キリング・セオリー 10


 その日は天気がよくて、木漏れ日を浴びたならすぐに眠れそうな暖かさだった。

「俺、もうすぐ学園辞めます」

 植物園の薬草に水をやりながら、ナマエは天気の話でもするかのように言った。するとクルーウェルの手から滑り落ちたジョウロの水が跳ね上がり、地面を濡らした。ステンレス製のジョウロには傷がつき、底の部分がひしゃげている。
 苦笑いを浮かべたナマエは若々しい葉が水で潤っていくのを見ながら、水をやり続けた。



 水がぽたぽたと落ちている。ナマエが傾けたグラスからこぼれた水はどんどん広がり、呆然として言葉を失っているクロウリーの靴底を濡らした。二人しかいない学園長室は水を打ったように静まり返り、窓を叩きつける雨音だけが反響している。厳かな空間によく似合うグレート・セブンの肖像画は彼らの密会に聞き耳を立てているようにも、許されざる秘密を暴露した少女(、、)を睨めつけているようにも見えた。
 露出させた肌が外気に晒され、身体の芯が冷える。ジャケットとベストを脱ぎ捨て、ネクタイを取り払ったナマエはシャツの隙間から覗く胸のふくらみをクロウリーに見せつけていた。彼の目の前で薬を服用し、身体が作り変えられる痛みに耐え抜いて本来の姿に戻ったナマエの身体はいつもより華奢で頼りない。

「君は……本当に女性だと?」
「はい」

 どうか嘘だと言ってくれと言わんばかりの言葉を否定せずに頷けばクロウリーはついに崩れ落ち、一風変わった手袋に覆われた両手を見つめながら「有り得ない……」と項垂れた。数分前までは「本当は女性? 寝言は寝て言ってください」と面倒くさそうにあしらっていた男と同一人物だとはとても思えないその姿にナマエは申し訳なさを覚えたものの、本来の目的を思い出し、彼が落ち着きを取り戻すのを待たずに口を開いた。

「俺は貴族の息子ではなく侍女の娘です。侯爵の息子の代わりにここに来ました」
「……有り得ません。戸籍は一体どうやって偽ったというんです」
「腐った貴族には戸籍を改竄することなんて金儲けよりも簡単ですよ」
「ですが、君のお父様……いえ、ミョウジ卿と話し合って双方の話に齟齬がないか確認をするまでは私も軽率には判断できません。君を疑いたくありませんが、法律遵守を美徳とする公国の貴族が公的な書類を改竄するとはとても……」

 ようやく立ち上がり、書類が積み重なった大きな机に行儀悪くも寄りかかったクロウリーは忙しなく腕を組み直して頭を悩ませている。彼の言う通り、事情を知らない第三者にはナマエの言葉が真実であるかただの狂言であるかなど判断のしようもないだろう。まして、ナイトレイブンカレッジには他人を平気で貶める生徒が少なからず在籍している。日頃からそういう生徒たちの相手をしている彼には、今のナマエは親を貶めようとしている反抗的な生徒として映っているのかもしれない。

「馬鹿馬鹿しい話なので信じられなくて当然だと思います。ですが、性別を変える薬の持続時間は約七時間です。薬を飲まなければ身体はこのまま。明日になってもこの姿だったら、明日の今頃は学園中大騒ぎだと思いませんか?」
「私を脅すおつもりで?」
「まさか。取引がしたいだけです」

 取引? とクロウリーが硬い声で繰り返した。特徴的なあのマスクの下では探るような目つきをしているだろう。胡乱げに、けれど慎重に言葉を選んでいるのがわかる。
 ナマエが一歩ずつ彼に近づく度に緊張の糸が張り詰めていく。静寂を引き裂くような革靴の音は耳の奥で鳴り響いている。胸に広がる高揚感を隠し、真顔を取り繕っているナマエはこのときをずっと待っていた。ナイトレイブンカレッジの学園長たるこの男と相対するこの瞬間を、入学したときから待ち侘びていた。

