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 七月に入った杜王町はこれから観光シーズンを迎える。海開きが行われた海岸線には、すでに遊びにやってきた若者達や親子連れで賑わっていた。
 気持ちのいい風が肌をすり抜け、きらきらと太陽を反射して輝く海はヘルメット越しからでもそれはそれは美しかった。
「ねぇ、どこまで行くのー?」
 バイクを運転する露伴に向けて夢主は大声で話しかけたが彼からの返事はない。仕方がないので空を覆う夏雲へと視線を戻した。
「今から海に行く。お前も手伝え」
 スケッチブックを抱えた露伴にそう言われたのが三十分前の話だ。夢主は草むしりをしていた手を止め、露伴の顔をぽかんと見返してしまった。
「……海?」
「ああ。早い時期に行っておかないと、そのうち観光客で一杯になるらしい。僕は一人でゆっくりスケッチしたいんだ」
「……私が行ってもいいの?」
 露伴は今、一人でと言わなかっただろうか?
「荷物持ちが必要なんだよ。分かったらさっさと用意してこい」
 ぷいっと顔を背けて露伴はガレージへ向かった。夢主は言われるまま用意して彼についてきたが……
(荷物ってスケッチブック二つと鉛筆だけ……?)
 それらが押し込められた鞄を夢主が持つことになった。そうして道が混むからとバイクで移動する二人の前に、真っ白な砂浜で人々が波と戯れる海水浴場が姿を現した。
「わぁ!」
 目映いばかりの光に満ちあふれたそこに思わず笑顔になる。
 この際、荷物持ちでも何でもいい。こんな素敵な場所に来れるのなら露伴の手伝いなんて楽なものだ。
 駐輪場にバイクを止め、夢主は荷物を片手に砂浜へ足を踏み入れた。熱を含んだ砂がサンダルの隙間から入ってくる。
「ああ、水着持ってくれば良かったなぁ……」
 ここにいる全員が水着姿だ。亀友の特設コーナーが色とりどりの可愛らしい水着で埋め尽くされていたことを思い出す。
「おいおい、何言ってるんだ。僕らは泳ぎに来たんじゃないぞ」
 露伴に後頭部を小突かれて夢主は肩を竦めた。
 サクサクと砂を踏みしめ、露伴は親子が砂遊びをする姿や浮き輪に乗って波間を漂う人などを絵に描き留めていく。
 背後からそれを眺めているのにも飽きて、夢主は始めて訪れた杜王海水浴場を少しばかり楽しむことに決めた。
「露伴、飲み物買ってくるねー」
 スケッチブックに集中する彼は夢主の方を見ずに片手だけを上げて応えた。
 財布の中にある小銭で夢主は露伴の飲み物と共に練乳といちごシロップがたっぷりとかかったかき氷を買い込んだ。それを歩きながら食べていると、どこかで見たことのある大柄な男性が白いコートを脱ぎ、その逞しい上腕を晒している場面に出くわした。
「……承太郎?」
 夢主が話しかけるとシャツの袖を捲り上げている承太郎がこちらを向いた。彼の手には何故かバケツが握られている。
「夢主か」
「……何してるの?」
「珍しいヒトデが生息しているのを発見してな……」
(ああ、そう言えばヒトデで論文書いてるんだっけ……)
「ヒトデ狩り?」
「まぁ、そんなところだ」
 承太郎はズボンの裾が海水で濡れるのも構わずそのまま海へ入っていく。男気あふれるその姿にしばし呆けていた夢主も意識を取り戻した。
「……手伝いましょうか?」
 夢主がそう言うと承太郎はちらりとこちらを見た。
「この前、ケーキおごってもらったし……それにコートと傘まで借りて、露伴の家まで送ってもらったから……そのお礼をしたいなって……」
 露伴が書き込んだとおり、ここ数日のことは彼女の中で無かったことになっているようだ。あの雨に降られてカフェで雨宿りした時から彼女の時間は止まっているのだろう。
「……そうか。なら頼む」
 夢主にバケツを押しつけて、承太郎は海の中へザバザバと入っていった。
「……」
 その姿を見た夢主も膝まで海水に浸かった。ぬるいような、冷たいような、曖昧な水温だ。承太郎の大きくて広い背中を眩しいものを見るように鑑賞してから、夢主はかき氷を急いで食べつつ彼が探しているヒトデを探すことにした。
 そのうちバケツには海草と共に名も知らないヒトデで一杯になった。承太郎は太陽の下で満足そうに微笑んでいる。
「……承太郎はどうして海洋冒険家になろうと思ったの? やっぱりDIOを倒す旅の中で海に潜ったりしたから興味が湧いたの?」
 バケツと空になったかき氷の容器を手に夢主はそんなことを聞いてみる。
「俺たちの旅を知っているのか?」
「うん……承太郎たちがどこにいて何をしているか、ホル・ホース達が報告に来てたから」
