07


 抱き合う二人に気を利かせたのか、それとも見ていられないと思ったのか、気がついた時にはジョルノが居なかった。DIOと出会えてこうしていられるのは嬉しいが、彼に気を遣わせていると思うとさすがに気まずくなってくる。
「あの、DIO……」
 そろそろ離して欲しい、そう言おうとして顔を上げれば微笑みながらこちらを見下ろしてくるDIOと目があった。それだけで何も言えなくなる。その様子を楽しそうに見下ろしながらDIOは久々の感触を味わうかのように片手で夢主の髪と頬を撫でた。
 言葉はなくともその優しい手つきにたくさんの想いが詰め込まれているようだ。思わず頬を染める夢主をDIOはひたすらに眺めてくる。二人の間でこれまで離れて過ごした日々が脳裏をよぎって遠い過去へと導いた。カイロの館で暮らした頃があまりに懐かしい。
「また会えて嬉しい」
 どこかホッとするような笑顔を向けられてDIOの胸が詰まった。長年離れていても夢主はDIOだけを求めていたのだろう。揺るがない心と想いが純粋に嬉しかった。
 DIOが堪らずにまた抱きしめようとした時、この部屋を出て行ったはずのジョルノが携帯電話を胸ポケットに戻しながらリビングに姿を見せた。
「先ほどSPW財団と取引した結果、あなたの身柄を一時、預かることになりました」
 ソファーの隣に立ち、ジョルノはそう言って夢主を見下ろしてくる。
「財団と……取引?」
「ええ。僕とパードレはもはやあなたを手放すつもりはありませんからね」
「当然だ」
 ジョルノの言葉にDIOは賛同する。
「でもどうやって……?」
 あの世界中に支部を持ち、幅広い分野で活躍する大企業相手にどうやって取引を持ちかけたのだろう。
「ジョータローでしたか? 彼に電話を繋いでもらって話を付けておきました。この世界を見てしまったあなたをこちらで預かりたいと。そうしないと夢主の身が危険だとね。脅したんじゃありませんよ? 彼は溜息を付いた後に承諾し、財団へは彼から連絡するようです」
 姿を消していたジョルノは短い間でそんな手回しをしていたらしい。ジョルノの行動力と大胆さ、何よりあの承太郎を説き伏せた事に夢主は素直に驚いた。
「すごいね……あの承太郎がよく納得したね」
「ええ、たっぷりとあなたへの愛を囁いておきましたから」
 ジョルノは悪戯っ子のようにクスッと笑い、DIOの腕の中にいる夢主へ手を伸ばしてくる。
「愛?」
「パードレの事は秘密なんでしょう? ですから僕の婚約者になってもらいました。ボスの身を探ってきたあなたと激しい恋に落ち、すでに相思相愛で、責任を持ってあなたの人生を護りますから彼女のこれからを見守って欲しいと……そう伝えておきました」
 にこりと笑うジョルノに夢主もDIOもすぐに言葉が出なかった。
 自分の知らないところでいつの間にかジョルノと自分は婚約者になっている……承太郎はそんなジョルノの言葉を信じたのだろうか。
「……婚約者?」
「そうでも言わないと納得してもらえそうになかったので」
 悪びれることなくジョルノはさらりと告げる。
「ま、そう言うことですからお互い仲良くしましょう」
 呆然とする夢主の頬へジョルノはそっと口付けてきた。
「わっ」
 目映いばかりの金色の髪と柔らかな唇が触れて夢主はみっともないほどに動揺した。
「……私を差し置いてどうしてお前が頬にキスをする」
 ジョルノの言動と行動にDIOは再び眉を寄せて睨み付けた。
「フフ、後は辻褄を合わせておいて下さい。それからこれは単に外国での挨拶です」
 ジョルノはそう言って再び頬へキスを落とす。軽く触れるだけのものなので全く嫌な気がしない。
「挨拶……そっか、そうだよね。ここはイタリアだった……」
「イタリアだけでなく欧州に住む限りこの習慣からは逃げられませんよ? 僕で練習してみますか?」
 ジョルノはにこにこと笑っている。
(練習……?)
