姉弟並み、恋人未満


 結局、紙袋を二つも抱える事になったディエゴは駅近くのコンビニ前でぴたりと足を止めた。
 このまま突っ込めばストンと落ちそうな、いい感じのゴミ箱が見える。あふれていたゴミを店員が片付けたので許容量は申し分ないだろう。一歩踏み出そうとしたその瞬間、背後から声を掛けられた。
「あれ、ディエゴ?」
 振り向くと、暮れゆく夕日の中でスーツの上にコートを羽織り、マフラーをぐるぐると巻いた夢主が立っていた。幼い頃、慣れない日本の環境に戸惑っていたディエゴと仲良く遊んでくれた近所のお姉ちゃんだ。優しく日本語を教えてくれる彼女に、ディエゴはどれだけ救われただろう。
「夢主、今帰りか?」
 ディエゴが五歳の時に初めて出会い、四年後にイギリスへ帰るまで、彼女と手を繋いで登下校を繰り返した事は今でも素敵な思い出だ。少し年上の彼女の方が背が高く、足も速かったのでディエゴは追いかけるのが大変だったが、今では違う。イギリスにいる間に身長は伸びに伸びて、見下ろすほどに高くなった。足の幅も手の大きさも、体の全てが違う。唯一変わらないのはお互いの髪の色と心だけになってしまった。
「今日はもう帰っていいって。ディエゴは大学の帰り? ちゃんとお勉強してる?」
「当たり前だろ。何のために日本に来たと思ってるんだ?」
「ふふ、そうだね。ディエゴは昔から頭がいいから……心配しなくても成績優秀だよね」
 会社勤めの彼女はそう言って微笑みかけてきた。ディエゴは熱くなる胸を感じながら汗ばむ手のひらを紙袋の取っ手に押しつける。この熱が伝わって、すべてのチョコが溶け出してしまえばいい。
「ねぇこの後、用事がないのなら途中まで一緒に帰らない?」
「ああ……いつものスーパーに寄るんだろ?」
「うん。ディエゴも何か買っていく?」
 歩き始めた夢主にディエゴはゴミ箱への投下を諦めて、その後を追いかけた。冷たい風が歩道を走り抜け夢主の髪やマフラーの端をひらひらとくすぐっていく。ディエゴはそんなつむじを見下ろしながら改めて可愛いなぁ、と思う。人であふれる歩道だろうと今すぐ抱きしめて頬にキスがしたくなる。
「……腹が減ったから何か食べたい」
「まだまだ育ち盛りだもんね。お肉? お魚?」
 完全に子供扱いだがディエゴにとってはそれでも構わない。夢主の視線がこちらを向いてくれるのならそれだけで幸せだ。何しろ長く手紙や写真でのやり取りはあっても、実際に会う事が出来たのは二年前なのだから。
「夢主の作ったカレーがいいな」
「カレー? そんなのでいいの?」
「ああ。日本のは世界で一番美味いんだぜ? この前テレビでやってた」
 固められたルゥを溶かすだけでいつでも同じ味になる。好きな人が作ったものならなおさら美味しい。
 そうなの? と感心する夢主に頷きながらディエゴは相手と歩調を合わせる。どうせなら少しでも長く一緒に居たかった。
「じゃあ、スーパーに寄ったら私の家へ直行ね」
 一人暮らしのくせに、何の躊躇いもなく家に上げてしまうのはいかがなものか。ディエゴは喜びつつもどこか不満だ。自分で言うのも何だが、かなりいい男に育ったと自負している。それでも彼女には年下の少年に見えると思うと面白くない。
「なぁ、後で日本語の勉強に付き合ってくれないか?」
「いいよ。じゃあお酒は抜きだね」
「おいおい、一本くらいならいいだろ?」
「だーめ。勉強にお酒は必要ないでしょ」
 財布の中身を確かめつつ、そんな事を言う夢主にディエゴは唇を尖らせる。酔って色っぽい姿が見たかったのに残念だ。勉強なんて無粋な事を言うんじゃあなかったと後悔した。
「ディエゴ、こっちに来てもう何年だっけ?」
「まだ二年」
「そっかぁ。日本語上手だから違和感ないね」
