02


 頬に感じる潮風と波の音、それから軽やかにキーボードを叩く音で目が覚めた。
「……?」
 一瞬、どこに居るのか分からなくて混乱するが、すぐに結婚式とそれに続く旅行の真っ最中だということに夢主は気付く。そして次にふがいない己の姿と、それとは正反対にすべて整った承太郎の姿に思わず手で顔を覆い隠した。
「ようやく起きたみてぇだな」
 笑いを含んだ承太郎の声にぎくりとする。酒に強い彼は昨夜の失態をどう感じただろう……覆った視界をそっと開いてみると、海のように穏やかで太陽よりも辺りを眩しく照らす微笑みと出会ってしまった。
「ごめんなさい、承太郎。みっともなくて……」
「そうか? いい寝顔だったぜ」
「もう……承太郎はいつから起きてるの?」
「8時前には起きていたな」
 ノートパソコンを閉じて書斎机から夢主の横へ移動してきた彼は、乱れきった髪に手を伸ばす。昨夜、あれほど美しく整えられていた髪型はそこに見当たらない。彼女もそれに気付いたのだろう、パッと手で押さえてベッドから飛び起きた。
「やだ、見ちゃダメ……忘れて!」
 バスルームに飛び込んでいくその後ろ姿に、承太郎は堪えきれず小さく吹き出した。
 彼の忍び笑いをドアで遮った夢主は、髪に飾った小物を急いで取り外し大きな洗面台に並べていく。緩い胸紐を解いて下着と共に床に落とすと、青い海がガラスの向こうに広がるバスタブへ身を潜めた。
 降り注ぐシャワーで悪酔いと恥を落とし、船に持ち込んだ爽やかな色合いの服に着替えてから改めて承太郎の前に姿を見せる。
「……おはよう、承太郎」
「ああ」
 リビングのソファーに腰掛けた承太郎はそれ以上何も言わなかった。先ほどのことは見なかった事にしてくれるらしい。夢主はホッとしつつ、ソファーにまとめ置かれた着物を手早く畳み始める。
「朝ご飯どうしようか? 今から行っても大丈夫かな?」
「うるさいのに捕まると厄介だ」
「ふふ、それってポルナレフさんのこと? 面白いよね、あの人」
「愉快なのは髪型だけにしてほしいがな……ちょいと遅いかもしれんが部屋で取ればいい」
 ルームサービス専用の注文用紙とペンを持った承太郎は、着物の皺を伸ばしている夢主を手招く。
「どれにする? 色々あるぜ」
 パンの種類に卵やウィンナーの焼き具合、それらに合わせる飲み物まで、自分好みに選べるよう様々な選択肢が記されてあった。近づいた夢主が承太郎の手元を覗き込んだ瞬間、頬に不意打ちのキスが降ってきた。
「!」
「どうした? 選べよ」
「……あ、うん……」
 持たされたペンで食べたいものにチェックを入れる。その度に首筋や髪に口付けが落とされて、ペン先は哀れなほどに乱れてしまった。
「承太郎っ……」
 くすぐったくて甘すぎる刺激に相手を見つめると、悪戯っぽく微笑み返された。
「随分と待たされたんだ。これくらいはいいだろう」
 見上げた先で切なそうな緑の目がこちらを射貫いてくる。厚く官能的な唇が押しつけられると、喜びのあまり胸が締め付けられてしまった。
「ん……」
 啄むような優しいキスに思わず涙が込み上げてくる。それを目を強く閉じて押し戻そうと足掻いてみるが、承太郎はもう気付いてしまったらしい。
「……泣くな」
 大好きな承太郎とキスをするだけでそうなってしまう自身が恨めしい。それは感涙の涙であって、決して嫌だからではない。
「違うの、これは……嬉しいからで」
「分かってる」
 最初は驚き焦ったが、今ではもう誤解することはない。それでも承太郎が真剣な目で探るように見つめてしまうのは理由があった。