 確かに慣れていないし、リゾットたちともそんな挨拶を交わしたことはなかった。
「……いいの?」
「ええ、どうぞ」
 両手を広げてジョルノはにっこりと微笑んでいる。夢主はDIOの腕から立ち上がり、彼を抱きしめて恥ずかしそうに頬と頬をくっつけた。
 軽い音を立てて離れるとジョルノは反対側の頬を指差す。
「……」
 夢主はそちらにもキスをした。
「両頬に一回ずつですよ。二回でも構いませんけどね。これからどうぞよろしく」
 ジョルノは額にまで口付けてくる。
「それも挨拶?」
「いいえ、これは単なるキスです」
 ジョルノはまたもさらりと言って夢主から離れた。その背後でDIOが苦い薬を飲んだような顔をしているのが見えたからだ。
「……夢主」
 恨めしそうなDIOの声が後ろから聞こえてくる。振り向けば、彼はニヤニヤと笑って手招いていた。
「息子への挨拶は終わったか? 次は私の番だな」
「……挨拶だよ?」
「ああ、久しく忘れていたがその習慣を今、思い出した」
 父親の言葉にジョルノは呆れて肩を竦めた。
「夢主」
 DIOが名を呼んで夢主を引き寄せると、頬と頬を合わせた後に唇を押し付けてくる。本当は触れずにリップ音を響かせるだけなのだが、そこは我慢できなかったらしい。DIOからのそんな挨拶に驚きつつ夢主は期待に目を輝かせる相手を見上げた。
(……慣れない……)
 恥ずかしくて顔が熱くなってくる。胸が痛いほどに脈打ち、もはやこの場に倒れ込んでしまいそうだ。
「ボンジョルノ……DIO」
 大きな体に抱きついて陶器のようになめらかな頬へキスを二回。ちゅっ、という慎ましやかな音が部屋に響き渡った。
「……無理! やっぱり恥ずかしい!」
 したことがない挨拶の仕方に夢主は顔を覆ってソファーにへたり込んだ。
「あなたは実に恥ずかしがり屋さんですね。何度もすれば慣れますよ」
 ジョルノは夢主のそんな様子を見てクスクスと笑っている。
「夢主、お前が慣れるまでいくらでも練習に付き合ってやるぞ」
 DIO相手にこんなことを繰り返していたらきっと、
「心臓が持たない……」
 いつか本当にぶっ倒れてしまいそうだ。



「さて、外に対するあなたの身の振り方はこれで決まりましたが、問題はここからですね……」
 ジョルノはトマトのように赤くなった夢主の向かい側に腰掛け、自分で用意した炭酸水を一口飲んだ。
「夢主、あなたは組織に対して何か出来ますか?」
 何かって何だろう? 夢主は首を傾げる。
「少なくともあなたはスタンド使いだ。そうである以上、僕の手元から逃がすわけにはいきません。かといってパードレの恋人という位置づけだけでは他に示しが付かないのです。僕の言いたいことがわかります?」
「私のスタンドで組織に……貢献してほしいってこと?」
「そうです。能力はリゾットから聞いていますが、それを活用して他に何かできますか?」
「フフ、ジョルノ、彼女のスタンドを下っ端と同じに思うな」
 DIOは隣にいる夢主を引き寄せ、その柔らかな髪にキスをしながら妖しく微笑んだ。
「私と同じくまさに世界を手にするスタンドだ。夢主、ジョルノならよいだろう? スタンドを見せてやれ」
 DIOに言われて夢主は少し迷った後、彼らの間に自身のスタンドを出現させた。
「これがあなたの?」
 虹色に輝く唇を持ち、スパイスガールのように女性的なスタンドだ。
「私のスタンドは能力のコピーが出来るの。ただし色々と制限が付くけれど……」
「なるほど。先ほどの話でもそう言っていましたね。では料理のスタンドはこの中の一つに過ぎないのですか?」
 夢主は頷き、クレイジー・ダイヤモンドやヘブンズ・ドアーの各能力について説明した。
「それに発動させたら三日間は寝込むことになるし、能力を使うのも無制限じゃないの。あまり使うと冬眠するらしくて……」
 DIOを救うために使った力のおかげで夢主は目覚めるのに十年を要した。
『どの能力を使用するかは自由ですが、一日五回が限度です。それ以上使うと膨大な休息を必要とします』
 夢主に寄り添うスタンドが簡潔に説明した。それを聞いたDIOは消えゆく夢主の姿を思いだして顔を歪める。
「五回……」
 たとえ上限が決められていても使い方次第では暗殺も救済も、人を操ることも自在だ。夢主の能力を知ったジョルノは目を見開いてゆく。
「確かにパードレの言うとおりですね……敵に回れば恐ろしく、味方になればこれほど頼もしい人はいないでしょう」
 期待するような目を向けられて夢主は戸惑ってしまう。
