおけ」
「わ、わかりました。……失礼します」

 一応納得してくれたらしいが、腕を掴めと言われてもどこを掴めばいいのかわからなかったナマエは恐る恐る袖口を握った。手首につけられたシンプルな腕時計が見える。革製の黒いベルトは所々擦り切れているものの、大事に使われているようだった。

「迷子になられたら困ると言ったはずだが」

 呆れ顔で盛大に溜息をついたクルーウェルはナマエの手首を掴んで鏡へと引っ張り、離れるな、と念を押した。寮に繋がる鏡の移動とはまた違った浮遊感が彼女の身体を包み、浮いているのか沈んでいるのかわからなくなる。突如、暗闇が開けて明るくなった。睡眠中にいきなり明かりをつけられたときに感じる眩しさに似ている。ナマエは目を灼くような眩しさに思わず顔を背け、先導するクルーウェルに導かれるまま歩いた。一歩踏み出すごとに底が抜けていく感覚は徐々に薄まり、視界もこの明るさに慣れ始める。気がつけば、彼女は固い地面に立っていた。
 遅れて耳が音を拾う。マジカルホイールや自動車、二階建ての赤いバスが綺麗に整備された道路を走っている。赤い煉瓦造りの建物に石畳の道など、本でしか見たことがない景色が広がっていた。やはり、ナイトレイブンカレッジとは空気や匂いがどことなく異なり、目に映るものすべてが真新しくて興味を引かれる。

「……そろそろいいか?」

 身体を忙しなく動かしてあちこちに視線をやるナマエをしばらく静観していたクルーウェルも、さすがに五分以上は待てなかったらしい。彼にしては珍しい困ったような表情を浮かべながら腕を組んでいる。ナマエが慌てて謝ると、彼は気を悪くした様子もなく「こっちだ」とちょうど青になった横断歩道を渡った。

「そういえば、時差は何時間あるんですか?」
「こっちが八時間遅い。今は朝の九時だ」
「あ、わりとあるんですね、時差」
「時差ボケするほどでもないが学園に戻るときは身体が怠い。あそこまで戻るのに公共交通機関なんて使うもんじゃないな」

 背が高くナイトレイブンカレッジの制服を着ているクルーウェルはよく目立った。観光地が集まるこのあたりでは制服を着用している高校生は珍しいのかもしれない。



 王立博物館は地下鉄に乗って二駅過ぎたところにあった。同じ電車に乗っていた乗客のほとんどが博物館目当てだったのではないだろうか。開館したばかりであるにも関わらず館内は観光客や地元の学生で溢れかえり、特に、大きなスケッチブックを持っているボーイスカウトの子どもたちの姿が目立った。彼らはお揃いのビブスを身につけており、引率の若い指導員に「ルールは守るように」と注意されている。観光客が多いというのは本当らしい。大勢の観覧者を出迎える一階ホールには遥か昔に絶滅したとされる魔物の巨大な化石が展示され、そこをぐるりと取り囲むようにして造られた大きな螺旋状の階段を上った先にあるフロアには、古代文字が刻まれた石板や、偉大なるグレート・セブンとゆかりのある歴史的な魔道具などが展示されている。

「いろんな人がいますね」
「そうだな。展示品に愛情を持っている地元の人間も多い。ここで生半可な知識を口にすると横槍が入るぞ。『それは違う!』ってな」

 神話に登場する神々の彫刻の前で折りたたみ式の椅子に腰掛けてデッサンしている男性や、一枚の油絵の前でその絵が描かれた当時の時代背景や画家本人について討論をしているカップル、石柱に彫られた細かい文字をルーペで読み込んでいる老人など――少し見ただけでも、それぞれが好きに過ごしている。

「たまに生意気な子どもも言ってくる」
「実際にあったんですか?」
「いや? 俺はいつも指摘するほうだった」
「うわ……やだな……」
「俺もそう思う。我ながら生意気すぎる」

 子どもみたいに笑ったクルーウェルはある絵画の前で立ち止まると、口を閉ざして両目を細めた。これが見たかったんだろう、と薄い唇が動く。
『夜明け』はそこにあったのだ。その絵は予想よりも大きく、繊細な装飾が施された立派な額縁の中に飾られていた。林檎を齧る美男子の伏せられた目元には凄絶な憂いが浮かび、透明な果汁が白い腕を伝っている。乱れたシーツはベッドからはみ出し、倒れた花瓶から落ちたらしい枯れた百合が床に散っていた。