「痛くはしねぇよ」
 ふんわりと唇を甘噛みして、ゆっくりと舌を差し入れる。少しだけ触れあった先端にお互いが目を開いて相手を見つめた。
「あ……」
 夢主の目に映るのは雄偉な容貌で真っ直ぐに見つめてくる承太郎だ。一方、反対側の彼が見たのは涙を湛えてほんのりと頬を染めた夢主の姿だ。彼女が慌てて目を閉じると、押し出された涙が頬を伝って承太郎の指に流れ落ちてくる。
「……」
 もう一度だけ、唇にキスをしてから顔を戻した承太郎は、指先に残った滴を先ほどまで触れあわせていた舌で舐め取った。男は女の泣き顔に興奮するとはよく言うが、承太郎の場合、夢主の涙を見て感じるのは深い後悔の念だ。
「すまん」
 謝罪の言葉に相手が勢いよく首を横に振り、胸に縋り付いてくるのを抱きしめる。
「私こそごめんなさい。あの時に泣いてしまったから……」
「いや、俺が悪い」
 長年の想いが通じ合い、ジョセフたちにもバレて晴れて恋人同士になった数日後。
 色々と我慢の限界に達し、もちろん合意の上で交わろうとした時のことだ。今思えば相当に焦っていたのだろう。初めての行為に緊張する相手を労ってやれなかったのだから。
 羞恥と痛みに泣き崩れた彼女を今と同じように抱きしめて、胸に突き立つ罪悪感に承太郎は青くなってしまった。
「承太郎が好き。大好きなの」
 そこだけは間違えないように目を見て想いを伝える。承太郎は分かっていると言うように微笑み、何度も頭を撫でて夢主の気持ちを汲み取ってくれた。
「時間をかけて慣れていけばいい」
 彼女に、というよりむしろ自分に言い聞かせるように呟いて、まだ残っていた涙を拭ってやる。初手は失敗したが、それは今からいくらでもやり直せばいい。愛しい人のためなら承太郎は本当に何でもするつもりだ。
「俺たちに必要なのはそれだ。だから、お互いに訓練の必要がある」
「……訓練?」
 不思議そうに見上げてくる夢主に承太郎は真顔で答える。
「ああ。俺のをブチ込んでも痛くねぇように、むしろ悦んで咥え込めるよう徹底的に快楽を教え込む訓練だ」
 直球すぎる言葉に固まった夢主を抱きしめつつ、承太郎はふと思い出したかのように注文用紙を引き寄せて素早くペンを走らせた。



 夜ともなれば百万ドルの夜景が眺める香港の寄港地に着いたのは、太陽が昇りきる前のことだった。花京院おすすめのピータンと豚肉のお粥を朝食に取った一行は、極彩色のタイガーバームガーデンやショッピングに足を伸ばし、夕刻からはジョセフの馴染みの店である水宝酒家で食事を取ることになった。
「何度見ても漢字は難しいわねぇ。ジョセフ、これが何か分かる?」
「ん〜? どれどれ……これはエビ、こっちはアヒルの料理じゃな。これにするか」
 メニューに悩むスージーQにジョセフが代わりに注文する。
「へぇ〜スゲーな。俺のもついでに注文してくれよ」
 同じく漢字の読めないポルナレフに頼まれて、ジョセフは得意顔でフカヒレとキノコ料理をオーダーした。
「俺らは無難にコース料理を頼む」
「ほう、では俺もそうしておこう」
「僕も同じく」
 承太郎の意見にアヴドゥルと花京院が乗った。
「香港に来るのが初めてならそれがいいじゃろう」
 メニューを閉じたジョセフは運ばれてきた茶を見てニヤリと笑う。
「お前たちにも教えておこう。香港でお茶のおかわりが欲しい時は……」
「茶瓶の蓋をずらしておくんだろ」
「何じゃ、それは知っておるのか」
「さっき花京院から聞いた」
