天槍のユニカ



蝶の羽ばたき(1)

第一話 蝶の羽ばたき


 ナイフが抜け落ちる音。ぼたぼたと血が滴る重い音。
 振り上げられる鋤。何かがつぶれる音。
 膝をついて、倒れる養父の姿。
 足下に血溜まりが広がっている気がして、ユニカは悲鳴をあげた。必死で黒い法衣の腕に縋りつく。
 いやだ。導師さまが死んでしまう。
 いやだ。わたしのせいで。わたしを庇って。導師さまが。

 助けて、誰か助けて。
 お願い、助けて!

「しっかりしろ、ユニカ!!」
 目眩がするほど強く肩を揺すられて、ユニカは叫ぶのをやめた。両手はがっちりと法衣の袖を掴んでいる。いつもと少し違う、綺麗な金の刺繍が施された黒い法衣だ。
 目の前には養父の顔があったのでほっとした。良かった、導師さまは無事だ。けれど彼の表情は険しくて、どこか切羽詰まっている。わたしは何か、大好きな養父を困らせることをしただろうか……?
「大丈夫か」
 もう一度肩を揺すられて、ユニカは大きく瞬きをした。その途端、両方の目尻からどっと涙が溢れて落ちる。熱い感触が、彼女を現実に引き戻した。
 彼は養父ではない。エリーアスだ。ああ、そうだ。養父はもう、ずっと前に死んでしまっているのだ。ユニカの目の前で、死んでしまった。今更どんなに叫んでも、あの現実は過去に埋もれたまま、修正されることはない。
「え、り……」
 やるせなくて堪らず、ユニカは養父と瓜二つの青年の肩に額を押しつけて嗚咽を漏らした。エリーアスは、黙って震えの止まらない肩や背中をさすってくれる。
「フォルカ、水をくれ」
 少しすると、彼は低い声で誰かに命じた。人の動く気配に顔を上げてみると、十五、六の少年僧が、テーブルの傍でグラスに水を注いでいる。エリーアスはそれを受け取り、ユニカの手を取って持たせてくれた。
「ちゃんと持ったか。落とすなよ、ゆっくり飲め」
「うん」
 水を口に含んでも、喉が震えてなかなか飲み下せない。しかし口の奥がひりひりしていたので、生温い水は少しずつ口内に浸みていく。
「ここは……?」
 審問会の議場ではなかった。低いテーブルとソファだけがある。どこかの応接間かと思ったら、エリーアスに宛がわれた控え室らしい。
 移動した記憶が無い。王太子が、彼の血がついた矢を掲げてチーゼル卿らを捕らえるよう命令した瞬間までしか、思い出せなかった。

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