 語学を習いたければその国に恋人をつくれ、と言ったのはフランス人だったかそれともイタリア人だったかは忘れたがディエゴは案外、的を射た言葉だと思う。街中に流れる情報を理解出来るようになったのは全て夢主のおかげだ。彼女に会って普通に話がしたい一心で積極的に覚えていった。
「一応、努力はしてるからな」
 君を口説いて、この国で一緒に暮らすために。ディエゴはそのために海を越えてきた。
 夢主はうんうんと感心して、学生はそうでなくちゃ、なんて言っている。
「日本は楽しい? イギリスが恋しくならない?」
「まさかだろ。毎日が楽しくて仕方ないっていうのに」
「本当? 良かった!」
「妙なところもあるが、この国は嫌いじゃない。何よりすぐ近くに夢主がいる」
「うん、困った時は頼っていいからね。幼馴染みとしてディエゴをちゃんと助けるから」
「……」
 そんな意味ではない上に、幼馴染みという言葉にボディブローを食らったディエゴの心はマットの上にダウン寸前だ。
「頼りないお姉ちゃんかもしれないけど、ディエゴのために頑張るよ」
 ディエゴはなるほど、と納得した。これまで様々なアプローチを試みるも、ことごとく意味を成さなかった理由はこれだったのだ。夢主は自分の事を弟のように思っている。手を繋いで帰った幼い日々の延長上から自分たちは抜け出せていないらしい。
「……お姉ちゃん……」
 虚脱状態のディエゴが小さく繰り返すと夢主は嬉しそうに目を輝かせた。
「ふふ、久しぶりに聞いた! もっと言って」
 ディエゴには少しも面白くないが彼女には違うようだ。
「夢主お姉ちゃん?」
「なぁに? 弟のディエゴくん」
 喜ぶ顔があまりに可愛くてショックでありながらやっぱりキスをしたくなる。
「まぁ……今はそれでもいいか」
 ディエゴは苦笑しつつ、すぐに気持ちを立て直した。
 夢主が自分の事をそう思うのならそれでもいい。会う口実がたくさん作れて、逆にチャンスではないか。後は退路を断ってじわじわと確実に追い詰めよう。
「いつでもお姉ちゃんが相談に乗るからね」
 なんて安請け合いをする夢主にディエゴはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ早速、日本語のレポートを手伝ってくれ」
「えっ!? それは自分でしなきゃダメでしょ!」
「さっきは付き合うって言ったぜ。今も相談に乗るって言った」
「うっ……そうだけど……」
 困り顔の夢主を連れてディエゴは足取り軽く歩道を行く。この大量のチョコの処分も夢主に手伝わせよう。幼馴染みの可愛い弟を演じれば彼女はきっと断れない。



 その男の子は、まるで生まれたてのヒヨコみたいなふわふわの髪をいつもくるんとカールさせていた。少し癖毛のある金髪が本人は嫌だったらしく、からかわれる度に激しく怒っていたように思う。
「ディエゴ、一緒に帰ろ」
 家が近くて少しだけ年上。“さすがお姉ちゃんだね” “優しいお姉ちゃんと一緒でよかったね”と大人たちが言うものだから夢主はすっかりその気になってしまった。まだ純粋さが残っていたディエゴも、
「うん、一緒に帰ろ!」
 と素直で可愛いものだから夢主は彼を守る事が使命だと思い込んでいた。どちらも大泣きして空港で別れるまでは。
「ちっちゃくて本当に可愛かったな」
 二人で一緒に絵を描いたり、公園で遊んだり、先生になったような気分でディエゴに日本語を教える毎日。きらきら輝くこの時間が永遠に続くと本気で信じていた頃だ。
 大通りを歩いていた夢主はふと立ち止まってガラスに映り込む自分の姿を見つめた。そこにはランドセルを背負っていた少女ではなく、仕事帰りの疲れた表情の女性が映っている。時間が経つのは本当にあっという間だ。
「ディエゴはずるいなぁ」