 ジョセフの拗ねた顔を承太郎は無視する。
「すみません、ジョースターさん。でもそれを知っているとは流石ですね」
「いやいや、花京院も勉強熱心で素晴らしい。おい、承太郎。お前も少しは異文化に興味を持ったらどうじゃ?」
「悪いな、ジジイ。俺の関心は海の研究にだけ向けられてるんでな」
 承太郎の返答にジョセフは大げさに肩を竦める。幼い頃からあちこち連れ回したが、赴いた土地よりもその間を隔てる海の方に求知心が働いたらしい。
「おっと嘘はいけねぇな、承太郎。今はそれに付け加えるべき相手がいるだろーが」
 ポルナレフがニヤニヤ笑いながら承太郎と夢主の二人を指差した瞬間、彼の足がぎゅっと踏みつけられた。
「痛ってぇ! おい、花京院っ!」
「煩いぞ、いい大人が店で騒ぐな。……それにほら、君が頼んだ料理が来たようだ」
 花京院の言葉通り、ポルナレフとスージーQの前へ次々に料理皿が運ばれてくる。注文したはずのエビやフカヒレはどこかへ消えて、代わりにカエルの丸焼きと貝料理がテーブルに並べられた。
「わははは! ま、いいじゃあないか! 何を注文しても結構美味いものよ」
「それもそうね。あら、本当に美味しい!」
 スージーQが危なっかしい手つきで箸を使って貝の身の部分を食べる。新鮮で海の旨味がたっぷりつまったそれに笑顔を浮かべた。
「コースを頼んで正解だったぜ」
 ぽつりと呟く承太郎の声に、側にいた夢主と花京院だけがくすくすと笑った。


 お喋りに花を咲かせ、お茶を何杯もおかわりし、時間を掛けてゆっくりと食事を終えた頃にはもう月が昇り始めていた。人々が作り出した明るい光の中をタクシーで移動すると、決められた乗船時間より少し早く帰船する事が出来た。乗降口は香港を楽しんできた客であふれ、荷物を置きに部屋へ戻る者やそのままバーや最上デッキから景色を眺めようと移動する人々で混雑している。
「承太郎と何かあった?」
 そんな中、誰にも聞こえないよう耳元へ囁きかけてきたのは花京院だ。夢主は驚いた顔で彼を振り仰ぐ。
「何となくそう見えたから。違ってたらごめんよ」
「ううん……大丈夫。ありがとう、花京院」
 長く承太郎の親友で、人の機微に聡い彼には分かってしまうのだろうか。それでも、まさか承太郎に告げられたあの内容を彼に話すことは出来ず、夢主はただ気遣ってくれたことに感謝した。
「もう充分に知ってると思うけど、承太郎は感情を表に出すのが下手なんだ。この僕が言えた事じゃあないけどね。誤解しないでやってくれ」
 そう言って他の乗客にぶつかりそうだった夢主を引き寄せ、そのまま少し離れてしまった承太郎の方へ誘導した。
「僕はこのあとポルナレフたちとショーを見てくるよ。本を読むオランウータンと愉快な兄弟のコメディだが気になったら君たちも来るといい」
 花京院は承太郎の返事を待たず、人混みの中でも目立つ髪を見つけてそちらに移動する。
「私たちはどうする、ジョセフ?」
「そうじゃのう……マジックショーはどうじゃ? 水に沈めた冷蔵庫や燃える車から脱出する男が見れるぞ」
「過激で面白そうね。それにしましょ」
「よし。先に行くぞ、承太郎」
「夢主ちゃんもまた後でね」
 ひらひらと手を振り、花京院たちとは別のホールに向かうジョースター夫妻を見送って、夢主は隣に佇む承太郎を窺った。彼は祖父母に視線を向けたままぽつりと呟く。
「……夜景でも見るか」
 コメディやマジックではなくまさかの夜景。意外な言葉に夢主が驚いていると、自分でも少しは照れくさかったのか帽子の鍔先をぐいっと下げて視線を遮ってしまった。
