夜より黒く、恋のように甘い


 昼間はあれほど混雑していた空港内も、月が昇る深夜になると途端に人影がまばらになる。
 ナポリ行きの最終便が到着してから数分後、足早に観光客が去ったロビーにカツンと鋭い靴音が響く。闇色のスーツに身を包んだDIOは優雅に、それでいて少し急いたような足取りでエントランスホールをくぐり抜けた。
「二ヶ月ぶりか」
 再びこの地を踏みしめるまでそれほど時間が掛かってしまった。部下や親友、息子たち、それから新しいビジネス客と新たなスタンド使いの発掘。広いアメリカを夜の間だけ移動し、牽制を図るSPW財団の目を眩ませるのは一苦労だ。それだけに、己の組織が地下へ根深く広がる感触を得られたのは喜ばしいと言えるだろう。
「お帰りなさいませ、DIO様」
 横付けされた黒い車の前で、執事のテレンスが腰を折って出迎えた。
「ああ」
 DIOは返事もそこそこに開かれた後部座席へ体を滑り込ませる。すぐに扉は閉められて、運転席にテレンスが乗り込んだ。
 走り出した車の窓に映るのは賑わいを残した夜の街並みだ。DIOは長い足を何度か組み替えて、ぽつりと呟いた。
「……あいつはどうしている?」
 素っ気ない声の中からテレンスは様々な感情を読み取る。
「DIO様の帰国を聞いて、とてもお喜びでしたよ。私が落ち着かせようと紅茶を用意しても、到着時刻に気を取られ、冷めてしまっても気付かないご様子でした」
 それはまるで主人の帰りを玄関先で待つ子犬のようだった。その姿を思い出すだけでテレンスの口元は自然とほころんでしまう。
「フン……」
 DIOは気のない返事をしつつ、バックミラー越しの視線から逃れるように窓の外を眺めた。
 二ヶ月前に見せた別れ際の寂しそうな顔が忘れられず、電話口でのもどかしいやりとりに思いは募るばかりだった。そして次第に増していく血の渇き……お互いにとって辛い一時だったのは間違いないだろう。
「一週間は泊まっていただくようお願いしておきました。日中に何やら用事があるそうですが……」
「構わん、好きにさせておけ」
 テレンスの言葉を切ってDIOはガラスに映った自身の顔を見る。隠しきれない喜びの感情をそこに見つけると、我ながら何という表情をしているのだと苦く笑うしかなかった。


 執事が空港へ向かってから一時間が過ぎた。誰も居ない広い屋敷の中を夢主はうろうろと歩きながら彼らの帰りを待っていた。
 もう何度目になるだろう。夕食が用意されたダイニングを横切り、庭の空気と月明かりを取り込むリビングをぐるりと回った。廊下とその先の玄関ホールには小さな明かりが付いている。もうすぐそこにDIOが姿を見せると思うと胸は高鳴るばかりだ。
「着いてもいい頃だけど……」
 ホールに置かれた大時計から視線を戻した時、車のヘッドライトが窓の向こうで光った。続いてタイヤとエンジン音、それらが切れた後に鉄の門が自動で閉じる鈍い響きが聞こえてくる。
 帰宅を知った瞬間、夢主の心の中に緊張が押し寄せてきた。久々に見るDIOに平常心が保てるだろうか。飛びついたりしたら迷惑かもしれない。かといって、大げさに騒がず落ち着いて出迎えられるだろうか。
(う……、どうしよう……!)
