10


 サンドウィッチの容器に残った指紋と承太郎が見つけた血痕はやはり夢主のものだった。
 朝になって財団職員に周辺を調べてもらったところ、夢主のものと思われる血痕が公園の外に向かっていくつか落ちていたことも明らかになった。血を流しつつ、彼女はどこかへ消えたということになる。
 その結果を知った承太郎とジョセフ、露伴は顔を強張らせた。
「何てことだ……」
 額を押さえる露伴を前にして承太郎は真っ青な海を眺めた。
「あいつのスタンド能力は桁外れだ。それなのにここへ姿を現さないということは……能力を封じられている可能性がある」
 生きているのか、死んでいるのか……それすらも分からない。
 承太郎は暗い表情で海面を眺めつつ夢主の生死を思った。


「ふぁ……」
 大きなあくびが思わずこぼれた。夢主は次第に明けていく空を眺めてぐーっと背伸びをする。
 昼間、あれほど寝たはずなのに夜も同じくらいぐっすり眠れた。
(吉良が作ってくれたホットミルクのおかげかなぁ……)
 そのミルクに睡眠薬が混入されているとは思いもよらないようだ。
「起きたけど……どうしよう?」
 夢主が手を伸ばすとまた見えない写真のワクに触れた。あの父親がこの能力を解除しない限り夢主はこの部屋から出てトイレに行くことすら出来ない。仕方ないので布団の上でぼうっとしていると廊下から足音が聞こえてきた。
「おや、おはよう」
 すでにスーツに着替えた吉良が夢主の前に現れてそう挨拶した。
「お、おはようございます……」
「よく眠れたかい? 朝食を用意してある。それを食べたら包帯を巻き直してあげよう」
 また吉良に連れられて夢主は台所へ向かうことになった。昨夜と同じくご飯を食べ、口数少なく吉良の言うがままに夢主は従った。
「両手を出してごらん」
 テーブルの上には救急箱が置かれ、真新しい包帯とエタノールが用意されてある。包帯を紐解くと猫に引っ掻かれた傷跡がくっきりと残る夢主の手が姿を現した。
「ああ、少し治ってきているね」
 脱脂綿に含ませたエタノールがぴりりと傷口に染みた。夢主は小さな悲鳴を呑み込み少しだけ眉を寄せた。
「フフ、まだ染みるようだ。我慢しなくていいよ」
 吉良はつーっと指先で夢主の手の甲を撫でていく。眼を細めて肌の感触を味わう彼の横っ面をスタンドで殴り抜けたくなる。そんな気持ちを押さえ込みながら夢主はとにかく我慢した。
「今夜は夢主の能力を使って夕食を作ってもらおうと思う。いいかな?」
 拒否権などないくせに吉良はそんな確認を取ってくる。夢主はこくりと頷いた。
「よかった……夢主は何が食べたい? 食べ物でなくても構わないよ。何でも好きな物をいいなさい。私が帰りに買ってきてあげよう」
 好きな物と言われて夢主の頭に浮かんだのは……
「甘いお菓子……が食べたいです」
 甘い物不足でどうにかなりそうだ。それに糖分を取るのは頭の働きにもいいはずだ。この窮地をどうにかして乗り越えていかねばならないのだから。
「そうか。甘い物、ね……忘れずに買ってこよう」
 吉良はふっと微笑んだ。そんなささやかな願いを彼は叶えてくれるようだ。
「ところで一つ提案なんだが……」
 夢主の手のひらを未だに撫で回しながら吉良は端正な顔を近づけて囁きかけてくる。
「私のことは吉影と呼んでくれないだろうか」
 妙な提案に夢主は目を瞬かせた。
(それにどんな意味が……??)
 それでも返答を待っている彼に向けて夢主はそろそろと名前を口にする。
「吉影……さん?」
「もう一度」
「……吉影さん」
「んっん〜……いいね。実にいい……行ってらっしゃいも付けてくれるとさらにいい気分になれそうだ」
 夢主は困惑しつつも彼の望む言葉を発した。
「行ってらっしゃい、吉影さん」
 吉良はにこりと微笑んで、
「行ってくるよ。私が帰ってくるまで大人しく待っていなさい……夢主」
 その言葉を聞いて夢主の意識はカイロの館に飛んだ。
『その処女の身を抱いて大人しく待っていろ。私がこの世に立つ姿をその目で見届けるまで』
 別れ際に言われたDIOの言葉が脳裏にフラッシュバックしてくる。その途端、猛烈な寂しさと悲しみが心を塗りつぶしていった。
(会いたい)
 DIOを思いだして呆けてしまった夢主に吉良は手際よく包帯を巻いてやった。指先にキスをされても、夢主は何も言わず、ただその指をぼんやりと見ている。
 指に触れても叫び出さない夢主に満足したのか、吉良は最後に一撫でしてから両手を自由にした。
 彼が会社へ向かうために車に乗りこみ、夢主が家に一人残されても、長い間その場から動くことが出来なかった。



