天槍のユニカ



かえれないひと(16)

 空にした杯を置くと、パウルはひげの奥でにっこりと笑った。好好爺然とした笑みだが、それは相手との間に一線を引く時の笑みでもあった。
 貴族の掟に揉まれて生きてきたナタリエには、その笑顔に秘められたものを読み取ることが出来たらしい。一度は嬉しげに輝いた彼女の瞳に疑念の霜が降りる。
「そら、そのようなお顔をなさるということは、女子爵には姫君のお気持ちが分からぬということです。しかし大丈夫、私が上手くやりましょう。女子爵はあちら≠ナお待ちいただきたい」
 しかし、結局パウルはナタリエの申し出を断りはしなかった。上手くやるということは、どうにかしてユニカとナタリエ達の対面を助けるつもりなのだ。
「パウル様、ユニカはまだ……」
「では、猊下に万事お任せいたします。院長とともに支度をしてお待ちしておりますゆえ」
 エリーアスの声を遮り、ナタリエは声高にそう言った。エリーアスがあからさまに睨みつけたところで効果はない。彼女は知らん顔をして部屋を出て行ってしまう。
 そのあとを追おうとしたエリーアスだったが、師が無言で手を振り制止するのに気がついて動きに詰まった。
 扉が閉まるのを虚しく見届け、師の手招きに応じて彼の傍に跪く。
 すると、しわだらけになり、昔よりいくらもしぼんだ掌が、まるで幼子を宥めるようにエリーアスの髪を撫でてきた。師の掌が小さくなっても、こうして宥められると同時に湧き上がる気まずさと安心感は、ペシラの修道院で過ごした幼い頃からなんら変わりない。
「私はまだ、姫君が今日に至るまでどのように暮らしていたかを詳しくは存じ上げないが、彼女を城の中に閉じ込めておくのがよくないことだけは分かるよ、エリーアス」
「それは俺にも分かっています」
 外へ出て、復讐など忘れて、静かに暮らせる方がよいと思う。だから自分はいつでも迎えに行くつもりだし、必要があればユニカの手を引くことだってする。
 だけどそれはユニカが望めば、の話。
 望まぬ世界へ引き込まれたらあの子は傷つくだろう。そこがクレスツェンツやアヒムが遺したあたたかい世界でも。
 エリーアスはそれが嫌だった。ユニカが何かを憎まずに生きられるようにしたかった。
 でも、ユニカに手を解かれたら、エリーアスには何も出来なかった。

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