「どうするんだ?」
 NOというべき理由もない。夢主は嬉しそうに二つ返事で頷いて、繋いできた承太郎の手を優しく握り返した。


 百万ドルの夜景と謳われるその景色は、写真で見る以上に見事なものだ。船が出港するまでまだ少し時間が残されているので、夜景を見て楽しもうとする乗客はきっとかなり多いだろう。デッキから、屋外のプールから、もちろんレストランでも人々はそれを目当てに来るに違いない。
「……」
 だからそれを避けるために承太郎がここを選んだのは間違いではない。たとえ、景色ではなく彼の顔ばかりを眺めているとしても。
「承太郎……」
「どうした? 見えているだろ?」
 指を伸ばして泡のついた夢主の顔を手で拭うと、相手はますます体を縮めて浴槽のふちへ縋り付いてしまった。温かいお湯が循環する泡風呂に二人は身を浸しながら会話する。
「確かに夜景は見えてるけど……でも、まさかお風呂でなんて」
 外よりも目の前の景色の方がずっと素晴らしい。逞しい上半身をさらけだした承太郎はあまりに格好良く、濡れた髪から水滴が落ちるたびに男の色気を周囲に漂わせていた。
「俺はいい場所だと思ったんだがな……」
 夜景が見れて恥じらう夢主の姿も見ることが出来る。承太郎は少し困ったような表情を向けて、戸惑う彼女を胸元へ引き寄せ視線を合わせた。
「嫌か?」
 とろけてしまいそうな渋い声に何も言い返せない。
 どうしてそんなに男前なのか、夜景などもはや霞んでしまった相手の破壊力にただ身を預けるばかりだ。
「い、いやじゃ……ないです……」
 途切れ途切れになる夢主の声をどう思ったのか、承太郎はじっと見つめてくる。
「俺のことがまだ怖いか? もう不良は卒業したつもりだが……」
 高校の入学式の時から承太郎は際だっていた。誰よりも背が高く、誰よりも男前なので悪目立ちすることになったのだろう。何度も上級生から喧嘩を吹っ掛けられているのを見たことがある。拳と血が飛び散る中、常に勝利を収めていたのが承太郎だ。先生に怒鳴られている時でも悪びれた様子は見せなかったのに、夢主と目が合った時だけは困ったように眉と帽子を下げて、聞いてもいない言い訳を聞かされることになった。
「確かに昔は怖かったけど、女性には優しいって知ったから」
「俺は別に……すべての女に優しい訳じゃあねぇ。言っておくが、ポルナレフとは違うからな」
「ふふ……分かってるよ」
 泡まみれの承太郎の胸へ夢主はそっと頬を寄せる。
 多くの女学生と同じく承太郎に恋をして五年が経つ。目で追う内に花京院とも仲良くなった。この先もずっと憧れの人を眺め続けるのだと思っていた矢先に告白されたのだ。夫婦以前に恋人としても日が浅い自分たちに必要なのは、確かに慣れることなのかもしれない。
「私が泣いても承太郎は気にしないでね。痛いのは最初だけっていうし」
「いや……、好きな女だけは泣かせたくねぇ」
 強い口調で放たれた一言は思った以上に浴室に響いて二人は黙り込む。
 しばらくしてお互いに照れた顔をそろそろと見合わせて微笑み合うと、どちらともなく顔を近付けていった。
「……ん」
 柔らかな唇に触れて何度も押しつける。幸せな気持ちが夢主の中に込み上げてきて、また目蓋の奥が熱くなった。少しでも気を逸らそうと瞬きを繰り返せば、承太郎の目がこちらを見ていることに気付く。
「……っ」
 慌てて目を閉じると同時に舌が潜り込んでくる。肉感的なそれに夢主の舌が絡め取られ、強く吸われてしまった。甘く痺れるような刺激が腰の辺りに広がって、堪えきれなかった声が漏れた。