 相変わらず腕に爆弾を付けられている状態ではあったが、夢主が静かに従順に暮らすのを見て吉良は殺すことを延期してくれたようだ。もうしばらく生かしておこう、そう言われてすでに四日が過ぎた。
「夢主、次のページだ」
 畳の上に広がった新聞を吉良は露伴と同じく隅々まで目を通す。しかし決定的に違うのは夢主の手によって一ページずつ紙面をめくることを願うところだろう。手の動きをジッと見つめられる居心地の悪さといったら……。
(殺されないためだから仕方ない……)
 呪文のように繰り返して夢主は彼の言葉に従った。
 それ以外でも吉良はあれこれと夢主の手を要求してくる。
 爪切りを手伝うことになった時は緊張で震え、深爪しないように細心の注意を払って爪を切ってあげた。
(私、何してるんだろう……)
 時々、そう思ってもそれは間違いではないだろう。
 今だって畳の上でごろりと横になった吉良の頭を夢主は猫か子供にするように優しく撫でているのだから。
「全くうるさい連中だ……君のために早く帰りたがっている私をああしてまで引き止めたがるのだから……」
 会社の同僚に飲みに行かないかと誘われて、それを断るまでの一連のやりとりが煩わしい。密かに女性に人気のある吉良を利用して女子社員も飲みに誘いたかったのだろう。吉良から見ればそんな魂胆はすぐに見抜けてしまう。
「生身の体があるのもなかなかいいものだ」
 吉良は夢主と出会った時に殺した女の手首を枕にしながら呟く。
「手首だけでは料理の感想も聞けないし、こうしてもらうことも出来ないからね」
 ちらりと見上げてくる吉良に夢主はどんな顔をすればいいのか困ってしまった。
 気に入られたくはないが、死にたくもない。ただそれだけなのだから。
「それにしても……夢主はこの腕輪を決して外そうとしないね……何か理由でも?」
 夢主の手首を彩る金の腕輪を掴んで吉良は蛍光灯の明かりに照らした。
「文字が彫り込まれてある……D・I・O? ディオ、と読むのかなこれは」
 吉良の一言一言がナイフとなって胸に突き刺さってくるようだ。
「恋人からの贈り物かい? 何だか妬けてしまうな……」
 青白い嫉妬に燃える視線を受けながら夢主は首を横に振った。
「照れなくてもいいよ。大丈夫、たとえ手首だけになってもこの腕輪は外さないであげよう。それが私に出来るせめてものお礼だ」
 そんなお礼なんか欲しくもない……夢主は心の中で溜息を付いた。