 考えれば考えるほど不安で分からなくなる。玄関扉の内側で夢主があたふたしていると、二人分の足音が近づいてきた。身を縮める彼女の前でテレンスがゆっくりと扉を開いていく。
「夢主様、DIO様がお着きになられましたよ」
 にこりと笑って告げる彼の背後に、毎夜恋い慕った姿が見えた。
 立派な体格を内に納めたスーツからは、蛇に絡め取られるような妖しい色香が漂ってくる。首を彩るネクタイは錆びた血の色をして、まるで食後に口元を拭ったかのようだ。月明かりを受けて輝くブロンドの髪、心を溶かす琥珀色の目、不敵な笑みを浮かべた唇、見るもの全てを魅了するそれらは悪魔からの寵愛を受けているに違いない。
「……? テレンス、どう言うことだ?」
 声もなく彫像のように固まった夢主を前に、DIOは執事を睨みつけた。
「おや、嬉しすぎて気絶でもされましたか?」
 後ろ手に扉を閉めて笑いをかみ殺す。あながちあり得ないことではないと思ったからだ。
「おい、どうした。具合でも悪いのか?」
 形のいい唇が何度か動いているのを見ても、陶酔する夢主の耳には何も聞こえてこない。ただ、自分でも気付かぬ内にほろりと涙がこぼれた。
 それを見たDIOはクッと笑って一歩踏み出した。
「迎えの言葉すら忘れたようだな」
 太い腕を夢主の腰に回して力強く抱き上げる。つま先が床から離れるほどに持ち上げられると、ようやく夢主の思考も戻ってきたようだ。
「DIO……」
 名を呼ぶだけで鼻の奥がツンとする。深い喜びが夢主の体の奥からゆっくりとこみ上げてきた。
「おかえりなさい」
 震えるような涙声を聞いてDIOは笑顔を浮かべる。お互いに忘れかけていた相手の温もりを抱きしめて、二人はそうして久々の再会を果たした。


 傍目の執事が呆れるほど長い抱擁の後、DIOの腕の力が弱まって夢主の足が再び床に着く。スーツの端を握りしめる彼女を見下ろして、DIOは大きな手のひらで涙を拭ってやった。
「泣くほど嬉しいか」
 相手の気持ちを煽るようにニヤニヤといやらしく笑いかける。その言葉に夢主は無言で赤くなるばかりだ。
「フフ……しばらくはお前の側に居る。安心しろ」
 スーツを握っていた手を取って、指先に軽く口付けを落とした。羞恥と喜びを潤んだ目の向こうに見つけてDIOは満足そうに微笑む。
「夕食が用意されていると聞いた。まずはそれから味わうとしよう」
 夢主の白い首筋に視線を落としつつ、香ばしい匂いがあふれ出てくるダイニングへ足を向ける。
「本当? 良かった、テレンスさんと朝から準備したの。いらないって言われたらどうしようかと……」
 どこかホッとしつつ、素直に付いてくる夢主を従えてDIOは用意された椅子に腰掛けた。白いテーブルの上を飾る生花と料理が乗った白い食器、銀色に光るナイフとフォーク、それから執事が手際よく赤ワインをデキャンタに移している。晩餐の準備が整ったそこは、来賓こそ居ないが華やかで落ち着いた空間だ。
「それで……この二ヶ月、どうしていた?」
 DIOの言葉に斜め向かいの椅子に腰を下ろした夢主は嬉しそうに口を開いた。料理教室の先生に恋人が出来たこと。ジョルノに誘われて映画を見に行ったこと。ギアッチョと買い物に行った先でトラブルに巻き込まれたこと……それらの話をDIOは料理とワインを口に運びながら聞き流していく。会話の内容よりも相手の楽しそうな表情に意識が奪われて、味覚すら曖昧だ。
 早くあの健康的な肌に牙を立てて、流れる血を心行くまで堪能したい。痛みと快楽に身悶える姿を上から眺め下ろす至福の時を迎えたい。
 そんな気持ちを宿したDIOの目に見つめられると、夢主は隅に追い詰められたウサギのような心地になる。
「……DIO、ちゃんと聞いてる?」