 館を訪れる部下達の話を耳に挟んでは近づいてくる彼らに怯える毎日だった。
「ホル・ホースか……久しぶりに聞いたな」
 フッと笑う承太郎に夢主は目が釘付けられていく。あれほど怖かった承太郎なのに……今ではこうして近くにいても震えることはない。
(ケーキと紅茶でほだされちゃったのかな……)
 現金な自分の性格に夢主は苦笑した。
「まぁ、そんな感じだ」
 承太郎はヒトデが入ったバケツを夢主の手から取り上げ、目元だけで笑って見せた。
「……あんたら何やってんだ」
 服のまま海に浸かる二人の元へスケッチブックを持った露伴が姿を見せた。彼だって他の客から見たら同じように言われるだろう。
「承太郎に付き合ってヒトデ狩りしてたの」
「はぁ?」
 眉を寄せる露伴に夢主はクスクス笑って海から砂浜に戻った。
「スケッチはもう終わり?」
「ああ。描きたいものは全部描いた。飲み物を買いに行ったはずの君を僕はこのクソ暑い中、喉を渇かせてずっと待っていたんだぜ?」
「あ、ごめんなさい!」
「冷えてないじゃないか……もう一回、買い直してこい!」
「はいぃ」
 露伴に怒られて夢主は行列が出来る海の家へ走っていった。取り残されたこの場にそぐわない二人を、周りの客は遠巻きに避けて歩いている。
「……あれ以来、奴のことについて話さないか?」
 奴、とは吉良吉影のことだ。殺人鬼の彼は承太郎たちの追跡をかいくぐり、辻のスタンド能力で別人となった。今もこの町のどこかに住み続けている。
「ええ。僕があの文章を書き換えない限りずっと忘れたままですよ」
「……そうか」
「僕たちが吉良を追っている事を彼女は知らない。この事件に関わる必要はない。それでいいでしょう?」
「ああ」
 承太郎もあれほどの経験をした彼女を再びこの事件に巻き込む気はなかった。ただでさえ色々と厄介な存在なのだ。スタンドとは関係ないところで生きていて欲しいと思う。
(あいつの中でDIOはまだ生きている、か……)
 花京院の言葉は本当のようだった。承太郎はあの腕輪に執着する夢主の燃えるような目を見ている。怒りと絶望、そして安堵を一瞬の間で見せた彼女は今やすべてを忘れていつもの日常に戻ってきた。
「花京院が夢主を迎えに来るまで、この事件から遠ざけておく」
 その言葉に目の前の露伴がムスッとした表情に変化した。色恋沙汰には疎い承太郎ではあるが、露伴のその顔と今までの言動で何かしら悟ったようだ。
「……悪いな」
 いずれは自分たちと共に夢主もこの町を去っていく。
 承太郎から少し困ったように言われて、露伴はますます顔を歪めた。



 夢主が買い物から帰宅すると露伴の家が消防車によって取り囲まれていた。
 サイレンの音がうるさいなぁとは思っていたが、まさか住み込み先の家が火事になるなんて……
 屋根まで真っ黒に焦げた見るも無惨な邸宅を夢主は口を開いたまま見上げるしかなかった。
「どうしたの、これ!?」
 気を取り直した夢主は消防署員に事情を説明している露伴のところへ飛び込んでいった。
「仗助だよ……あのクソッタレの、生意気な、ムカツク奴のせいだよッ!」
 ギリギリと歯を噛みながら露伴は怒りの形相で叫んだ。
「ああ……」
 イカサマを仕掛けた仗助とチンチロリンをしたらしい。勝負に熱中するあまり家が火事になるまで気付かなかった彼らも彼らだ。
「思い出すだけでも腹が立つ! クソッ! 見ろよこの扉! それにこの家具の残骸を……ッ!」
 250万もする家具がもはや消し炭になっている。怒り狂う露伴から詳しい事情は聞き出せないし、放火の疑いはないようなので消防隊員たちはそそくさと帰っていく。
 その場には最悪なまでに機嫌の悪い露伴と夢主だけが取り残された。庭側の部屋からは焼けこげた匂いとすきま風が容赦なく吹き付けてくる。これが冬でなくてよかったと感謝すべきだろう。
「露伴、とにかく落ち着いて……えっと、お酒でも飲む?」
 嫌なことは酒で忘れる、それが一番だ。強張った笑顔を浮かべる夢主を露伴はジロリと見た。
「言うからには君も付き合うんだろうな? 全部持ってこいよ」
「え、ええ〜……」
 キッチンは無事だったようで以前のままの姿だった。夢主は大きな冷蔵庫の中に押し込められた酒類を片っ端から手にとって、いくつものグラスと共に露伴が待つリビングへ戻った。
「でもまぁ……仕事場が無事だったからよかったね」
 夢主が置いたビールのプルタブを開け、露伴は一気に傾けた。
「当たり前だ! 仕事場まで火事だったら……あのクソガキ、どうしてやろうか!」
「わ、わかったから、ほら飲んで飲んで!」