 そうして静かながらも狂気に満ちた数日が過ぎ、夢主ももはや家の間取りを覚えてしまうほどこの家に馴染んできた。
 それでも逃げ出すチャンスは無く、昼夜問わずに深い眠りに落ちてしまうのを夢主は極度のストレスから来るものだと信じ込んでいる。そうでなくても吉良の父親は写真の中に閉じこめておくのが一番安心できるようで、夢主が起きる度、動く度にバシャバシャと写真に撮っては離れから出られないようにするのだ。
 そうして写真の中に監禁されながら、今日も夢主は吉良が朝食に混ぜた睡眠薬を飲んで深い眠りに落ちていた。
 それから一体どれくらいの時間が過ぎただろう。
「この小娘も始末しておくべきじゃが……チッ、時間がないの。仕方ない。吉影の望み通りこれだけは壊しておくか……」
 耳元で父親のそんな言葉が聞こえた気がした。それから体のどこかに痛みが走り夢主は夢の中で顔をしかめた。
 しばらくして、いつも静かなこの家のどこかでグヮシャンッと窓ガラスが割れるような音が辺りに響き渡る。
 目覚めるときはいつも頭が重く、意識が朦朧としているのだが、夢主は待ち望んでいたその音を聞いてゆっくりと体を起こした。
「承太郎……それに仗助くん……」
 康一に億泰も居るはずだ。夢主は怠い体を無理矢理に動かして縁側へと歩いた。
 よろめいた拍子にガンッと柱に頭を打ち付けてしまった。ものすごく痛くて頭が割れたかと思うほどだ。しかし、おかげで目は覚めてきた。ぼんやりとした視界に入ってきたものを見て夢主は息を止めた。
 自分の手首から血が滴っている。服はもちろん、畳の上も血まみれだ。
「え?」
 台所で使っていた包丁が畳に突き刺さっていた。口封じのためだろうか、吉良の父親にあれで手首を切り裂かれたらしい。
 しかし何より一番夢主の目を引いたのは包丁の横に転がった金色の腕輪だ。夢主の腕に付いていたはずのそれは見るも無惨にねじ切られ、無造作にうち捨てられているではないか。
 夢主は傷の痛みすら忘れてただ呆然とそれを眺めた。


 縁側から外へ走り出てきた承太郎たちはカラスに乗った吉良の父親を悔しそうに見上げる。あれほど遠く離れては康一のスタンドでも追いつく事が出来ないだろう。それから目を離した康一は庭を隔てた向かい側の離れに佇む夢主を発見した。
「ああー! 夢主さん!?」
 誰よりも早く夢主を見つけた康一だが、血まみれでぼんやりとしているその異様な様子に彼は度肝を抜かれたようだ。
「夢主! お前ッ!」
 承太郎が鬼のような形相でこちらに向かって走ってくる。仗助と億泰も慌てて駆けつけた。
「夢主さん!? どうしたんッスか! どこを怪我したんです!?」
 仗助はすぐにスタンドを出し、血を流す夢主の腕と猫に引っかかれた傷跡を瞬時に治した。
 それでも夢主はぽろりと涙をこぼす。体の傷よりも深く、心が真っ二つに引き裂かれて叫び声を上げている。
 四人の視線を痛いほど感じながら夢主は全てを無視した。
「どうしよう……これ、どうしたらいいの……?」
 ねじ切られた腕輪を手に取ろうとしても震えるばかりでそれ以上動かなくなった。
「夢主さん? それも治したいんッスか? なら俺が……」
「触らないでッ!!」
 仗助が再びスタンドを出すのを見て夢主は咄嗟に叫んでいた。涙を流しながら激しい怒りを含んだ目が仗助を鋭く射貫いている。初めて見るその表情に仗助は動きを止めた。
「誰も、何もしないで!」
 夢主の背後にスタンドが現れて驚く仗助の体に触れた。彼らの前で夢主のスタンドがクレイジー・ダイヤモンドに変化する。畳の上に転がった腕輪をスタンドが殴りつけるとバラバラだったそれらはピタリとくっつき歪んだ形も元に戻っていく。どこにも傷はなく再び完全な円を描いた腕輪はふわりと浮いて夢主の両腕に返ってきた。
「お前……ッ!」
 承太郎の驚いたような、呆れたような顔を見ながら夢主は血溜まりの中へ倒れ込んでいった。



