さまよえるイギリス人


 穏やかな風が吹き渡ってそれまで雲に隠されていた月が静かに姿を見せた。淡い月光が照らし出すのは海辺のレストランで笑いあい、美味しい食事を楽しんでいる人々の笑顔だ。店内はそうした談笑の声で溢れかえっている。そのレストランで食事を終えた夢主は、浜辺へと降りる階段の途中でドッと沸き起こった笑い声に後ろを降り仰いだ。
「ギャハハ! それマジかよ!?」
 ひときわ大きく笑うメローネの声が辺りに響いている。暗殺チームの彼らとレストランを訪れていた夢主は、次々に飲まされた酒で火照った体を静めに夜風にあたろうとしている最中だ。浜辺と店を繋ぐ階段ではすでにいい感じの雰囲気になった恋人たちが寄り添っている。彼らの間を縫うようにして夢主はまた一歩を踏み出した。
「落ちるなよ」
 そう言って手を繋いでくるDIOは夢主以上に酒を飲んだにも関わらず、まるで素面のような様子を見せている。彼が夢主と共に階段を降りていくと、それまでキスをしていた恋人たちはお互いを忘れて呆然とDIOに魅入った。それは夢主だって同じだ。足下を意識しないと階段から転げ落ちそうになる。月明かりに照らされたDIOは誰よりも美しく、雄々しくて思わず頭を垂れてひれ伏したくなる威厳があった。
 そんな彼から、
「浜辺を共に歩くか?」
 と誘われたのはついさっきの事だ。ホルマジオやソルベたちに酒を注がれて、それを飲んでいる内に顔が熱くなってきた。手で扇いでいるのを見咎めたDIOの言葉に賛成を示したのは先ほど笑い声を上げたメローネだ。
「お、いいね、夢主行って来いよ。ここの浜辺は綺麗で有名なんだぜ」
「あー、そうだな。ドルチェも平らげたんだ。腹ごなしにDIO様と散歩でもしてこい」
 散々飲まされたホルマジオにも言われて、じゃあ、と夢主は席を立った。彼らはDIOのおごりと言うこともあって、これからまだまだ飲んで食べる気でいるのだろう。
 そうしてDIOに手を引かれて夢主は白い砂浜に足を付けた。観光客のために手入れされた砂はサラサラとして心地いい。だが歩く度に容赦なく砂が入ってきた。
「ちょっと待って、DIO」
 夢主は靴を脱ぎ、指先にそれらをひっかける。
「行くぞ」
 DIOに促されて昼間の熱をほんのりと残した砂浜に足を踏み出した。
 ここもさっきと同じように何組かの恋人たちが夜の海を眺めに来ている。ロマンチックな夜空を寄り添って見つめる彼らの後ろを夢主はDIOと共に歩いた。
「DIOと海に来るのは初めてだね」
「そうだな……お前の水着を用意しておくべきだったと今、後悔しているところだ」
「え、夜の海で泳ぐの?」
 寄せては返す海と陸の境界線で夢主は驚いた表情でDIOを見上げる。
「怖いか?」
「だって真っ暗だよ……?」
 昼間なら青々とした波間に漂うのも悪くないと思うだろう。しかし、底の見えない夜の海ではそんな気も起きなかった。
「海の闇は私の味方だ」
 およそ百年もの間、海底に沈んでいた経験のある本人が言う言葉だ。やけにリアリティがあって夢主は思わず身震いした。
「だからこそ生き延びれた訳だが……」
 太陽すらも追って来れない深くて暗い冷たい場所だ。そこから生還できたのも奇跡であり運命だったのだろう。
「……」
 不意に手を繋ぐの止め、腕をぎゅっと抱きしめてくる夢主にDIOは小さな笑みをこぼした。
「どうした?」
「……海から陸に上がった時、DIOはどう思ったの? いつの間にか百年が過ぎてて驚かなかった?」
 飢えと渇きを癒すために何十人もの生き血を吸い、状況を知るために本や新聞を読みあさる日々を思い出す。世界中を旅してエンヤ婆とプッチに出会い、世界を征するためのスタンドを得た。色々あったが、西暦を跨いでここに立っていられる自分は部下の一人が占ったように強運の持ち主なのだろう。
「そうだな……馬車が消え、人が車を運転する姿は確かに驚いたな。何度か轢かれた事もある」
「えっ!?」
「無論、この私が死ぬわけもないが……」
 DIOをはねた運転手はきっと腰を抜かすほど驚いたに違いない。慌てふためく彼らの前を平然と通り過ぎていくDIOを想像すると、何だか少し可笑しかった。
 隣で肩を震わせる夢主を連れてDIOも波打ち際に立った。潮の香りと波の音が海底では子守歌だったように思う。靴先を濡らしつつ、DIOは月の下で輝く海面を眺めた。
 強欲なトレジャーハンターたちが棺を探し出さなければ、今でもあの海底に沈んでいたのだろうか。そうするとホリィは病に倒れず、承太郎たちもスタンドを得ることがなく、ジョルノも生まれなかった事になる。もちろん夢主とも出会えぬまま時間だけが過ぎていっただろう。
「DIO……? 何を考えてるの?」
 不思議な眼差しで海を見つめるDIOを夢主は心配そうに見上げてくる。DIOは相手の頬に手を伸ばしそっと撫でた。
「今夜は屋敷に泊まっていけ」
「え、でも……」
 チームのみんなと帰るつもりでいた夢主はその言葉に少し戸惑う。メローネにニヤニヤとした笑いを向けられるのが嫌だ。だが内心では喜ぶ自分も存在する。
「夜風で冷えた私の体を暖めるがいい」
 そう言ってDIOは唇を重ねてくる。他の恋人たちと同じく情熱的で甘ったるい口付けだ。堪らず腕にしがみつけば夢主の指先から靴が滑り落ちた。波に洗われるように転がって、ゆっくりと暗い海の中に浚われていった。
「……やけに顔が熱いな。酒の飲み過ぎだ」
 DIOはフッと笑って夢主の頬から手を離す。吐息と心を奪われて、酒の酔いを深めさせたのは他でもないDIOだ。冷めるどころか夢主の体はますます火照っていく。照れて視線を外しても、同じように戯れる恋人たちがすぐ近くにいては冷めようがなかった。
「そろそろ戻るぞ」
 DIOは夢主の腰を抱いて、さざめく暗い海から明るい陸地に視線を移す。
 地上のそんな様子に呆れたのか、優しい光を放つ月は白い雲をかき集めて再び自らを包み込んでしまった。