「ああ。そのまま続けろ」
 DIOが嘘を付いて話の先を求めると、彼女はそれまでの勢いを落としながら喋り始めた。熱い視線から逃れるように目を泳がせ、体の角度を変え、頬を染めながら次第に俯いていく。乱れゆく心の変化が手に取るように分かった。
「DIO様、夢主様がお困りですよ」
 空の食器を下げ、ワインを注ぎ直す執事から苦笑混じりの進言を聞く。
「デザートをお持ちいたします」
「それは向こうで食す。しばらく後で持ってこい」
 テーブルナプキンで口元を拭い、短い食事を終えて席を立った。つられて立ち上がった夢主の手を引いて、柔らかな夜風が吹き通るリビングに足を踏み入れる。
 背後でカーテンが揺れ動くソファへ導き、そこに夢主を座らせるとDIOは自身の上着に手を掛けた。不思議そうに見上げてくる彼女の前でするりと脱いで床に落とし、赤いネクタイで締められた首元を軽く緩める。
「……DIO?」
 察しの悪い相手を背もたれに押しつけ、逃げられないよう体の両側に腕を伸ばす。DIOとソファの間に閉じこめてからゆっくりと顔を近づけていく。
 久しぶりのキスは溶けそうなほど柔らかかった。変わらない感触に心良くし、さらに腰を屈めながら深く口付けていった。
「……っ」
 目を堅く閉じ、緊張で体を震わせる夢主の肌を撫でてDIOは相手の襟元を引き下げる。高い鼻を寄せて香りを深く吸うと、ソファの上に置いた彼女の手がぎゅっと握りしめられた。
「夢主」
 静かに名を呼んで冷たい牙を首筋にあてがうと、今度は体が小さく跳ね上がった。
「ま、待って……デザートは?」
「これからたっぷりと頂くつもりだ」
 自分の血が食後の口直しだと知った夢主は慌てて首を押さえる。ムッとするDIOの赤い目に見下ろされてしまうが、これも自分のためだ。
「見えるところは嫌。せめて違う場所にして」
「ほう? 言うようになったな」
 ではその言葉に甘えさせてもらおうと、女の体をソファの座面に引き倒す。小さな悲鳴を無視して乱れたスカートへするりと手を忍ばせる。柔らかな太股を月の下に晒すと、どこを噛まれるか気付いたようだ。
「えっ……!」
 愉快なほどに慌てふためく夢主を下に置いて、DIOは片足を持ち上げた。柔らかい内股を舌で舐め上げながら、血の流れを探り当てる。
 次の行動を予想して青ざめる相手にDIOは優しく微笑みかけた。
「夢主……お前に会いたかった」
 焦がれ狂う想いも、噛みつきたくなる衝動も、これまでどうにか我慢した。今からは好きなだけ触れ合える事に体の奥が熱くなる。
 悦びも痛みも悲しみも、与えられるのは己だけだと思うと興奮のため息がこぼれた。
「……っ」
 息を飲む彼女に笑いかけると、DIOは大きく口を開いて敏感な肌に牙を突き立てる。流れ出した熱い奔流はまるでヴィンテージワインのようだ。乾いた土に水が染み込むように、DIOの体に歓喜と潤いをもたらした。



 明かりのない寝室に二人分の寝息が静かに響いている。
 贅を凝らしたベッドの上で夢主が寝返りを打つと、空いた隙間を埋めるように太い腕が伸びてくる。
 耳にかかる吐息がくすぐったい……、夢主はそう思いながらも包み込まれる心地よさにうっとりと身を預けていた。
 しかし次の瞬間、けたたましく鳴り響いた電子音に叩き起こされてしまう。短い悲鳴を上げて飛び起きた彼女は、サイドテーブルの上で音と光を繰り返す携帯を手に取る。
「何事だ……?」
 睡眠を邪魔されたDIOものそりと上体を起こす。青白く逞しい裸体をわずかなシーツだけが覆い隠していた。
「あっ! もうこんな時間!」
 アラームを切った夢主は急いでベッドを後にする。そのまま隣のバスルームへ飛び込んでいった。
「……一体、何だというのだ?」