「夜明け前が一番暗いとも知らずに、私は愛する人の元を去ったのだ」

 しばらく沈黙を貫いていたクルーウェルの口から飛び出したのは、現代の文法や単語よりも古びた言葉だった。純文学の中に登場しそうな一節はどこか寂しく儚い響きと甘やかさを持ち、詩的な表現が物寂しい美しさを引き立てる。

「リウィウスの手記の一節だ。彼は田舎の娘と結婚したがかつての恋人を生涯忘れることはなかったらしい」
「へえ……」

 感心して小声を漏らしたナマエは『夜明け』を見つめた。ベッドに腰掛ける美男子は窓があるほうの壁に背を向けているのか、入り込む朝焼けが彼の背中やシーツを柔らかく照らしている。物言わぬ悲しい絵だ。リウィウスは魔法を使えなかったらしいが、喋る肖像画や木々が動く風景画とは違って、静謐であるがゆえに身を切るような哀切を訴えかけられる。
 五分近くじっくりと眺めていたナマエがようやく顔を上げると、彼女を待ってくれていたらしいクルーウェルが細い顎をしゃくった。不機嫌というわけでもなく、彼も他の展示品を眺めて暇を潰していたようだ。

「あっちにはミイラがある。行くか?」
「あ、見たいです」

 ミイラなんて滅多にお目にかかれる代物ではない。謎めいたその存在は数千年の時を経た今もなお人を惹きつけ、同時に畏怖の念をも抱かせている。考古学の代表格とも言える古代の死者たちを実際に目にすれば、やはり恐れ戦いてしまうだろうか。

「棺には古代文字が彫ってある。今よりも魔術信仰が根強い時代から、魂というものは特別な存在だった。肉体は死んでも魂は不滅であるとされ、その器であった肉体を綺麗な状態で保存するために生み出されたのがミイラだ。いつかは、肉体に魂が還って蘇ってくれると信じていた。当初は、生き返ってほしいという純粋な願いを込めていたらしい」

 迷いのない足取りで館内を歩くクルーウェルはフロアマップを確認することもなく、そこらのガイドよりも流暢な語り口でナマエを案内していく。わかりやすく簡潔な説明は歴史小説を楽しんでいるような気分にさせ、歴史や芸術には疎いナマエですら彼の説明に集中していた。頭がよくて話が上手い人間は小難しい話を面白おかしくしてしまう。先輩すごいなあ、と改めて思っていると不本意にも「ちゃんと聞いているのか」と釘を刺された。

「聞いてますよ! 配置とか本当に覚えてるんですね」
「何度も来てるからな。多分、あっちの子どもたちもとっくに飽きてるだろ」

 クルーウェルの視線を追うと、スケッチブックを広げて鉛筆を走らせている子どもたちがいた。彼らは熱砂の国で発見された魔物の標本をスケッチしているようだ。幼い子どもたちが仲睦まじく並んで絵を描いている姿はカルガモの雛たちのようで愛らしく、ナマエの近くに立っている女性館員たちも「かわいいわねえ」と笑っている。

「今日は月が近づくから早めにブラインドを下げましょう」
「あら、もうそんな時期でした?」

 彼女たちの何気ない会話がやけに耳に残った。月が近づいたら何かが起きるんだろうか。
 大きな窓から見える真冬の青い空には、真昼であるにも関わらず白くて大きな月が浮いている。ナマエは言いようのない胸騒ぎを覚えながらも、すでにミイラの展示室に向かっているクルーウェルの背中を追いかけた。



 王立博物館から出る頃には、夕日が街をオレンジ色に染めていた。ホテルまでの道中、目についたパンや果物を買っているうちにすっかり日が暮れたあたりは、冴え渡るような澄んだ夜の空気を運んでくる。日が落ちたために先ほどよりも肌寒く、吐く息もよりはっきりと白くなった。両手をポケットに差し込み、すっかり静かになった街を歩くクルーウェルは相変わらず寒そうだ。安いホテルに泊まる予定のナマエに、彼が「送る」と言ったのは一時間近く前のことだった。

