05


 車の後部座席のドアを閉めると、運転席に座っていた元上司がそれを待っていたかのように振り向いた。
「どうだった? 美人か?」
 ブチャラティは笑いながら満足そうな笑みを湛えているジョルノを見た。
「とても可愛らしい方でした。あの写真の通りの人でしたよ」
 泣き顔を思い出して苦笑するジョルノにブチャラティもそうか、と安堵する。
「明日、彼女を迎えに行くことになりました。十時に待つよう言ってあります」
「分かった。しかし……いいのか? お前の父親だろう?」
「別に構いませんよ。それよりも、僕はもう少し彼女と話がしたい」
 今まで居たバールが遠ざかっていく。夢主はあの席でまだ泣いているのだろうか。はらはらと涙を流す姿に胸が締め付けられ、思わず慰めるようにキスまでしてしまった。
「明日が楽しみだな」
「ええ。パードレの驚く顔は見物でしょうね」
 ジョルノにとってDIOは痛いほどに血の繋がりを感じさせる存在だ。
 暗闇でしか生きられない不便な体だというのにそれを厭うこともなく、長く生きることを恐れることもない。強靱な精神力の持ち主だ。だからこそ類い希なるスタンド能力が開花したのだろう。
 突然現れたその父親は母親については何も言わなかった。というより、もはや顔すら忘れているようだ。ジョルノはそれが少しだけ寂しかったが、愛のある関係ではなかったのだから多くは求めないことにした。母親もすでに再婚しているので、そこに以前の男が現れては幸せを乱すだけだ。ジョルノはボスになった瞬間から縁の薄かった母親と義父から完全に切り離れている。彼らとは戸籍上の関係だけになってむしろホッとしたくらいだ。
「サプライズか……悪くない」
 ブチャラティが口の端で笑う。ジョルノは過ぎゆく街中を眺めながら静かに頷いた。


 ぼうっとしていたらいつの間にかアジトの前だった。
 どうやって帰ってきたのだろう……? そう思うほどにバールを出た辺りから夢主の記憶は曖昧だ。
 行きはあれほどざわめいていた心も今は静かだった。大きな喜びがうねって暴れて、そして凪いでいった。
 階段をゆっくりと上って世話になっているリゾットの部屋のドアを開けると、朝の支度をそのまま残した風景が目に飛び込んできた。飲みかけのカプチーノとコルネットのかけらがテーブルの上に落ちている。何てことはない朝だった。
「帰ったか」
 ぼんやりと立ちつくす夢主にリゾットが背後から声をかけた。
「……ただいま」
 静かな声で返してくる相手に、無駄足だったらしいとリゾットは思った。
「明日……十時に迎えが来るって。DIOに会わせてくれるって……」
「!」
 リゾットの落胆は杞憂だった。彼女は勢いよく振り向くと輝くような笑顔で飛びついてきた。
「どうしよう! すっごく嬉しい! 夢みたい!」
 リゾットの腕の中で騒いだ後、今度は突然泣き始める。
「嬉しすぎて……どうしよう……」
 そんな夢主にリゾットは笑って背中を軽く叩いてやった。
「よかったな。服でも買いに行くか?」
「うぅ……そんなぁ……」
 リゾットの変わらない態度がさらに嬉しい。この人に殺されなくて本当に良かった。
「今夜はお祝いだな」
 その言葉を聞いて夢主はまた泣き始める。
 寒々しいこの世界の中で夢主のように愛に生きる人が、自分のような薄汚れた存在に身を任せて泣いてくれる……
 その喜びにリゾットは知らず知らずのうちに微笑んでいた。