「あっ……ん、ん……」
 ざらついた表面を舐められ、優しく噛まれてまた触れ合わせる。隙間なく唇を覆われるとくぐもった声がその中で響く。蒸気と熱い吐息が混じり合う中、怖じけた夢主が少しだけ顔を離そうとすると後頭部に回った承太郎の手がそれを阻んできた。
「は……ぁっ、ん……ん……」
 舐めて触れて、啄まれる深い口付けに頭の奥がじぃんとする。何かに縋りたく思っても、相手の首へ腕を回すなんてそんな大胆なことは出来ない。ためらっている間に承太郎の顔が離れてしまった。
「ぁ……」
 名残惜しさに切ない声が漏れ、同時に夢主の目尻から涙がこぼれ落ちる。それを見たくないと言った彼の表情は真剣そのものだ。
 夢主は慌ててお湯で顔を拭い、涙もろい自身を初めて情けないと思った。
「えっと……あの……、煙草はもう吸わないの?」
 続く沈黙に耐えきれなかった彼女は、必死に探し出した質問をしてみる。
「……ああ」
 初めてした時のような苦いキスとは違って、どこにもその匂いが無いことに気付いたらしい。学生の頃は反発心で何箱も開けていたが、今はもうそんな気にはなれない。承太郎は柔らかくいい匂いのする夢主を腕の中に閉じ込めて目を閉じる。
「長生きして欲しい奴が側にいるからな」
 すべてを言葉にするのは難しい。それでも、この熱くうねる気持ちだけは伝えたい。
「私……、悪い承太郎も好きだったよ」
 いつしか香港は遠くなって、あれほど輝いていた明かりも波の向こうにぼんやりと見えるだけになっている。浴槽の中の二人はそれに気付くことなく、もう一度だけ最初からのキスをやり直した。



 ゴミひとつ無い美しいシンガポールの港街を船上から眺める夢主の前に、冷やされたココナッツジュースが差し出された。
「テリマカシ」
 マレー語でありがとうと言うと、
「サマサマ」
 どういたしまして、と返ってきた。ラフな装いをしたアヴドゥルに誘われて、ウォータースライダー横に置かれたデッキチェアに二人は腰掛ける。
「一人とは珍しい。承太郎はどうした?」
「部屋でお仕事中です。邪魔したらいけないと思って出て来ました」
 夢主はアヴドゥルの隣の椅子に腰を下ろし、ココナッツへ直に差し込まれたストローに口を付ける。甘く爽やかな果汁に笑顔になった。
「美味しい! あとで承太郎に差し入れてみようかな」
「それがいい。仕事で疲れた時は甘いのが一番だ。きっと喜ぶだろう」
「おーい、そこの二人ッ!」
 二人の会話に割り込んできたのはサーファー姿のジョセフだ。彼はマイボードを抱えてニッと笑いかけてくる。
「何じゃあ、服なんか着おって!」
「ジョースターさん……相変わらずお若いですね。とても六十代には見えませんよ」
「ふふん、そうじゃろうな。だが若さの秘訣は秘密じゃぞ!」
 がははっと笑って二人をプールの奥へ手招く。そこにはジェット水流が作り出す人工の波でサーフィンが楽しめる専用の場所があった。
「ありきたりで退屈になった船旅中に、わしが思いついた画期的なプールじゃ!」
 二人ともそこで見ておれ! と叫ぶと、サーフボードと共に激しい水流の上に立った。
「おお〜! じいさんスゲー!」
「きゃあ、格好いい!」
 周囲からの声援を笑顔で受け止めたジョセフは、波を上手く乗りこなしてその確かな腕前を見せつける。
「毎朝、海で練習した甲斐があったわね〜」
 夢主とアヴドゥルの間に姿を見せたのはスージーQだ。彼女は夫の楽しそうな顔を眺めて微笑んでいる。