 もの凄い剣幕で怒る露伴に夢主は次々と酒を勧めた。勧めるばかりで自分は一切手を付けない。おつまみになるものを作って露伴に食べさせ、イカサマに対する愚痴をうんうんと頷いて聞いてやった。
「でも、ちょっと見たかったなぁ」
 仗助がイカサマをして焦りまくる顔を眺めてみたかった。そう言うと、
「何だと?」
 と露伴が眉をつり上げるので夢主は慌ててグラスに焼酎を注いだ。それをぐいぐいと煽っていく露伴が夢主は次第に心配になってくる。
「あの……飲むのはいいけれど、仕事とか……大丈夫なんだよね?」
 露伴は締め切りを守る漫画家だ。一度として遅れたことはなく、いつも何週間か先までの原稿を仕上げてある。夢主が心配する必要はないと分かっていても、日本中で露伴の漫画の続きを待っているファンがいることを忘れてはいけない。
「フン、君は僕を誰だと思っている?」
 予想通りの返事に夢主はほっと息をついた。
「酒を飲んでもこのムカツキは消えやしない……」
 ぶちぶちと文句を言っていた露伴がふと真顔になった。
「庭先に置いたテーブルからサイコロを持ってきてくれ」
「え? 何で?」
「いいから持ってこいよ」
 露伴に言われて、夢主は仗助がすり替え、床に落としていった普通のサイコロを手に戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 テーブルの上にカランと落ちるそれを見て露伴は
「気分直しに、君とチンチロリンをする」
 と言った。
「ええぇ!? い、嫌だっ!」
「うるさいな、いいから付き合えよ。誰も金を巻き上げるなんて言ってないだろ」
 首を横に振る夢主を睨み付け、露伴は止める暇を与えずに空いたグラスの中にサイコロを放り入れた。
 コロンと転がって「2」「3」「5」の目が出た。ピンゾロでもオーメンでもないごく普通の目だ。
「ほら、次は君だ」
「嫌だって言ってるのに……」
「振るだけの簡単な作業だろ? さっさとやれよ」
「もぅ……」
 夢主は渋々とサイコロをグラスから取り出し、からころと手の中で何度か振って再びグラスに放った。
「……」
「……」
 シィーンとその場が静まりかえったのは夢主が振ったサイコロの目がピンゾロと呼ばれる三つとも「1」の数字をはじき出したからだった。
「お、お前……ッ!!」
「ち、違うッ! イカサマなんてしてないよ!」
 ギロリと睨まれて夢主は竦み上がった。ぶるぶると首を横に振っても今の露伴には通用しないだろう。
「もう一回振って見せろッ!」
「えー……もうやだぁ……」
 そう言っても相手は聞き入れてくれず、夢主は何度も何度もサイコロを振る羽目になった。何度かピンゾロ、オーメン、二倍もらえる目を出した時には本気で生きた心地がしなかった。
「お前ッ! 本当にイカサマしていないんだろうな?!」
「本当にしてないってば!」
 露伴はサイコロを歯で噛み、ついには真っ二つに割って中身を確認する。
「サイコロに仕掛けはない……高度なイカサマの技術を持っているようにも見えないし……」
 ジロジロと見られて夢主は膨れっ面を浮かべた。
「そんなことするわけないでしょっ」
「フン……よし、今度はジャンケンだ」
「えぇー!?」
「ジャンケンならいいだろう。いくぞッ!」
「ちょっと……もう! 露伴、飲み過ぎ!」
 夢主には露伴がすでに酔っぱらっているようにしか思えなかった。仗助のイカサマが見抜けなかったのがあまりに悔しいのだろう。だからこうして鬱憤を晴らそうとしているのだろうが……
「な、なにィ!?」
 露伴はパーを出した自分の手をぶるぶるさせながら夢主のチョキを睨み付けた。
 五回連続で負けるなんて偶然にしては出来過ぎている。
「もう一度だ……クソッ! 君にまで馬鹿にされるのはこの僕のプライドが許さない!」
「馬鹿にしてないってばッ! もう嫌だぁ……!」
「いいからしろよ! この僕が頭を下げて言ってるんだぜ!」
 どこが!? と叫びたくなるほど露伴の態度は上から目線だった。
「じゃあ、もうこれで最後にしてよ! これで終わり!」
「よし、いいだろう! 僕は自分の運を乗り越えてみせるッ!」
 ギラギラとした目でそう宣言されて夢主は頭を抱えたくなってきた。何が哀しくて露伴とジャンケン勝負をしなければならないのだろう。色々と面倒になってきた夢主は、はぁと溜息を付いて言い放った。
「私、グーしか出さない」
「! こ、この僕にプレッシャーをかける気かッ!?」
「信じる、信じないは露伴次第でしょ?」
 しんと部屋が静まりかえり、そして二人同時に
「ジャンケン……ほいッ!」
 と叫んだ。




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