 財団が用意した車から夢主がゆっくりと運ばれてくるのを露伴は苦虫を噛み潰したような顔で出迎えた。
 意識のない彼女を両腕に抱え上げているのは承太郎だ。彼の白いコートは所々が赤く染まっていてもはや新たに買い換えないと駄目だろう。承太郎には怪我をした様子もないことから、その血は夢主が流したものだということが露伴には分かった。
「この……クソッタレッ!」
 相手は意識がないと分かっていながらもそう叫ばずにはいられなかった。
 承太郎はそんな露伴の言動に驚き、そして苦笑した。
「僕が、どれだけ……!」
 露伴はその先の言葉をぐっと呑み込み興味深そうに見てくる承太郎の視線から逃げるように玄関の扉を開けた。
「……クソッ!」
 ガンッと家の壁を叩く露伴の後を承太郎は無言で着いていった。
 手当てするのと同時に誰かが着替えさせたのだろう。夢主はすでにパジャマ姿だ。彼女を二階の客間へ運びこみベッドの上へ静かに置く。夢主は死人のように昏々と眠り続けていた。
「どこで見つけたんです?」
「……殺人鬼の犯人、吉良の家だ」
 露伴に聞かれて承太郎は素直に答えた。
「……なッ!」
「記憶の中に吉良への手掛かりがあるかもしれない」
 驚きのあまり数秒固まっていた露伴はわずかに息を吐きながら頷いた。
『ヘブンズ・ドアー!』
 抵抗もなく夢主はすんなりと本にされてしまった。ぱらぱらとページが捲られ、夢主が公園で猫を助けた記憶を探り当てると承太郎はそこで指を止めて文字を読みふけった。
 吉良の殺害現場に居合わせたこと、脅されて家に監禁されたこと、承太郎たちが来るまでに感じた恐怖と嫌悪で乱れる夢主の心の全てを承太郎は目を背けることなく読んでいった。
 そして、それは隣にいた露伴も同じだ。吉良の異常なまでの手に対する執着に顔を歪ませ、夢主の手に触れキスまでした箇所では思わずそのページを破り捨ててしまいたくなった。
「手、だけか……それはよかったと言うべきだろう」
 承太郎の言わんとすることが露伴にも分かってカッと頭に血が上った。たとえ体を穢されていなくても、今、目の前に吉良が居たら露伴は迷わず殴りつけるだろう。
「もういいですか?」
「ああ……吉良に関する手掛かりはないようだな」
 本にされた夢主から顔を離す承太郎に露伴は再びスタンドを空中に出した。
『吉良吉影の事を全て忘れる。ここ数日は風邪を引いてずっと寝込んでいた。この文字は書き込んだ岸辺露伴にしか読むことが出来ない』
「これでいいですね? たとえ承太郎さんが反対しても僕はこの文字を消したりなんかしませんよ」
 怒りに燃える露伴の目を承太郎は静かに見つめ返した。
「俺もそうして欲しいと思っていたところだ。そのためにここへ連れ帰ったんだからな……ありがとう」
 承太郎はポンと露伴の肩を叩くと帽子の鍔を下げて礼を言った。


「あの……ホントにすみませんでした……」
 ベッドの上で夢主は深々と頭を下げた。それを露伴がムスッとした顔で見下ろしている。
「長いこと寝込んでたみたいで……夏風邪って怖いですね」
「ああ、全くだよ……君を看病したおかげで僕の仕事は目茶苦茶さ! どうしてくれる?!」
 露伴の怒りは本気ではない。もちろん演技だ。しかしここ数日の記憶を露伴によって書き換えられた夢主は身を縮ませて何度も頭を下げた。
「あわわ……本当にごめんなさいぃ!」
「フン! 謝るくらいなら風邪なんかひくな!」
 眉を下げた夢主は雨の中に放り出された野良猫のような表情で露伴を見つめてくる。
「そんな顔をしたって無駄だぜ。今日からしっかりこき使ってやるからな。覚悟しておけよッ!」
 夢主の頭をぐしゃぐしゃっと乱暴にかき回した後、露伴はそう言い捨てて部屋を出て行った。
「は、はーい……」
 乱された髪を整えながら夢主はベッドから起き上がる。
「参ったなぁ。風邪を引いちゃうなんて……」
 寝込んでいた時のことは曖昧でろくな記憶がない。それでも露伴の手厚い看護のおかげで、こうして元気になれたのだから感謝しておくべきだろう。
「夕飯は露伴の好きな物を作ってご機嫌を取っておこう……」
 夢主は彼に迷惑ばかり掛けて悪いなぁ、と思うと同時に、見捨てられなくて良かったと心から安堵するのだった。




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