「すごい……」
「ジョースターさんにこんな特技があったとは」
 驚き呆気にとられている夢主とアヴドゥルの前で、ジョセフは危なげなくターンをして観衆を沸かせた。
「あら二人とも水着は持ってこなかったの? この時期のプールは最高よ。泳ぐのが嫌ならジャグジーだってあるわ」
 スージーQの言葉に二人は顔を見合わせる。
「ほらほら、あるなら着替えてきなさいな。楽しまなきゃダメじゃない」
「は、はぁ……分かりました」
 真面目な二人はスージーQの言葉に従って部屋に戻ることになった。
「どうもジョースター夫人には頭が上がらないな……」
「きっと誰でもそうですよ。承太郎だって、おばあちゃんには敵わないって言ってましたから」
「そうか……それなら仕方がない」
 アヴドゥルはクッと笑って先に夢主をエレベーターに乗せる。広い船内図が描かれた掲示板を背に、二人は客室がある層まで戻ってきた。
「どうせなら仲間たちも巻き込んでしまおう。私は花京院とポルナレフを誘ってみる。君も承太郎を誘ってプールに来るといい」
「でも……承太郎は嫌がらないでしょうか?」
 彼は騒がれるのが嫌いだし、ジョセフに注目する大勢の観衆を見るのも鬱陶しく思うかもしれない。
「フム、あり得るな。だが、これに関しては占うまでもない事だ」
「?」
 なぜそこまで言い切れるのか、不思議そうな表情の夢主にアヴドゥルはニヤリと笑いかけた。
「予言しよう! 君が水着を着て誘えば承太郎は必ず来るッ」
 そう断言してポルナレフの部屋に向かうアヴドゥルの背中を夢主はぽかんと見つめた。しかし世界で指折りの占い師が言うことだ。以前、彼の助言を受けた夢主はまさにその通りの結果になった。
「水着、どこに置いたかな?」
 大きなクローゼットの中を思い返しつつ、夢主も承太郎と過ごす客室に戻ることにした。


 ココナッツジュースを片手に散歩から帰ってきた妻が先ほどから小さい物音を立てている。クローゼットの扉を何度も開け閉めする事から、どうやら服を着替えているらしい。きっとジュースでもこぼしたのだろう……そう思って特に気にせずノートパソコンへ視線を戻した承太郎に、背後から静かに声が掛けられた。
「ねぇ、承太郎。休憩のついでにプールへ行ってみない?」
 顔を覗き込んできた彼女にキーボードを叩く手を止めた。花柄の水着に包まれた柔らかそうな胸が承太郎のすぐ目の前に差し出されている。
「……プール?」
「スージーさんに誘われたの。今が一番プールにいい季節なんだって。ジャグジーがあって、ジョセフさんもサーフィンしてるし、折角だからみんなを誘って楽しもうと思うんだけど……。承太郎は忙しい? ……ダメ?」
 承太郎は画面を見続けて疲れた目元を指で押さえ込む。
「……行く」
「本当? よかった!」
 やはりアヴドゥルの予言に間違いはないようだ。
「ああ……だが、俺は泳ぐつもりはない。それでもいいか?」
「もちろん、一緒に居てくれるだけでいいよ」
 笑顔の彼女にフッと笑いかけた承太郎は、白いコートを脱いで夢主の体に掛けてやる。
「その格好で廊下は歩けねぇだろ。それでも着てろ」
「はーい」
 ぶかぶかのコートを抱きしめて嬉しそうに返事をする。承太郎はいつもの決まり文句を心の中で呟くと、パソコンの電源を落としてから廊下に出た。


「ぬぉおおッ! 痛いッ! もっとソーッと動かさんか!」
 プールにやってきた二人を待っていたのは青い空と輝く水面、そして担架に乗せられて運ばれるジョセフの姿だ。
