天槍のユニカ



不協和音(5)

 二階には会場を見下ろせるバルコニーがあり、小さく区切られた休憩室にもなっていた。歌劇場の桟敷席のようなものだ。そこから会場を見渡しながら噂話に花を咲かせるのも貴族達の楽しみであり、重要な情報交換の場でもあった。
 一階の会場の端々にも休憩室がいくつか用意されていた。二階の桟敷とは違って人目に触れることのないこの場所には様々な用途がある。酒に酔いすぎて正体をなくした貴婦人の一時避難場所、あるいは新たに出逢った男女が早速睦言を囁き合う場所となる場合も。
 分厚い天鵞絨のカーテンで仕切られたその中は薄暗い。会場の音楽もくぐもって聞こえるほどだった。カウチが一脚と、その両側には花が活けられた小さな丸テーブル。灯りは柱に備え付けられた燭台だけで、宴もたけなわなこの時間、三本の蝋燭はすっかり短くなっていた。
 頼りない灯りのもとに連れ込まれたユニカは、己の手をぎゅっと握りしめて不穏な気配をやり過ごそうとする。しかし背後に立ったディルクが後ろ手に入り口のカーテンを閉める音が響くと、肩を震わせずにはいられなかった。
 恐る恐る振り返ると、そこにいたのはディルクだけだった。赤毛の近衛騎士ルウェルも彼らのあとをついてきたはずだが、外での番に当たっているらしい。ディルクに忠実というよりは個人的に親しいあの騎士のことだから、暗黙の内にここへは誰も通さないつもりだろう。
「誘われたというのは、踊りに?」
 ユニカが萎縮しているにも関わらず、ディルクの態度はなおのこと威圧的になった。彼に一歩歩み寄られると、ユニカは半歩後退る。けれど狭い部屋であったし、彼女の後ろには闇に浮かぶようにして活けられた花とテーブルがあったので、すぐに退路を断たれてしまう。
「断り方が分からなくて……トルイユの使節の方でしたし、」
「そうだな。彼はトルイユ国王の摂政の息子で、今回は全権大使だ」
 だったらユニカが断れる立場にないことくらい、ディルクは分かっていてくれそうなものだが。いやしかし、彼はサロンで知り合った女性達には挨拶くらいして欲しいが、積極的に社交や外交に努める必要はないと言っていた。むしろそれは表へ立つなという意味だったのだろうか。ユニカの謂われを目当てに近寄ってくる連中は大勢いたので、そんな者たちと下手に関わらせないためにも。
 ディルクは逃げ場をなくしたユニカにゆっくりと迫り、ユニカの身体を閉じ込めるようにテーブルに両手をついた。
 ユニカはますます身体を縮めてうつむくしかない。少し視線を上げればディルクの口許が見える。顔を隠したい、と思って初めて、トルイユの使節――アレシュに扇子を預けたまま別れてしまったことを思い出した。
 しかし今更取り戻しに行くことは出来ない。そもそも逃げ場がない。
 小部屋の涼しい空気の中に、ディルクの香水の匂いがゆるやかに漂う。さっきのダンスの相手の香水とは違う、鼻からすっと抜けるようなハーブと甘いアンバーが混じっている香り。宴のときには彼が決まってまとっている香りだった。
 会話が途切れ、かといって解放されることもなくユニカがうつむいていると、テーブルの縁にかけられていたディルクの手がおもむろに持ち上がった。

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