「でも……私、戦いを経験したことがなくて……きっとすごく足手まといになると思う……だから今まで通りリゾット達の所で過ごしていたいけど……やっぱり駄目かな?」
「……それほどの能力がありながら、あなたは驚くほど無欲だ」
 悪事などしたい放題だというのに夢主の願いはあまりにささやかだ。
「僕が危機の時にはあなたの力を借りたいところですが……それも駄目でしょうか?」
「まさか! この力でジョルノを助けられるならもちろん助けるよ。ただ回数が限られているから……理由も説明もなく使うことは出来ないと思う」
「ええ、もちろんです。安心して下さい。あなたの力を借りても悪用はしないと誓います」
「本当? ……よかった!」
 夢主の素直な笑顔にジョルノはどうも調子が狂う。ボスの立場から言えば、彼女の力さえあれば様々な揉め事は簡単に片付いてしまうだろう。だが無理矢理に能力を使わせるなどジョルノのプライドが許さなかった。
「では今後もリゾットのところで過ごしてもらいましょう。彼の雑務を手伝うことをあなたの仕事として認めます。後で僕からそう通達しておきますね」
「じゃあ私、チームの仲間になれるの?」
 夢主は嬉しそうに笑っている。リゾットのチーム名は「暗殺」だ。信じがたいことにそんな彼らといても夢主は平気なようだった。
「彼らの仕事内容、わかってますか?」
 心配になったジョルノが聞いてくる。
「暗殺チームっていうくらいだから、暗殺でしょう?」
「ええ、まぁ……」
 ジョルノと夢主の話を聞いていたDIOが背後で目を眇めている。アメリカへ帰るつもりはなくとも、その暗殺チームと今まで通り暮らす気でいる夢主が気にくわないらしい。
「このDIOを置いてお前はそのチームに戻りたいと願うのか?」
「ジョルノやリゾットにお世話になっているんだから、少しでも働いて返さないと……」
 確かに、何よりも夢主の意思を尊重するとは言ったが……DIOは呆れたような溜息をつく。
 だが、そういう彼女だからこそDIOは惹かれていくのだ。これまでの女なら両手を挙げ、歓喜の涙を流しながら身も心も全てを投げ打ってDIOと共に暮らすことを選ぶだろう。
「いい心がけですね。パードレも見習ったらどうですか?」
 DIOは夢主を後ろから強く抱きしめると、ジョルノに向けてフンと鼻を鳴らした。
「ようやく会えたというのに……早くも手放さなければならない私の気持ちを、お前達は少しも分かっていない」
 拗ねたような声に二人は苦笑した。
「せめて夕食を共にしろ」
「そうですね。僕もお邪魔でなければ」
「あ……えっと、いいのかな?」
「ええ、是非。僕もあなたのことをもっと知りたい」
 麗しすぎる親子に挟まれ、食事を望まれるような機会などもはや奇跡のようだ。
 じゃあ、と頷いた夢主は降って湧いたその奇跡に感謝した。



「……とはいえ、夜になるまで時間があるな」
 カーテンの向こうはまだ日が照りつける真昼の世界だ。
「この館を案内してやろう。お前の好きな図書室もあるぞ」
「わぁ、本当? 見たい見たい」
 夢主の手を引いてDIOはソファーから立ち上がる。
 しばらく考えた後、ジョルノも彼らについていくことにした。
「リビングの向かいがダイニングだ。テレンスの料理が恋しいだろう? 食べに来い、あいつも喜ぶ」
 DIOは驚くほどに柔らかい表情で屋敷の説明をしていく。
 ジョルノはその見たことのない父親の姿に半ば呆れ、半ば感動してしまった。いつも凍てついた雰囲気を漂わせていた父はどこへ消えてしまったのだろう……夢主に出会ってからというものこの短い間で様々な表情を見せる相手にジョルノは苦笑が隠せなかった。
(僕はこの人のどこを見ていたんでしょうね……)
 どちらもが忘れあっていた存在だ。親子になったばかりの彼らはその在り方を手探りで探している状態だった。そこへ夢主が来て間に入ってくれれば、近すぎず遠すぎない距離でお互いを理解していける様な気がした。
「ここはテレンスの執務室だ。その奥が客間でさらに奥が私の書斎になっている」
 玄関ホールの左奥は真っ暗だった。DIOの書斎と言われても彼がデスクを使う姿が夢主には想像出来なかった。
「次は二階だ」
 白い大理石で作られた階段を上がり、すぐ左手にある部屋が図書室、その奥がDIOの寝室、右手の廊下にはテレンスの部屋とリネン室があるらしい。
 図書室の扉を開けて中へ通されると、そこは一面が本で埋め尽くされていた。座り心地の良さそうな一人掛けの椅子と横になっても有り余る大きなソファーが置かれ、広い部屋の奥にはビリヤード台とここにもバーカウンターがある。