「あぁ? オイ、いくら恋人同士とは言え……そりゃあないだろ。お前、俺らは寂しい独り身なんだぞ?」
 テキーラを飲んでいたホルマジオは、海の散歩から帰ってきた二人を見て言った。
「見せつけてくれるなぁ……ま、俺にはたくさんの恋人がいるからホルマジオとは違って寂しくなんかないけどな」
 メローネはワインを飲んだ唇を舐めてホルマジオに嫌味を言う。
「馬鹿、違うだろ。よく見ろ」
 イルーゾォはナプキンを手に席を立つと夢主の足についた砂を丁寧に拭ってやった。
「ありがとう、イルーゾォ……」
 DIOの首に両腕を回し、熟れたトマトのように真っ赤な夢主はイルーゾォにぽつりと礼を言った。一方、彼女を腕一本で抱え上げているDIOはイルーゾォの甲斐甲斐しい行動に目を細める。
「夢主、靴を無くしたのか?」
 追加のドルチェを食べていたリゾットに聞かれて夢主は小さく頷いた。
「馬鹿かお前……フツー無くすかァ?」
 ギアッチョまでもが呆れた様子でそう言ってくる。ソルベとジェラートにも笑われて夢主には返す言葉もなかった。
「もう店は閉まってるけど……」
 ペッシの言葉に肩を落とし、夢主は最後の頼みであるプロシュートをちらりと見た。
「諦めろ。そのまま抱かれて帰るしかねぇな」
 クックッと肩を揺らして笑う彼の前に何本もの酒瓶が置かれてあった。
「ではそうするか。……お前たちはまだ飲む気か?」
 夢主を腕に抱いたDIOは暗殺チームをぐるりと見渡した。一般とは隔てられたこの部屋には大量の皿とグラス、それからプロシュートが吸う煙草の煙と、ホルマジオが飲んでいるテキーラの香りが充満している。
「まだこんなに残ってるし、一緒に帰ろうなんて野暮なことは言わないよ」
 メローネはワインの瓶を揺らし酔って赤くなった顔で二人に手を振った。
「後はリゾット、お前に任せよう」
 チームリーダーのリゾットの前に分厚い財布を放つと、DIOは彼らに背を向けてレストランを去っていく。夢主が恥ずかしそうにDIOの肩に顔を隠すのを見てまた笑い声が沸き起こった。
 二人の姿を見て車から素早くテレンスが降りて来る。彼に後部座席のドアを開けてもらい、夢主はDIOの腕から柔らかな座席に下ろされた。二人を乗せた車は海岸線から高台へと静かに走り出す。
「また来たいね」
 もう見えなくなった暗い海を思い浮かべる夢主にDIOは腕を回して引き寄せる。そう言うのなら何度でも連れて行くだろう。DIOにかかった呪いは解かれないが、愛を得た彼はもはや海をさまようことはない。

 終




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