 残されたDIOは眉を寄せつつ、彼女が戻ってくるのを待った。バタバタと騒がしい物音の後、しばらくして身支度を整えた夢主が姿を見せた。
「起こしてごめんね。でもアラームがなかったら遅刻してたから……」
「遅刻……、だと?」
「もう時間がないから行ってくるね。お昼はリゾットたちと食べることになってるから、夜にまた……」
 そう言って背を向けようとする夢主の腕をDIOは難なく捕らえた。
「おい、待て。どこに行くつもりだ」
「だからバールだよ。通りの角にあるバールに行くの」
 洒落たホテルのバーよりも敷居が低く、気軽にコーヒーと軽食が味わえて日用品も手に入る……それがバールだ。しかし、わざわざそこへ行かなくても朝食ならテレンスが用意するし、屋敷内には不自由なく全てが揃っている。そこへ今から行く理由がDIOには分からない。
「何のために?」
「何って……、昨日話したでしょ? 怪我で店員が急に二人も抜けたから助けて欲しいって連絡が入ったの。バールの店長さんには前にもお世話になったし、断る理由もなかったから……」
「つまり、そこでお前が働いているということか? 給仕をして?」
 大きく頷き、これで二度目の説明だと頬を膨らませる夢主をDIOは渋い顔つきで見つめ返す。
「……期間は?」
「予定では一ヶ月。もうその半分は働いたし、店員の一人がもうすぐ退院するから心配ないよ」
 夢主の説明を聞いたDIOは美しい目を細めた。
 心配などしていない。働くことに反対なのでもない。ただ何故それが“今”なのか、そこが不満なだけだ。
「それじゃあ、また夜に。行ってきまーす」
 暗闇にDIOを残し、にこやかな笑顔を浮かべながら夢主は寝室を出ていった。


 通りを歩けば至る所にあるバールはその地域に暮らす人々と密着し、多くが個人経営ながら他にはない利便性で街の経済の一端を担っている。
 夢主が働くバールもその一つだ。パッショーネの構成員である店主は、その裏家業を隠しつつ明るく気さくな人柄だった。プロシュートや他の様々なギャングと知り合いで、街の噂話が多く寄せられるところだけに何かと相談したりされたりするらしい。
「オー! チャオ・ベッラ! 今日はまた一段と可愛いな!」
 店に来た客ではなく、一分も遅れることなくやってきた夢主に対する賛辞だった。
「当たり前だ。俺が大事に育ててるからな」
 と言ったのは店主と顔なじみで、今回の話を持ってきたプロシュートだ。
「とうとう言い切ったな、この色男。あんたも気を付けなよ。こいつは恋人にしちゃならねぇ候補ナンバーワンだ」
「生憎だが、それは他の奴に譲ったぜ。今じゃあこの俺も二番手さ」
 プロシュートは煙草の煙をフッと吐き出しながら店主に笑いかける。バリスタの彼は「本当か?」と驚き笑いながら、小さなカップに抽出したエスプレッソをプロシュートが寄り掛かるカウンターの上に置いた。
 夢主は店主に朝の挨拶をして、そんな彼らの横を通り抜ける。奥のキッチンではパニーノに挟むトマトとチーズを奥さんが切り分けていた。
「ボンジョルノ! 素敵な朝ね。あなたの笑顔と同じで輝いてるわ」
 彼女とも親しい挨拶をして夢主は店の名が刺繍されたエプロンを腰に巻いた。開いたばかりの店内には次々と客が訪れ、カウンター席で一杯のエスプレッソに二、三杯の砂糖を入れて飲んでいく。あっという間に飲み干して出て行く客もいれば、店員たちと世間話をしてからのんびり後にする客もいて様々だ。
「じゃあな。また後で寄る」
 挽き立てコーヒーのいい香りを夢主の頬に残して、プロシュートも颯爽と去っていった。笑顔で見送った後、カップを片付けようとしてそこに二杯分のお代が置かれてあることに気付いた。椅子のあるテーブル席とは違って立ち飲みで座席料を取ることはない。夢主が不思議そうにしていると店主がニヤリと笑った。