「おい、何だ。何があった? おばあちゃん」
「承太郎! もうジョセフったらすぐ調子に乗るんだから! ボードから落ちて手と足を打ったのよ」
 今度は違う意味で観衆に注目されているようだ。叫び声を上げるジョセフの声に大勢が集まってきた。
「今から医務室に行くわ。頼れるドクターがいるの」
「どうした? 何だこりゃ? ジョースターさんは無事か?」
 アヴドゥルと彼に誘われたポルナレフと花京院が慌てて駆け寄ってくる。三人とも水着姿だ。承太郎に負けず劣らずの逞しい上半身が薄いパーカーの上からでも透けて見えた。
「俺たちも行くぞ」
「医務室はこの先だ」
 身内と友人がそこに乗り込むと、大げさに喚くジョセフを前に一人の医師と看護婦がレントゲンを前に話し合っている。
「フーム、ヒビは入っていませんな。ノープロブレム、問題なし!」
「えぇ? 本当か? こんなに痛いのにィ?」
 薬をもらい、応急処置をして帰されたジョセフを全員で慰めつつ、部屋に送り届けた。
「ジジイ、無茶なことするんじゃあねぇ。大人しく寝てろ!」
「そうよ、ジョセフ! 心臓が止まるかと思ったわ!」
「仕方ないのう……明日のためにも今日は部屋で過ごすとするか」
 孫と妻から叱られて、ジョセフは渋々とソファーへ身を預ける。
「ジョースターさんらしいというか、何というか……ま、大きな怪我にならなくてよかったぜ」
「そうだな。それだけは幸運だった」
「僕らが居ては休めないだろう。外に出ようか」
 ジョースター夫妻を残して五人は部屋を出る。フーッと安堵の息をそれぞれが吐きながら、小さく笑い合った。
「さてと……折角、着替えたんだ。俺はまたプールに行ってくるぜ。花京院、お前も来るだろ?」
「まあね。アヴドゥルさんも来て下さいよ。僕一人じゃあ不安だ」
「ああ、分かった。承太郎はどうする?」
「そうだな……、一応おふくろにも連絡しておくか。夢主、悪いがお前から伝えて欲しい。俺は保険の請求書類を受け取ってくる」
「分かった。すぐに電話するね」
 四人と分かれて部屋に戻った夢主はすぐに携帯でジョセフの娘・ホリィに電話を掛ける。何度掛けても繋がらず、仕方なく留守電にジョセフの怪我の事を伝えておいた。
 しばらくしてガチャリとドアが開き、旅行傷害の書類を手に承太郎が帰ってきた。
「まったく、あのジジイは……」
 困ったものだと溜息をつく。これまでにも色々な騒ぎを起こしてきたがそろそろ歳を考えて欲しいと本気で思った。
「お帰りなさい。ホリィさん忙しいみたい。電話に出なかったから伝言を残しておいたよ」
「そうか」
 書類を机に置いた承太郎と、携帯を持ったままの夢主が部屋の中央で立ち尽くす。
「えっと……じゃあ、外に出てるね」
 承太郎はまた机に向かうだろう。そう思った夢主は邪魔にならないよう、どこかで時間を潰すことに決めた。だが足を半歩引いたところで腕を捕まれ、ぐっと引き寄せられたかと思うと次の瞬間にはベッドの上に沈められていた。
「えっ?」
 驚く夢主の上には帽子を脱ぎながらのし掛かってくる承太郎の姿がある。情欲に濡れた目がきらめき、乾いた唇を舌舐めずりする承太郎の姿は飢えた獣そのものだ。
「え……、待って……」
「待たねぇ」
 素晴らしい獲物を前にお預けを食らうつもりはない。承太郎は大きく口を開いて柔らかな肌に噛み付いた。




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