 夢主は歓声を上げて本に近づき、あれこれと背表紙を目で追った。
「好きなだけ持って行け」
「え、いいの?」
「ここで読むも、持ち帰るも、お前の好きにするがいい」
「わぁ、ありがとう」
 DIOはその隣の部屋へ案内する。
「私の寝室だ」
 そう言ってDIOが招き入れたところは彼の主たる部屋だった。一日の大半をここで過ごしていると言ってもいい。
 光を遮り、暗闇が支配する部屋の中央にはエジプトでも見たような大きな天蓋付きのベッドが置かれ、ふかふかの寝具が待っていた。
「寝室はここだけだ。私が眠るベッドも、もはやこの一つだけだ」
 DIOは夢主に向けてはっきりとそう伝えた。ジョルノには分からないが夢主には分かる。
 彼は昔、夜伽用の寝室というハーレムの王様みたいな部屋を持っていた。何も知らずにそこで過ごした後、夢主は主寝室へ招かれたわけだがここはその部屋にあたる場所なのだろう。
 サイドテーブルにはワイングラスと本が置かれたままになっている。ほんのりと懐かしいDIOの香りがして夢主は頬を赤らめてしまった。
「早く以前のように、共に眠りに落ちたいものだな……」
 DIOの鼓動を聞きながら夢の中に入っていく。今思い返すと何て贅沢だったのだろう。あの当時を思い出して夢主の胸がじわりと熱くなった。
「ジョルノ、まだ日があるうちにテラスを見せてやれ」
「わかりました。こちらですよ」
 今度はジョルノに手を引かれ、DIOの寝室の向かいにある扉へ足を踏み入れた。
 そこは色とりどりの花が咲き誇るサンルームだった。ここでお茶が出来るよう、いくつかの椅子とテーブルが置かれてある。そこから外へ続くテラスに出てみれば、ナポリの港町と青い海が一面に広がっていた。街を照らす太陽の光をどこまでも続く青い海が受け止めている……そんな美しい光景に夢主は息を漏らした。
「綺麗……!」
 ジョルノもその光景を静かに眺めている。彼のその横顔も海や太陽に負けず美しかった。
「ふふ、あんなパードレ、始めてみました」
 不意にジョルノは肩を揺らして笑い始めた。
「いつもとはまるで違う。体の大きな子供みたいです」
 一体いつもはどんな感じなのだろう。夢主は愉快そうなジョルノを見つめ返す。
「あなたはパードレにとって最愛の人なんですね。出会えて良かった」
「ありがとう……こうして会える事が出来たのはジョルノのおかげだよ。感謝してもしきれないくらい」
 夢主の目に優しい太陽の光が映り込んでいる。ジョルノはそれをしばし鑑賞した後、柔らかな笑みを向けた。
「……あの人を目一杯、振り回してやって下さい。きっとあなたにしか出来ません」
「そうかな……いつだって振り回されるのはこっちだけど」
 迫られたり、すねられたり、縋られたり、今日だけでも大忙しだ。
「パードレが好きですか?」
 先ほどの告白を聞いていたくせにジョルノはそんなことを言う。
 夢主は一瞬、息を止め、それから彼が聞き逃さないようにゆっくりと言った。
「……好き……大好き」
 言葉にすると想いが自分の体に跳ね返ってくるようだ。DIOを愛しいと思う気持ちが溢れていく。
「またDIOに会えて本当に嬉しい。側にいることが出来て幸せ……」
 愛に満ちた空間が太陽と共にキラキラと輝いている。そのうち訪れる夜でもきっとそのままだろう。
「僕もあなたが好きですよ。だからどうか、僕に気を遣わないで下さいね」
「嬉しいけど……ジョルノはボスでしょう? こんな普通に話してていいのかな……」
「ボスである前に親友では駄目ですか?」
「親友……」
「ええ、何でも話し合える親しい間柄として僕の友達になって下さい」
 まだ若い彼には仲間以外に心許せる者がそう多くないのかもしれない。
「もちろん。これからよろしくね」
 礼に倣って握手を求めてくる夢主をジョルノは微笑みながらハグをした。
「親しい間柄といったでしょう? それならこちらの方が正解です」
 練習の続きだというようにジョルノは頬へキスを往復させる。
「あ……そうだったね……ごめん、慣れてなくて……」
 挨拶だというのに夢主は意識しすぎて真っ赤になる。お返しのキスを躊躇いがちにするのが精一杯だ。
「よ、よろしく……」
 ふわりと小鳥が触れるかのような可愛らしいキスをされてジョルノは笑顔になる。
「ふふ……そろそろ戻りましょうか。パードレがまた拗ねてしまわないうちにね」
 太陽と海に別れを告げて、彼らはDIOが待つ暗闇へ足を向けた。




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