「こいつはナポリ特有のカフェ・ソスペーゾさ。懐の寂しいやつのために余裕のある人が一杯分をおまけする。ここいらじゃあ、もうプロシュートとブチャラティぐらいしか払っていかねぇがな」
 夢主にそう説明すると、小さなカードにソスペーゾありの文字と数字を入れ、外から見える窓の端に貼り付けた。
 浮浪児だったナランチャにスパゲティを食べさせたように、ナポリの下町は人情に厚い。カトリックの教えが根付いているのだろう。
 そうした今まで知らなかった知識や知恵を夢主が覚えている間にも、客は次々とやってくる。
「ボンジョルノ、いつもの一杯をお願い」
「いい天気だね。昨日のサッカーの試合を見たかい?」
 あまり広いとは言えない店内は、世間話に花を咲かせる声ですぐにいっぱいになる。そんな中、夢主は次々に売れていく新聞と雑誌を補充し、コーヒーだけでなくパンや煙草、日用品を求める客の対応をしたりと忙しく働いた。

 しばらくして朝の通勤時間帯が過ぎると、今度は一転して穏やかな時間が訪れる。店に来るのは働き盛りを過ぎたご老人たちで、立ち飲み席よりもテーブル席でのんびり過ごすのが好きなようだ。
「こんにちは、お元気? いつものお願いね」
 なじみの老婦人が皺だらけの顔に笑顔を浮かべてやってくる。彼女が愛してやまないのはトトカルチョを初めとした宝くじの数々だ。
「はい、どうぞ。当たるといいですね」
「ウフフ、この前のは少額だけど当たったのよ。あなたが来てからツキが向いてきたみたいね。ずっと働いてちょうだい」
 夢主にこっそりと話しかけて小さなウインクを残していく。そう言ってもらえるのは嬉しいが、この店に居られるのはあと数週間だ。
「少し早いけど、もうお昼を食べていくわ。パニーノとスプレムータをお願い」
 そう言って老婦人は心地よい窓際のテーブル席に着いた。バリスタの店主がシチリア産のブラッドオレンジを大きな手でぎゅっと絞り、砂糖を入れたグラスになみなみと注ぐ。夢主は爽やかで甘酸っぱい香りが弾けるこの瞬間が好きだった。
「はい、パニーノよ。彼女の健康のために、トマトをたくさん入れておいたわ」
 店主の奥さんが言うように、自家製パンの間にはスライスされた赤いトマトがたっぷりと挟まれてあった。レタスや生ハムとチーズがかろうじてそれを支えているようだ。
 いつ見ても美味しそうなそれらは、テーブルに運ぶ夢主の胃袋を容赦なく刺激してくる。
「今は人も少ないし、特にやることもないでしょ。さぁその席に座って退屈な私の相手をしてちょうだいね」
 一応、夢主にもまだ仕事はあるのだが……暇を持て余した彼らから話し相手に選ばれるのはこれが初めてではなかった。
「おお、今日もご指名が入ったな。いいから、ばあちゃんの相手をしてやんな」
 客足が落ち着いた今、店主も椅子に腰掛けて休んでいる。彼の奥さんは夢主の前にジュースとお菓子を置き、自分も小さなドルチェを手にコーヒーを飲んでいた。
「いいんですか……?」
 と毎回思うのだが、誰もが頷いて笑いかけてくる。結局、夢主は婦人の世間話に付き合うことにした。
 客も店員も一緒になってお喋りをする空間に、窓の外からきらきらと太陽の光が射し込んでくる。穏やかな時間の流れに、絶え間ない笑い声が混じって溶けていった。


 正午を知らせる教会の鐘が鳴ると、再び客足が戻ってきたようだ。
 軽食を買いにきた会社員や、学校から家に帰る途中で親にお菓子をねだる子供たち、それからトイレを借りたいと申し出る観光客、そんな彼らが家路に着くのを見送って店の扉を閉めにかかる。この時間は店主や従業員も家でゆっくりとランチを取るのが習慣だ。
「よぉ、間に合ったな」