「俺は一年に渡り転換薬を服用し続けました。副作用や症状を事細かに分析し、実験し、ようやく見つけたんです」
「何をですか」
「生殖機能が破壊されない調合方法を」

 性別転換薬は得られる効果が大きいだけに、肉体にもたらされるリスクも大きい。有史以降、魔法士たちによって作られた魔法薬は星の数ほどあれど、性別転換薬ほどハイリスクハイリターンな代物も珍しい。薬物によって強制的に身体を変化させ、月経を無理やり中断させるそれは彼女の肉体を蝕み、手始めに痛覚を消し去った。消し去った、というよりも日常的に激痛を味わっている彼女が微々たる痛みに慣れてしまっただけだが、より恐ろしいとされている副作用は他にある。
 筋力増強薬や眠り薬、声変え薬とは違って文字通り身体を作り変える(、、、、、、、、)性別転換薬は男から子種を、女から子宮を奪う。苦痛を伴う変化に肉体が耐えきれず、薬の効果が切れても元の完全な形に戻らなくなってどちらとも言えない性別になってしまうことが稀にあるのだ。
 加えて、人間は思い込みだけで死ねる生き物だ。無理やり作り変えられた身体や声に慣れた脳はやがて「これが本来の身体である」と誤認し、その思い込みによって生殖機能を自ら破壊する。精神を司る脳がバグを起こせば次は肉体に異常が生じ、徐々にホルモンバランスが崩れていく。そうなればもう、子は望めない。

「太古の魔法使いは、魔術や呪術によって引き起こされる危険は神の罰だと考えていたそうです」

 古代魔術は神話とともにあった。いにしえの人々は魔術や魔法を神の力として崇め奉り、身に宿る不思議の力を神からの授かりものとして崇拝していたからだ。
 ツイステッドワンダーランドにおいて、七は神聖な数字である。人々が尊敬し憧れを抱くグレート・セブンが七人であるように、一週間が七日間と決まっているように、世界は七日七晩のうちに創られ、やがて神は人間を創り出した。
 男には労働の苦しみを、女には産みの苦しみを。
 そうして神話を信じた魔法使いたちはこう考えるようになる。この世に生まれ落ちたときの姿形を変えることはそれすなわち、我々人間を創り、男と女を分けた神への冒涜であると。転換薬(魔術や魔法)によって男でも女でもない曖昧な存在になる者は、いずれ神の御業により裁かれ子を望むことはできなくなると。魔術と神話が交錯したとき、当時の人々は見えざる神の力に怯えたそうだ。実際は、単なる副作用に過ぎないというのに。

「性別転換薬は需要が低いですが、それとは切り離して生殖機能を保護する薬ができれば世の中の役に立つと思いませんか? まだまだ実験や臨床試験が必要だとしても、この調合方法が確立されれば不妊治療や生殖器の病を治療できる。或いは、性転換手術にも使えるかもしれません」

 今、ツイステッドワンダーランドでは性別の自由≠ェ叫ばれている。生まれ持った身体的な性別だけではなく、多様な性自認の受容を求める運動が世界中で広まりを見せているのだ。紀元前に神話が生まれてから幾星霜、働く女性たちは男性ブランドの服を気兼ねなく身につけるようになり、男性たちはそれまで女性だけのものとされてきた化粧をするようになった。十年後、二十年後には今とはまったく違う世界が両手を広げて待っているはずだ。目まぐるしく移り変わり、激動のさなかにある今の若者たちが大人になったとき、今の常識はおそらく通じない。サイエンス・フィクションの中でのみ語られていた未来が現実になり、考えもしなかった発明品が生活を豊かにし、化石のように古びた価値観に変わる新しい価値観が生まれては研ぎ澄まされていくだろう。もしかしたら、そのときにはナイトレイブンカレッジの生徒たちも化粧をするようになっているかもしれない。常に、時代というものは移り変わっていく。その変化に適応した者こそが、生き残れる。

