天槍のユニカ



家族の事情U(6)

「ええ。座っているだけでいいことなんて、ほとんどないし。目の前で陛下と公女さまが喧嘩を始めたりするし……聞いていたのとぜんぜん違うわ。でも、エリュゼもひどい顔をしているわよ」
「……わたくしも、思っていたことと現実があまりに違うので、少し……」
 ふう、と息をついて、エリュゼはやつれたように見える頬をさすった。以前は簡単にまとめて後ろに垂らしていただけの髪も、今やきっちりと編んで結い上げている。彼女がうつむくのと同時にシニョンに挿してある大きな蝶の簪がちらりと光を弾いた。
「それはそうと、公爵がすっかりお話しするのを忘れて行ってしまわれたのですが、今月の末頃にユニカ様をエルツェ公爵邸へお招きする手はずになっているのです」
「今月の末……」
 胸の内で噛み締め、繰り返した言葉が自然と口をついて出ていた。
 新年の忙しさが一段落ついた頃だ。ユニカが王族という身分を放棄するための儀式はまだ先の予定だが、その前にエルツェ家の屋敷を訪問することになっていた。
 そのときにはグレディ大教会堂にいるパウル導主――養父とエリーアスの恩師を訪ねる約束も、エリーアスに勝手に取りつけられてしまった。
 エルツェ公爵の屋敷へ行くこと自体は、もう怖くもなんともない。新年の行事で貴族達の晒し者にされてきたことを思えば容易い用事だ。
 しかしパウル導主と会うことは……。ユニカのことも養父のことも、そして八年前の疫病騒ぎとその顛末を近くで見ていたあの老僧に会うためには、少し覚悟がいる。記憶の隅にいる好々爺の優しい笑みを相手に、今のユニカから語れることなどあるだろうか。
 ユニカには、レオノーレのように己を呪う秘密をさらけ出すことなんて出来ない。ユニカを『天槍の娘』と呼ぶ者達が口に上す噂に真実が含まれていても、この口からそれを語ることはないだろう。
 廊下に点々と灯された火が、風もないのにふわふわと揺れた。以前は灯されていなかった火。ユニカの存在が王女としてあらわになると同時に、西の宮に夜通し灯されるようになった火。
 その火がまるで心の底に凝らせたものを炙り出そうとしているように感じて、ユニカはエリュゼから――彼女の背後の壁に並ぶ灯火から顔を背けた。
「分かったわ」
 そうして部屋の中へ引き返そうとしたユニカの手を、エリュゼがさっと掴んだ。
「ユニカ様、その折に、ちらりとで構いません、施療院へ足を運んでいただけないでしょうか」
 ディルクと違って、エリュゼはユニカの手を引っ張り上げたりはしなかった。絹の手套に覆われた指が力なく、遠慮がちにユニカの手首に引っかかっている。それも尻すぼみになるエリュゼの声と一緒に離れていってしまった。
「院長のオーラフ様にもお知らせいたしません。少し、様子を見て下さるだけでよいのです。そういう見学者は時々あるものですから不思議に思われることもないでしょう。ですから、」
「様子を見て、どうするっていうの。私の気が変わるとでも?」
 すがりつくようなエリュゼの言葉を遮り、ユニカは振り返る。

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