 そう言って、後ろにペッシを控えさせたプロシュートが再び姿を見せた。彼らの両手には大きく平たい箱が積み重なっている。
「……もしかしてピッツァ?」
「正解だ。冷えねぇうちに帰るぞ」
 夢主は店主と奥さんに頭を下げ、溶けたチーズのいい香りを漂わせているペッシの隣を歩く。
「どうッスか仕事の方は」
「今のところ順調だよ」
「何か困った事があれば、いつでも力になりますぜ」
 胸を張るペッシに笑顔でありがとうと答えて、リゾットたちが待つ部屋に戻る。お帰りと出迎えてくれるリーダーの後ろで、グラスと飲み物を屋上のテラスへ運ぶイルーゾォとメローネの姿があった。ソファでくつろいでいたホルマジオを誘い、テラスでピッツァを切り分けている間にギアッチョとソルベたちも帰ってきたようだ。
 大勢でランチを楽しんだ後、それらの片付けと共に夕食の準備に取りかかる。手が空いたときはリゾットと書類の整理をしたり、チームの誰かと買い物に出掛けたりと自由に過ごす。しかし、一息入れる頃にはまたバールへ行かなくてはならない。
「忙しそうだな。大丈夫か?」
 腹に猫を乗せ、ソファで横になっているホルマジオがあくびをしながら聞いてきた。夢主が大丈夫だよと答えると、
「ふ〜ん……まぁ、お前は平気かもしれねぇがよぉ〜」
 と苦笑しながらホルマジオは猫の頭を撫でる。言葉の意味と続きを聞こうとする前に、玄関の鏡の向こうからイルーゾォが姿を見せた。
「そろそろ時間だ。行こうぜ」
 シエスタを終えた多くの店が再び扉を開く時間帯だ。同時に通りは人で賑わいを見せる。
「じゃあ行ってきます」
 その場にいたリゾットとホルマジオに挨拶をして、護衛役のイルーゾォと外へ出る。午後からの仕事が終われば、そのまま店からDIOの屋敷へ行くことになっている。DIOの来訪を待つだけの今までとは逆だ。ささやかな手土産を選びながら相手を想う瞬間を大いに楽しんでいる。
 ゆっくりと傾き始めた太陽の下で、夢主は元気な一歩を踏み出した。
 


 日が沈み、月が映し出す木々の影を踏んで人通りの多い道に出る。
 見るからに狭苦しそうなバールの扉を開いた瞬間、客たちの騒々しい声が耳奥に響いた。続いてカクテルやビール、食前酒とそれらの横に置かれた大量のつまみの匂いが鼻孔を満たす。酔っぱらいたちの酒臭い息と大声に、DIOはふと賭事で日々を生き抜いた過去を思い出し、眉をひそめてしまった。
「テーブル席を」
 店主にひとこと告げて一番奥の空席に腰掛ける。仕事、友人、女に金の話を次々にする男の集団の向こうから、水を注いだグラスをトレーに乗せて夢主がやってきた。
 こちらに気付いた瞬間、驚いたようだがすぐに嬉しそうな笑顔になった。
「いらっしゃい。珍しいね、DIOがバールに来るなんて」
「お前の様子を見に来ただけだ」
 店のエプロンを身に付けて、はにかむ相手をDIOは目に収める。
「ご注文は?」
「お前に任せる」
「じゃあマスターのお勧めになるけど、大丈夫?」
「それでいい。私のことは気にするな」
 そう言ってテーブルに一冊の本を置いた。暇潰しに屋敷から持ってきたものだ。中には夢主が作ったしおりが挟まれてある。
「少々お待ち下さい」
 他人行儀な言葉と態度にDIOは眉をぴくりと動かした。夢主は注文を店主へ伝えにカウンター内へ戻っていく。酒や煙草に混じって彼女自身の甘く清浄な香りがふわふわと漂い、DIOの鼻先まで届けてくる。その後ろ姿を眺めて彼は小さな息を本に吹きかけた。
(……我ながら失言だった)
 時が戻せるならテレンスに向けたあの言葉を撤回したい。日中に何やら用事があるそうですが……、という含みを持たせた言い方に怪しいと気付くべきだった。
(怪我した従業員の代理だと? ふざけたことを……)