 小さいときから可愛くて天使のようだった。その彼から日本の大学に留学するという内容の手紙が届いたのは二年前の事だ。泣き喚いて別れた空港で再会した時は、あまりの変貌ぶりに腰を抜かしてしまいそうだった。熱烈なハグと挨拶のキスに夢主が呆然となっていると、
「昔のように、また色々と教えてくれると助かる」
 そう言って微笑む彼の笑顔に昔の面影を垣間見た。楽しくて切ない記憶が洪水のようにあふれてきて、夢主は涙をこぼしそうになってしまった。
 そうして過去を思い返しながら帰路につくと、以前住んでいた一人用のアパートではなくセキュリティキーを押してマンションの玄関ホールを通り抜ける。エレベーターに乗って上階に辿り着くと一番奥の角部屋のドアを開けた。
「お帰り。いいタイミングだな。今、コーヒーを入れたところだ。夢主も飲むだろ?」
 湯気の立つマグカップを持ち、キッチンから出てきたディエゴはそう言って出迎えてくれた。
「……ただいま。ディエゴも早かったんだね」
「ああ、調べ物は家でやる事にした。大学図書館だと落ち着けないからな」
 コーヒーを飲むディエゴを見上げると、クラクラするほどの美貌が押し寄せてきた。癖毛は治ったらしく、まっすぐな髪を肩より少し伸ばしている。悪戯っぽい目は切れ長で、眉毛はもちろん睫毛の先まで金色で出来ていた。整った鼻梁の下で、艶のある唇に笑みを浮かべて立っている。スポーツで鍛え上げた逞しい体格を目の前にして夢主はただ圧倒されるばかりだ。
「ん? どうした?」
「ううん、何でもない……着替えてくるね」
 長く見続けていたらしい。夢主はすぐに視線を下げて、割り振られた自分の部屋に足を向けた。
 彼の前では平静を装いつつも、今置かれている状況の変化にまだ少し戸惑いを覚える。共に暮らす事になった二人の転機は、ディエゴとカレーを食べて勉強を教えたあの日から一週間後の事だ。
「空き巣にやられた」
 昼過ぎにディエゴから掛かってきた電話の内容に夢主は青くなった。現金にカード、腕時計などの高価な物は全て奪われたと言う。警察に事情を話すディエゴの部屋に夢主は急いで駆けつけた。同じところには住めないと言って彼はすぐに部屋を引き払い、新たに探そうとしても今度は保証人の問題が立ちふさがる。困り果てる彼を見て夢主が取った行動は、もちろん彼の保証人になる事だ。
「最初からこうすれば良かったな。無駄がない。これなら毎日夢主に会えるし、おやすみの挨拶もメールじゃなくて言葉で直接伝える事が出来る」
 あれほど落ち込んでいた彼は一転して太陽のような笑顔を浮かべると、まだ何もない部屋に積み重なった段ボールを開けた。保証人になるとは言ったが、一緒に住むとは言ってないはずだ。しかし問答無用でやって来たディエゴと引っ越し業者に急き立てられて、夢主はいつの間にかアパートを出て、ここに暮らす事になっていた。
「確かに無駄はないけど……」
 同棲するとは思ってなかった夢主は今でもあまり現実味がなかった。もちろん部屋は分けられているし、紳士の国からやってきたディエゴはいきなりドアを開けるなんて失礼な事はしない。
「夢主、今夜は何を作る? 俺も手伝おうか?」
 今もノックをしたドアの向こうから彼は声を掛けてきた。
「うーん……まだ決めてないけど、大丈夫。ディエゴは調べ物してて」
「分かった、任せる」
 最初は不安だった夢主もディエゴの真摯な態度を見て、逆に自分を恥じた。幼馴染みの知り合いとはいえ男女が同棲するなんて……さすがにダメなのでは? と思ってしまったからだ。だが、それならこの二年間、いくらでもその機会があったはずだ。それにとてもハンサムな彼はバレンタインでチョコの処分に困るほど多くの女性から好意を寄せられている。わざわざ夢主を相手にするより、外へ出かけた方が楽だろう。
「ふふ、考えても仕方ないのに」
 胸のざわめきを押さえつつ夢主はあれこれと悩む自分を笑った。


