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ある少女の懺悔−魔風−(5)
クレスツェンツになら――もう一度心の中で呟き、アヒムは無言で目を閉じた。
いや、彼女は娘を預かってくれなどと個人的な頼みごとをしてよい相手ではない。
自分で思っている以上に不安にも弱気にもなっているらしい。アヒムはそれに気づいた自嘲を隠すためにユニカの頭を撫でた。
「百二十一篇からだったね。それじゃあ、百二十三篇までが一節になっているから、まずはそこまでにしようか」
課題を与えるとユニカは急に神妙な顔つきになって、細かな文字で綴られた神々の物語を目で追い、ゆっくりと自分の帳面に書き写し始める。
たどたどしかった彼女の筆跡は、今や見違えるほどにしっかりしていた。「アヒムの字とおんなじだ」とクレスツェンツに言われたことが妙に嬉しい。
この子はこの先、もっとたくさんのことを出来るようになる。そのための平穏が続いて欲しい。
ユニカが古語で書かれた文章を丁寧に書き写す音が静かに響く。しばらくの間それを心地よく聞いていたアヒムの耳に、玄関の扉を叩く音が入り込んできた。
手を止めたユニカにそのまま書き取りを続けるよう言って、彼は席を立つ。
客人を迎えに出れば、そこにいたのはいつものようにアヒムの家を訪ねてきたロヴェリー婦人だ。
「いらっしゃい、ロヴェリーさん。今日は時間があったのであらかたのことはユニカと二人で――」
家事を手伝いに来てくれたのだと思ったが、どうやら違うようだった。ロヴェリーは黙ってアヒムの腕を引き彼の言葉を遮った。
「このあとも時間はあるのかい?」
「ええ……急な患者さんでもいない限りは」
「だったらちょいと一緒に来て。ユニカは村長の家に預けていこう」
「誰か、具合の悪い方でも?」
ロヴェリーは頷きかけたように見えた。しかし何故かそれを思い留まり、首を横に振った。
「まだ、分からない。だからいつもの鞄は持ってこなくていいよ」
鞄――アヒムが往診の際に持って行く薬や治療の道具が入った鞄のことだ。
持って行かなくてよいとは……恐らく、それを抱えてロヴェリーが連れて行こうとする場所を訪問してはいけないということだ。
まだ、分からない――疫病かどうか、分からない。
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