「コート、着ないんですか?」
「出すのが面倒だ」
「寒がりなのに……」

 言った途端クルーウェルにきつく睨みつけられ、ナマエは思わず首を竦ませる。図星ならコート着たらいいのに、と考えてしまうほうが悪いんだろうか。それとも、彼はそんな些細なことすらも弱みになると思っているんだろうか。
 ふ、とこぼれた息が冷たい空気に消えていく。ホテルに着いたらクルーウェルともお別れだ。考えまいとしていた別れは目前に迫っているというのに、どんな風に切り出せばいいのか今さらになってわからなくなる。二人ぶんの革靴の音はすっかり暗くなった街に響き、どこかのパブから聞こえてくる笑い声は寒さを忘れそうなほどの熱気を孕んでいた。そのあたりの家々からは子どもの泣き声や、猫や犬の鳴き声も聞こえてくる。
 言うのなら今しかないのだと思う。静かすぎなくて、うるさすぎない今しか。ナマエは立ち止まり、クルーウェルの背中を見つめた。すると、いきなり立ち止まった彼女を怪訝そうに振り返ったクルーウェルも歩みを止める。細雨が降っているような沈黙は息苦しい。はっきりと見えるシルバーグレーは真夜中の猫の瞳のように爛々と輝いていた。等間隔に並ぶ街灯に照らされ、白っぽい地面に薄く伸びている影を意味もなく見下ろす。ナマエの心臓は明確な痛みを訴えながら鼓動を刻んでいる。
 何から言っても「ありがとう」のたった一言では足りないだろう。何も映さないガラスのように冷たくて鋭い双眸をなんとか見上げたナマエは冷えゆく指先に力を入れた。

「ありがとうございました、先輩」

 禍々しく輝く月の不気味な光が雲のあいだから見え隠れする。光が落ちるクルーウェルの白い頬はいっそう青白く見えた。月夜に現れる恐ろしいヴァンパイアがこんな美青年だったならば、年若い少女たちはその血を喜んで差し出しただろう。

「もう十分です。俺はあなたに何も返せなかったけど――」
「ミョウジ?」

 一瞬、ぬかるみにはまったのかと思った。けれどそうではなくて、ナマエはその場に膝をついて崩れ落ちていた。突然のことに理解が及ばない。呆然と地面を見下ろす視界の端にクルーウェルの靴が映る。立ち上がりたいのに、下半身に力が入らない。

「あっ……!?」

 心臓を押し潰され、肺を握り潰され、四肢の骨を折られていくような痛みをよくよく知っているナマエは、これから何が起ころうとしているのか瞬時に悟って絶望した。なぜ、どうして、一体何がおかしくて女の身体に戻ろうとしている? 薬ならちゃんと飲んだはずだ。いくら時差があったとしても間違えるはずがなければ、効果が切れるわけもない。

「ミョウジ!! しっかりしろ!!」

 背中にクルーウェルの手が触れる。その触れ合いが、治りきっていない火傷の傷を撫でられているようでどうしようもなく痛かった。

「だ、い、だじょ、ぶです」

 世界が涙で滲んでいく。頬を流れているのは涙か汗かもわからず、歯を食いしばったら身体のどこかからバチンと弾けて切れるような音がした。間違っても人体からしていい音ではないそれは始まりを知らせる合図でしかなかったらしい。とうとう力が入らなくなったナマエの身体はぐにゃんと揺れて倒れ込み、何度か激しく咳き込んだ。

「へ、いきです……おれ、へいきだから!」

 一人にしてほしい。変わってしまう前に、どこかに行ってほしい。あまりの痛みで周りがよく見えないナマエにはクルーウェルがどんな顔をしているのかなんてわかるはずもない。

「どっか、いって……!!」
「ミョウジ!」
「いや、だ……! どっかいけよ!!」

 満月の眩しさだけが閉ざした瞼の裏に入り込む。
 耐えなければ、立たなければ、クルーウェルに女であることがバレてしまう。それだけはいやだ。いやだ。嘘がばれたら嫌われてしまう。嫌われたくない。彼女の瞳から溢れる涙が痛みによるものか、恐怖によるものか、わからなかった。

「いやだ、はなせ……!!」

 腕を掴まれ、力の入らない身体がクルーウェルのほうへと傾く。どれだけ押しても、叩いても、痛みと苦しさのせいで弱々しい力しか出せないナマエは彼から逃れられるはずもなかった。本質的に、転換薬を飲んだとしても男と同程度の力まで得られるわけではない。男女の筋力や力には歴然とした差があることは、強引なところがある彼に躾けられたナマエも知っている。終いには強く握り締めていた手を掴まれ、彼女の指が革手袋に食い込んだ。傷つけたくないのに、クルーウェルは少しも痛くなさそうな顔で「握っていろ」と平気そうに言う。なんで、どうして、先輩はいつも立ち止まってくれるんだろう。痛みより、切なくて涙が出た。

「運ぶからな」

 クルーウェルの声は有り得ないくらいに落ち着いていた。彼の手にある紫色のマジカルペンが揺れ、淡い光が火花を散らす。半ば無理やり気絶させられたナマエは彼の腕の中で本来の姿に戻った。


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