「俺の論文は間違いなく注目されます。そのときには研究に協力してくださった機関としてナイトレイブンカレッジの名を上げます。……平気で罪を犯す侯爵ではなく、俺に賭けてみませんか。俺に手を貸していただければそれなりに名声を得られるかと」
「……実に面白い。君は、私に味方になれと言うんですね」
「有り体に言えばそうです。そもそも、俺を退学にしたところで学園長は痛くも痒くもないでしょう。俺の不正入学が世間にバレたら痛い目を見るのは侯爵だけですし」
「ミョウジ君は大人しい子かと思っていましたが……違ったようですねえ」

 それで、君は私に何を求めますか?
 本腰を入れて話を聞く気になったらしいクロウリーは指先を鳴らしてティーポットとカップを出すと、それらを空中で浮遊させたまま温かい紅茶を注いだ。茶葉の香りが広い学園長室に充満し、鮮やかな真紅色が白いカップの中で揺れる。

「学園内で『ナマエ・ミョウジは女だ』という噂が流れ、学園長である私が事実確認をしたところ噂は事実であることが判明し、理事会で退学処分が決定した――こんなシナリオはいかがですか? 我ながらいい案だと思いますが」

 ナマエはクロウリーからティーカップを受け取り、冷えた指を温めた。すべらかな陶器は品がよく、落ち着いたデザインが目を引く。

「それでお願いします。学園長だけが俺の性別を知っているとなれば、俺を退学させないために賄賂を渡して圧力をかけてくるかと。学園のほとんどの生徒に怪しまれている≠ニいう設定なら、あの人も早々に諦めると思います」

 ミョウジ家侯爵は、ナマエに退学処分が下されたと知れば「一生顔を見せるな」と憤慨するだろう。もしくは、犯罪と不正入学の事実を抹消するために彼女を始末しようとするかもしれない。すべては、事が終わってみないとわからないが。

「ですが、君に行く宛てはあるんですか?」
「論文を出して、あとは……なんとかやりますよ。いざというときは父を尋ねてみます」

 紅茶を一口飲んだナマエは何を考えているかいまいちわからないクロウリーの顔を一瞥し、すぐに紅茶へと視線を戻した。「ついに終わるのだ」という安堵と「もう終わってしまうのか」という寂しさを喉の奥で押し潰して細い息を吐き出すと、先に紅茶を飲み終わったらしいクロウリーが「なぜここまでするのかをお聞きしても?」と口にした。道化師のような彼の思考は相変わらず読めず、化かされているような気分になる。

「ここを卒業したらあのクソバカに学歴を奪われて、ただのナマエに戻るなんて……そんな人生はいやだったんで」

 侯爵家の人間への恨みと憎しみを忘れた日はない。ナマエのことを、何があっても言うことを聞くお人形だと思っている彼らに一矢報いるために生きてきた。本懐を遂げたそのときには思いきりほくそ笑んでやろうと思っていた。それが今、現実になろうとしている。

「くだらない復讐をするために俺はここに来ました」

 クロウリーは変わらずナマエを見つめている。面白いと思っているのか、取るに足らないと思っているのか、上品な口元は楽しげに弧を描いていた。その深い笑みは、道化のようにもペテンのようにも思える彼の深淵を覗き込んでいるような心地にさせる。



 ぽたぽたと、水が落ちている。
 掴まれた腕の骨が軋み、痛くて思わず顔をしかめればクルーウェルのほうが苦々しい表情を浮かべていた。いつの間にか、ナマエが持っていたジョウロも地面に落ちている。煉瓦造りの地面には透明な水がどんどん広まり、雨上がりのような水溜まりができた。靴底を少し動かすだけで波紋が広がり、外側に伝播して波を打つ。二人の影を覆い隠すようにして様々な植物が生い茂る植物園は静かで、温室特有の生暖かい空気が彼らを包んでいる。

