天槍アネクドート
待春の夜(3)
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 世継ぎらしく取り繕っていない王太子ディルクは、年相応の、若者らしい無邪気な笑みを浮かべて腰を折った。
「ご足労いただきありがとうございます、陛下。いつもお招きいただくばかりでしたので、今日は私がと思ったのですが……雪が降ってきてしまいましたね」
「大した降り方ではない」
 短く答えると、ユグフェルトは促されるまま暖炉に近い方の椅子に座った。
 椅子は真っ暗な窓に向けて二つ並べてあって、夜の闇が磨き抜かれた硝子を鏡に変えている。杯の置かれた小さなテーブルを挟んで隣の椅子にディルクが座ると、二人は鏡越しに互いの表情を見ることになった。
「これはマトストルの鏡のまじないのつもりか?」
「うまく出て@てくだされば私もお会いしてみたい方々がいるな、と思ったので……というのは冗談で、先ほどまで月が見えていたものですから。どちらになさいますか? 公国の葡萄酒と、タールベルク領邦の葡萄酒とをご用意しました」
「では、公国のものを」
 月が見えなくなっても席を向かい合わせるつもりはないようだ。王太子が手ずから杯を満たしてくれるのを横目に、ユグフェルトは黒い鏡に映る自分達の姿も盗み見た。
 夜、灯りを小さくして鏡の前で死者の話をすると、その者達が鏡の中で談話の席に加わっているという。不吉な怪談というよりは、故人を懐かしむ思いが強いまじないだ。
 まじないのつもりだったとしたら、ディルクは誰の話をするだろう――ユグフェルトはぼんやりと考える。
 己の杯は王国産の葡萄酒で満たし、ディルクが乾杯を誘ってきた。無言でそれに応じて隣国の酒を口に含む。シヴィロ王国より乾燥した気候の地域が多いウゼロ公国の葡萄酒は、甘みも酸味も濃厚だった。
「これでは、シヴィロの酒が水のように思えるのではないか」
「そのようなことはありません、おしとやか≠ナ大変結構。私は好きですよ」
「そうか」
 二人の会食がいつもそうであるように、しばし言葉を交わさず葡萄酒の味を楽しむ。ところが今日はテーブルに向かっているのとは違う。そのせいか、闇の鏡越しに見えるディルクの様子がいやに気になった。
 ユグフェルトにとって彼は妹の息子。近しい身内を後継者として指名できたことをユグフェルトは心から歓迎していたが、甥にあたるこの若者とはまだ打ち解けきれていないと思う。

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