「あぁ? 何時の間にそんな話になってんだぁ?」
 プロシュートは黒のスーツを着込み、隣に夢主を従わせてブティックへ来ている。リゾットに言われて夢主の服を新調するためだ。
「明日、明日だよ! もう嬉しくって!」
 にこにこと笑顔を振りまく相手にプロシュートは呆れ顔だ。
「まぁ、別にいいがよぉ……おい、それは止めろ。お前、仮にもボスに会うっていうのにそんなつまんねぇ格好するな」
 夢主の手の中にあった地味な服をサッと取り上げる。
「ボスなら朝に会ったよ。すごく爽やかで素敵だったなぁ……」
「ゲッ、もう会ってるのか? というかボス直々に来るか、普通?!」
 プロシュートは今度こそ呆れた。呆れ果てた。いくら無害そうな女とはいえ一応はスタンド使いなのに……ボスも周囲には気をつけているだろうがあまりに無防備ではないだろうか。
「ああ、早く明日にならないかな〜」
 夢主の心はすでに明日に向かって飛んで行っている。足が宙に浮いているようだ。
「なら、さっさとコレとコレに着替えろッ」
 プロシュートは自分が選んだ服を夢主に押しつけ、試着室に向けて背中を押し込んだ。
「わっ、もう押さないでっ」
 バタンと扉を閉めた後、次は靴とバッグに手を伸ばした。適当なものは彼の美意識が許さない。夢主の気取らない服装も仲間と買い出しに行くというのなら分かるが、上層部と顔合わせをするには場違いだ。
「プロシュート、これ胸が開きすぎだよ……他には無いの?」
「それくらいがいいだろ? 悩殺して来い」
「胸がないの知ってるでしょ。いいから他のっ」
 試着室の向こうから夢主がぷりぷりと怒っている。下着も全てプロシュートが新調したおかげで夢主の様々なサイズは彼にだだ漏れであった。
「ったく……今夜のワイン代はお前持ちだからなぁ」
「うん、何本でも奢る」
 結局、服が決まったのはそれから二時間後だ。
「ハン! いいじゃねぇか。お前の好みに合っているし、俺から見てもまぁまぁだ。合格だな」
 プロシュートの言葉を喜んだのは店員より着せ替え続けられた夢主の方だ。すでに疲れ切ってぐったりしている。
 そうしてワインと買った服と靴が入った紙袋を抱えて二人がアジトに帰れば、そこではすでに酒盛りが始まっているではないか。
「おかえりー!」
 リゾットの部屋の扉を開けた途端、飛びかかってきたメローネのハグをかわしきれず夢主はむぎゅうと抱きしめられてしまった。藻掻いていると後ろから入ってきたプロシュートによってメローネは思い切り殴られ、ぐぇっと呻いて床に転がされてしまった。
 疲れを隠さずプロシュートはソファーにどっかりと腰掛ける。荷物を置いた夢主もその隣に座って短い休憩を取る。
「なぁ、ボスはどうだった? どんな感じの奴?」
「なぁおい、それよりさっさと乾杯を始めようぜ」
 イルーゾォが聞いてくる後ろでホルマジオがグラスを持っている。ギアッチョ、ペッシにソルベとジェラート、リゾットはホルマジオの言葉を待たず、すでに飲み始めていた。
「あ、そうだ。おつまみも買ってきたよ」
 夢主が言えばそこにいた全員がおぉーと声を上げた。
 あとはもういつもの宴会コースだ。夢主もワインを注がれて一気に飲んでみる。すぐにいい気分になってきた。しかし二日酔いになるわけにはいかず、そこそこで切り上げて部屋へと逃げた。
 さっさとパジャマに着替えてベッドに入る。興奮でなかなか寝付けない……こんなに嬉しい夜は初めてだった。



 翌朝、夢主は誰に起こされるまでもなくスッと目が醒めた。
 朝食を作って身支度を調え、プロシュートが選んでくれた服を着る。化粧もしたし、朝ご飯の皿もすでに片付け終えた。
「時間通りだな」
 リゾットは夢主の意気込みに苦笑する。
「まだ少し早いけどね」
 服をプロシュートに任せたのは正解だったようだ。スッキリと品良くまとめられたその姿はいつも以上に可愛らしい。
「よく似合っている」
「ありがとう。あまり気合い入れすぎてもアレだから……」
 リゾットは指を伸ばし、頬にかかった髪を直して優しく撫でた。
「よかったな」
「うん……!」
 彼女の笑顔は幾度となく見てきたが、今日のは今までで一番だ。幸せそうな笑顔を見ているだけでリゾットの心も温かくなってしまった。