 そんなもの他の誰かに押しつけてしまえばいい。体力と時間を削るだけの無駄なことだ。二ヶ月もの間、欲望と渇きを我慢した己への褒賞がこれかと思うと実にやるせない。夢主が他人に愛想を振りまく数秒すら惜しいと思っているのに……。
「チッ……」
 ここ数日は散々なものだ。日中のアルバイトを終えた夢主はDIOの屋敷に戻ってくると早々に寝付いてしまう。何とか起きていようと足掻いてみても、疲れ切った体は眠りの誘惑に抗いきれないらしい。おかげでこれまであった夜の散策や二人の語らいは無くなり、DIOが寝顔に劣情を抱いても明日があるからと拒否され、一人で我慢しなければならないというひどく面白味のない日々を送ることになってしまった。
 眉間に大きな皺を寄せつつ本を開くと、すぐに夢主が戻ってきた。
「お待たせしました。ロゼのカクテルになります」
 テーブルに置かれたグラスには、春の夕暮れのような液体が注がれてあった。
「お前も飲むか?」
「仕事が終わったらね」
 微笑み、去っていこうとするその腕を素早く掴む。と同時にDIOの背後に屈強なスタンドが出現した。周囲の動きが鈍り、騒がしい声が止み、客たちはネジが切れた人形のように動きを止める。時を支配した彼は唖然とする夢主を引き寄せて膝上に抱き上げた。
「もう……」
 咎める口調を無視してDIOはグラスを傾けた。淡い桃色を一口飲んで残りは夢主の手に持たせた。
「立ったままでは疲れるだろう。しばらく休んでいけ」
「休憩はもらってるよ?」
 客が少ないときは従業員の誰もが椅子に腰掛けて休んでいる。だから平気だと言ってもDIOは立たせてはくれなかった。
「本当か? そうは言っても人間は貧弱だからな」
「……だから心配になって見に来たの?」
 夢主は真意を探るように、相手の美しい顔を間近から覗き込んだ。
「お前が楽しんでいるのならそれでいい」
 わずかに視線を逸らしながらDIOは淡々と答える。
 暗闇に光が射し込むような、晴れ晴れとした気分を味わったのは再会した初日だけだ。あれから味気ない夜の時間を持て余しているなど、口にするつもりはなかった。
「もちろん楽しいよ、みんなとても良くしてくれるし……、でも……」
「でも、……何だ?」
「……ううん、いいの。それより仕事に戻らないと」
 作り笑いを浮かべてDIOから身を離す。動き始めた時の中で談笑する客の向こうに走り去っていった。
「……」
 追いかけたい気持ちを押さえ込んでDIOは本を手にした。思うとおりにならない苛立ちばかりが胸に渦巻いて、内容など少しも入ってこなかった。


 そんな近寄りがたい雰囲気を放つ彼を店の隅に置きながら、夜は刻々と更けていく。仕事終わりに夫婦でレストランへ、待ち合わせた恋人と映画に、酔った友人たちと笑いながら次の店へ……。最初の喧噪が嘘のようにバールは静けさを取り戻していった。
「さぁて、そろそろ閉めるとするか」
 店主の声に残っていた学生たちが残念そうな声を出す。
「そうは言っても、もう寝る時間だぞ」
 彼らに一杯だけおごってやり、夜道に気を付けるよう注意して外へ送り出した。そして最後に残った人物を見て店主は頬を掻く。プロシュートから取り扱い注意の指示がなければ同じように送り出していただろう。
「おーい、夢主ちゃん。もう上がっていいぜ。恋人と仲良く帰りな〜」
 カウンターから奥のキッチンに向かって言うと、皿とグラスが危なっかしく触れ合う音がした。しばらくしてエプロンを脱いだ夢主が姿を見せる。
「お、お疲れさまです……」
「おう。また明後日な。よろしく頼む」
 にこやかに微笑まれながら背中を叩かれ、その勢いでDIOの居る席へ駆け寄った。
「仕事は終わりか?」