「理由は」
「貴族にも色々事情があるんです。ウィンターホリデーが明ける頃にはいないと思うんで」
「俺の目を見て言え」
「いやです」

 大きな舌打ちをしたクルーウェルの手がナマエの頬を掴み、互いの視線が激しくぶつかり合う。革手袋に包まれた指が頬に食い込み、口を開けるのも難しい。

「どういうことだ」

 苛立たしそうに睨みつけるクルーウェルに心底安心した。人知れず、誰にも言わずにひっそりと学園を去ることはできた。すべてをここに置いていなくなることは簡単にできた。しかしそうしなかったのは、他でもないクルーウェルに惜しんでほしかったからだろう。こんな、些細なことを欲しがるなんて。鋭いナイフのような鈍い光を放つシルバーグレーを見つめるナマエが力なく笑うと、腕の拘束は一瞬だけ緩み、またすぐに力が入った。見上げた先の、クルーウェルのその表情が何を意味しているのかは彼女にはわからなかったものの、ほんの僅かに戸惑っているように見えて胸が疼いた気がした。
 ナマエに残された時間は少なく、あとひと月も経たずにナイトレイブンカレッジを去る。そう思えばこそ、想いは伝えられなくても少しでも思い出を作りたかった。彼に恋した少女ではなく、ただの後輩としてそばにいたかった。たったひとひらの、薬匙一杯分にも満たない信頼しか得られていなかったとしても、クルーウェルにつき続けた嘘だけは知られたくない。抱え込んだ想いは抱えたままこの学園を出ていくと決めている。

「……何か企んでいるとは思ったが……」
「やだな。俺だって色々あるんですよ」

 ガラス張りの植物園の真上を大きな烏が横切った。太陽を遮るように漆黒の翼を翻し、あの烏はナマエとクルーウェルの足元に影を落として飛び去っていく。羽音を立てながら飛んでいく姿を何気なく見上げていた彼女はクルーウェルに視線を移し、一向に離れようとしない手に触れた。何度も頭を撫でてくれた手はやはり大きく、一本一本の指は細長い。

「先輩のおかげで楽しかったです。ありがとうございました」

 今日は天気がいいですね、と笑うような穏やかな声だったと、自分が言った言葉ながらナマエは思う。両目を見張ったクルーウェルはようやく彼女を解放し、かたわらに落ちているジョウロを拾った。黒の革手袋は濡れ、細かい砂の粒がくっついている。

「楽しいついでに思い出を作ってやる」
「はい?」
「王立博物館、行くだろ」

 クルーウェルの言葉はまったくの予想外だった。微塵も考えていなかった方向から横っ面を殴られたような衝撃にナマエは言葉を失い、ただただ目の前のシルバーグレーを見つめた。どれだけ待っても、手袋の砂を払い落としている彼は「冗談だ」とも「嘘に決まってるだろ」とも言わない。

「ホリデー初日にでも行けばいい」
「……本気ですか?」
「俺はいつだって本気だ。お前の都合が悪いなら諦める」

 なんともなさそうに言うものだから、ナマエも返事に窮した。行くのか行かないのかと目線だけで訴えられてしまえば押さえきれない欲が顔を出し、思い出を作ってくれようとしているクルーウェルのやさしさに胸の奥から何かが込み上げてくる。誰かに容赦なく心臓を掴まれている気分だ。破裂しそうなくらいに痛くて、身体全部が赤くなりそうだった。

「……行きたいです」

 頬にじわじわと広がる熱を隠すようにナマエは頷いたが、クルーウェルには彼女が喜んでいることはお見通しだったのかもしれない。喉の奥でくすくすと笑うような悪戯っぽい低い声が彼女の鼓膜を震わせる。耳朶を指先で擽るような声には、いつまで経っても慣れそうにない。笑い声ひとつでこんなに心臓が痛くなるなら、いつかこの恋に殺されてしまいそうな気さえしてくる。

「案内してくださいね」
「俺にガイドをさせるつもりか? いい度胸だ」

 夜も眠れなくなるくらい面白い話をしてやろう、と得意げに笑ったクルーウェルはナマエの頭を雑に撫でた。


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