 いつしか約束の時間となり、夢主がアジト前の路地でそわそわと待っていると、通りの向こうから一台の車が近づいてきて目の前で止まった。
 全ての窓がスモークで覆われた黒のセダンから一人の男が姿を見せる。彼はスパッと切りそろえられた黒髪に特徴的な髪飾りを付け、一度見たら忘れられない点々模様の服を着込んでいた。
「君が夢主か? ボスに言われて迎えに来た」
 とても凛々しい声だ。ブチャラティが生きてる事に感動し、ジッと見続ける夢主に気を悪くした様子もなく、彼は後部座席のドアを開けてくれる。
「乗ってくれ」
「ありがとうございます」
 夢主は勧められるままに車内へ体を滑り込ませる。バタンと閉じられるドアの音を背後に聞きながら、夢主は乗り込んだ先に見知った相手が居て驚いてしまった。
「ジョルノ?」
 昨日、出会った彼は今日も同じ姿で夢主に微笑みかけてくる。
「あなたとパードレの再会の場面を見ておこうと思いまして」
 ボスという立場なのにこんな気軽に外へ出掛けてもいいのだろうか?
 しかも夢主が今まで居たところは暗殺チームのアジト前だ。狙撃や襲撃を受けたらどうするつもりなのか……夢主は心配するが、彼には真実に辿り着けない最強のスタンドがあるので恐れるものはないのだろう。
「とても可愛らしいですね。パードレに会うためですか?」
 昨日の夢主はシンプルな服にスニーカーという出で立ちであった。走ってきたらしく、髪と息を乱している様子にジョルノは夢主の本気を知ったのだ。
「あ、これは……ボスに会うのならちゃんとした服を着ろって言われて……昨日はあんなのでごめんなさい」
 年下だが立場は上なのだ。だからそれ相応の装いでいなければ確かに不敬であった。
「僕のために?」
 ジョルノは驚き、すぐに嬉しそうな笑顔になった。
「ありがとう。とても嬉しいです……よく似合ってますよ」
 夢主の片手を取るや、ジョルノはその手の甲へ唇を押しつけてきた。
「……ど、どうも……」
 ジョルノは半分日本人のはずだが、育ったところはイタリアだ。何の照れもなく、そんな事をやってのける彼が十五歳だなんて信じられない。ドキドキする夢主を置いて車は静かに走り出した。