 冷えた声が客のいない店内に響き渡る。本を閉じてゆっくりと立ち上がるDIOを前に、店主は異様な圧迫感を感じて一歩後ろへ下がり、対して夢主は嬉しそうに近づいた。
「待たせてごめんね。これからどこかに行く? それとも一度戻った方がいい?」
「外を歩きながら考えよう」
 夢主が夫婦に夜の挨拶をするのを横目にDIOは店の外へ出た。来たときよりも通りの人影は少なく、その代わり多くの家々に明かりが灯っている。夜空には雲が掛かり、今にもふつりと消えてしまいそうな街灯だけが頼りのようだ。
「行きたいところはあるか?」
 歩道を歩き始めてすぐにDIOは問いかける。
「うーん……、そうだね……」
 必死に考えているのかしばらく沈黙が続く。コツコツと二人分の足音だけが響き、大通りを渡った頃になってようやく夢主が口を開いた。
「ごめん、何も思いつかない……」
 気の利いたいい案が思い浮かばず、うなだれる彼女にDIOは一つの提案をした。
「このまま当てもなく歩き回るのもいいが……テレンスの奴が珍しいドルチェを手に入れたそうだ。一度、屋敷に戻って夕食を取るのはどうだ?」
 笑顔を取り戻す夢主を見て、DIOはバールで感じた様々な不快感が消えていくのが分かった。
「決まりだな」
 そうなればこうしてのんびり歩くことはない。DIOは影の濃い通りの脇道で夢主の体を抱き上げると、そのまま建物の屋上へ飛び上がった。
「タクシーを使えばいいのに……」
「この方が早い」
 目的地まで直線距離で移動できる方が無駄がない。DIOはそう言い切りながら、胸や首に感じる重みに心が満たされていくのを感じ取る。離れていた時間を埋めるようにしっかりと腕に抱いた。
 そんな相手を知らぬまま、夢主は間近に見るDIOの横顔に少し照れながら話しかけた。
「明日はお休みだから、今夜はやっとゆっくり出来るね」
「そうなのか?」
「店主のおじさんが言ってたでしょ? 明後日はよろしく頼むって。それにその日は土曜でお昼までだから……」
 一日休んだ後、また朝からあの店へ出掛けるらしい。彼女の言うゆっくりはDIOにとってあまりに短いものだ。長く離れすぎると人は時間の感覚も鈍くなるのだろうか。DIOの眉間に再び皺が刻まれようとしたその時、首に回された細い腕に少し力が入った。
「だから……その、明日はずっと側にいてもいい?」
 DIOは思わず足を止めて彼女を見つめ返す。不安げに揺れる目を見て、DIOはつい意地悪な言葉を掛けてしまう。
「私はお前に随分と寂しい思いをさせたようだな」
 言い当てられてぐっと押し黙る夢主をDIOは優しく抱きしめた。しかし喉の奥で笑っている事が伝わったのか、彼女は悔しそうに、恥ずかしそうに軽く胸を叩いてくる。
「DIOは……寂しくなかった?」
 そもそもそんな感情があるのだろうか。疑わしく思う夢主からの問いかけにDIOはニヤリと不敵な笑みを返した。
「さて、どうだろうなァ? 素直に心を明かすのは、賢い者のすることではないぞ」
「もう……」
 ふてくされたように肩へ顔を埋める夢主に、DIOは小さく笑って屋敷への跳躍を開始した。
 寂しいなどというそんな生ぬるい言葉では言い表せない。渇望する心を彼女に癒してもらうためにも、やはり邪魔者は排除しなくてはならないだろう。
(躊躇うなど私らしくもない)
 信号が変わった通りを次々に走り抜ける車を見下ろして、DIOは夢主をベッドに沈めた後の事を思う。邪悪な笑みを浮かべながら彼は恋人と共に帰路に着いた。


 土曜の朝、一軒のバールに酔っぱらいの車が突っ込むというニュースが流れた。
 夢主が驚きの声を上げる横で、DIOはテレンスが運んできた紅茶を優雅に……それでいてどこか満足そうに飲むのだった。

 終




- ナノ -