 下町の細い路地を抜けて大通りへ出る。そのうちナポリの素晴らしい海を見下ろす高台に向けて車は走った。
 このあたりは高級住宅街だ。夢主がいたアジトとは比べものにならない閑静な道路を何台ものフェラーリが走り抜けていく。そのうち白い外壁に守られた立派すぎる館が見えてきて、車はその中へ滑るように入っていった。
 綺麗に手入れされた庭には噴水が備えられ、その水面には睡蓮がゆらゆらと浮かんで淡いピンク色の花を咲かせている。何世紀も前に建てられてから様々な人の手に渡り、その度に住みやすいよう改良されたのだろう。重厚な歴史を感じる玄関には最新式のドアホンが取り付けられていた。
「もしかして……ここ?」
「ええ、パードレが派手好きなのはあなたも知っているでしょう?」
 ジョルノは肩を竦めつつ夢主に手を差し伸べる。その手に自分のを重ねて夢主は車から降りた。
「わぁ……」
 建物自体が歴史的価値のあるものではないだろうか。吸血鬼が住むにはまさに雰囲気ピッタリだった。全体的にシックな造りの外観には細やかな装飾があちこちに施され、それを見ているだけでも楽しい。日の光を遮るように木々はひっそりと窓辺を覆っている。近くの機能的な高級マンションとは違った趣のこの館をDIOはどうやって手に入れたのだろう。
「どうぞ」
 ジョルノは重そうな玄関の扉を開いて夢主を招き入れてくれる。ブチャラティも後からついてきた。
 広い玄関ホールは何枚もの絵画が壁に飾られ、ゆったりとした廊下にはすべて絨毯が敷き詰められている。そこからいくつもの扉が見えたので部屋数はどれほどあるのか夢主には想像もつかない。
「ジョルノ、俺はここで待たせてもらおう」
 ブチャラティはそう言ってホール横の大きなソファーに腰掛けた。ジョルノは頷き、夢主の手を引く。
 今は昼間なので窓という窓にはカーテンが掛けられて目映い光を遮っている。そうでなくてもこの館を守るように木々達が葉が付いた枝をあちこちに伸ばしていた。
 ジョルノはホールから伸びる右側の廊下を夢主を連れて歩いていった。
「ここは昔、教会だったそうですよ」
「教会?」
「ボロボロだったのを住居用に改築して、オーナーが売りに出したそうです」
「でも……教会にDIOって……」
 DIOは吸血鬼なのだ。そんな彼が元とはいえ、教会に住むのはかなり妙な話であった。
「おかしな話ですよね」
 ジョルノはくすくすと笑って一番奥の突き当たりの部屋の扉を開けた。
 ナポリの海が見渡せる絶景がその窓の向こうに広がっている。いくつものソファーとテレビ、その横には小さなバーカウンターまであつらえたここはリビングのようだ。
「いい眺めでしょう?」
「わぁ……!」
 ジョルノは大きなガラス扉を開いた。海から爽やかな風が舞い込んでくる。その風に金色の髪をなびかせてジョルノは夢主に向き直った。
「昼ですからね、まだ寝ているのかもしれません」
 誰も人が住んでいないと思うほどに屋敷内は静かだ。
「来て下さい」
 ジョルノは再び夢主の手を引いて今来た廊下を戻っていく。あの海の見える素晴らしい風景を単に見せたかっただけらしい。夢主とジョルノが手を繋いで歩いていると、不意にホールの方からブチャラティの声が聞こえてきた。
「お邪魔しています」
「おや、あなたは……ジョルノ様のご友人でしたね。これは失礼どうぞこちらへ」
「いや、俺は……どうかお構いなく」
 ブチャラティの隣にいる人物に夢主は見覚えがあった。多少、服や髪型が変わってはいるが、その物腰と丁寧な態度からすぐに誰か分かった。
「テレンスさん!」
 声をかけられたテレンスが振り返ると、彼は目を見開いて息を止めた。
「テレンスさん……でしょう?」
 ジョルノの手から離れて夢主は懐かしい人物にむけて笑顔を見せる。十年以上の月日が流れているので彼ももはや三十代だ。昔の面影を残しつつ年を経たことで、以前にも増して執事に相応しい面構えになっていた。
「なっ……夢主様ッ!?」
 テレンスは駆け寄り夢主を頭の先からつま先まで何度も何度も目を往復させた。
 テレンスが最後に彼女を見たのはDIOのベッドの上で熱に伏せる姿だ。館への侵入者の対応に追われ、そのまま夢主とは別れてしまうことになったが……何故か相手は当時の若さを保っている。
「ああ、確かにあなただ……! 生きていて下さって本当に良かった!」
 テレンスは驚きに声を上げ、再び出会えた喜びから涙を流した。そっと夢主の手を握りしめれば彼女は確かな温もりをもっている。
「テレンスさん……」
 出会えた喜びに打ち震えているのは彼だけではない。夢主だって嬉しい。こうしてまたテレンスに会えるなど思ってもいなかった。
「よかったですね、テレンス」
「ジョルノ様! あなたが夢主様を見つけて下さったのですか?」
「まぁ、そういうことになるのでしょうね」
 滅多に表情を崩さない執事が涙を流して喜ぶ姿に驚きつつ、ジョルノは彼にも感情があったことを再認識する。
「ありがとうございます。私は……いえ、DIO様は長らく夢主様をお捜しになられていました。必ず会える日が来ると……」
「なかなか感動的だな」
「ええ」
 さめざめと泣き濡れるテレンスをジョルノとブチャラティが微笑みながら眺めている。
 そんな二人の目に、夢主の背後に控えた暗闇で赤い光が揺らめくのが映った。
「お待ち下さいDIO様! まだ執務が片付いておりません!」
 夢主の後ろから女の叫び声が聞こえてくる。その人がDIOの名を呼んだと理解した次の瞬間、誰かに背後からぐいっと抱きしめられていた。
 あまりに力強い抱擁を受けて一瞬、息が止まってしまうほどだ。
 身動ぐことすら出来ないほどしっかりと抱き込まれ、首筋に流れる血潮を確認するように高い鼻先が押しつけられる。一度、深く息を吸い、それから熱い吐息がそこを這った。
 夢主の右頬に暗い廊下でも輝いて見える蜂蜜色の髪がふわりと触れてくる。少しクセのあるそれは柔らかく、いつも獅子のたてがみのようだと思っていた。
 時が止まったかのようにどちらも動かず、どちらも言葉を発しなかった。
 そんな彼らをジョルノとブチャラティ、それからテレンスと部下の一人が驚きつつ成り行きを見ている。
 誰よりも先に口を開いたのは夢主だ。
「……DIO?」
 夢主が発した声に相手は大きな体を震わせる。
「DIO?」
 夢主は堪らなくなってもう一度名を呼んだ。
 首筋に顔を埋めていた相手は宝石のように赤い眼と人々を魅了する顔を上げた。
 少しだけ腕の力が緩まったので夢主はゆっくりと後ろを振り返った。
 見上げたそこに、黒のタートルネックに身を包んだDIOが存在した。別れた時と同じく、彼もまた変わらぬ姿だ。
「夢主……」
 名を呼ばれた瞬間、今度は夢主の方に震えが走った。
 全身が溶かされていくような甘い甘い声だった。
「夢主」
 長く仕えているテレンスや彼の息子のジョルノですらそんなDIOを見たことがない。
 今にも泣いてしまいそうなほど顔を歪め、しかし心から嬉しそうな深い笑みを浮かべている。
 壊れ物を扱うように夢主の頬を撫で、確かな温もりに安堵したようにほっと息をつく。
「DIO……!」
 花が咲き綻ぶようにゆっくりと笑顔になっていく夢主を、DIOは再びかき抱いて己の腕の中へ閉じこめた。




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