 新しく買ったノートパソコンに向かって調べ物をするディエゴをリビングに置き、夢主はキッチンに立った。休日は二人で出かけて必要な食器や家具を少しずつ買い足している。何だか新婚さんのようで気恥ずかしくなる時もあるが、ディエゴとあれこれ悩むのは楽しい時間には違いなかった。
「ディエゴ、食後のデザート食べる?」
 作った料理を二人で綺麗に食べて夢主は再びコーヒーを入れにかかる。食べる、と言う返事を受けて昨日買っておいた美味しいと評判のプリンを冷蔵庫から取り出した。
「レポート、間に合いそう?」
 膝上にノートパソコンを置き、ディエゴは空き巣から生き残った白いソファーに腰掛けている。夢主はデザートと飲み物をテーブルに置いて彼の隣に座った。
「このままいけば、多分な。何だ、夢主が手伝ってくれるのか?」
「まさか。課題は自分でしてね」
「そう言うと思った。じゃあ、せめて食べさせてくれると助かるな」
 ディエゴの視線の先を追いかけて夢主は優しい色をしたデザートを見る。
「プリンを?」
「俺は今、手が離せない」
 これ見よがしにキーボードを打つ相手に夢主から笑いがこぼれた。
「仕方ないなぁ……ディエゴ、本当に弟みたいになってきたね」
 そう言ってプリンをスプーンにすくい上げ、彼の口元に近づける。
「お姉ちゃんって呼ばれたいんだろう? ならいい事じゃあないか」
 ディエゴはぱくりと食べて艶のある声で笑いかけてきた。
「まぁ、確かにそう言ったけど……少し照れくさいなぁって」
「ここには俺たち二人だけだ。気にする必要はないと思うぜ」
 そう言って口を開けて待っている。夢主はもう一度スプーンですくって彼に差し出した。
「美味いな、これ」
「でしょう? 行列が出来るくらい人気なんだよ。私も並んで買ってきたの」
「ああ、だから昨日はあんなに冷えてたのか。無理するなよ」
「だってディエゴにも食べて欲しかったから」
「へぇ……俺のため?」
 からかうような視線を向けられて夢主はすぐにスプーンを押し込んだ。
「それもあるけど私も食べたかったの!」
「ふーん? ……ま、そうだな。これだけ美味かったら食べたくもなるさ」
 誤魔化そうとする夢主を見つめながらディエゴはぺろりと唇を舐めた。甘い香りのバニラビーンズが二人の間でほのかに漂っている。
「あー……何て言えばいい、こういう時は?」
「ありがとう?」
「それもあるが別の言葉だ」
「ごちそうさま?」
「違うな。もっと感謝を伝える時の言葉だ」
「? ありがとうじゃないの?」
 夢主は考えてみるが他に思い浮かばなかった。ディエゴもキーボードを打つのを止めてしばし考え込む。それからおもむろに、
「ありがとう、愛している」
 と囁いてきた。それを聞いた夢主は危うくプリンを落としてしまうところだった。
「半分はあってたな。これが正しいだろう?」
 素知らぬ顔で同意を求めてくるディエゴから夢主はそっと視線を外した。顔に熱が集中しすぎてとても暑い。ありがとうだけで十分だと訂正したくても、すぐに声が出なかった。
「ん、どうした? 違うのか?」
 顔を覗き込んでくる彼に夢主はようやく気持ちを落ち着かせて咳払いを繰り返す。
「あ、あのね……そう言う時は、ありがとうだけでいいから。ディエゴが愛してるなんて言ったらみんな誤解するよ?」
「誤解? もしかして言わない方がいいのか?」
 何度も頷く夢主を見つめながらディエゴは顎を撫で、フーンと気のない返事をする。
「不快だったなら謝るぜ?」
「そんな……ただビックリしただけ」
 飛び跳ねた心臓を無理矢理に落ち着かせ、夢主はちらりとディエゴを窺った。彼は冷たい色をした目でただひたすらこちらの反応を見てくる。からかわれているようではなさそうだ。単に、日本語の微妙なニュアンスを間違えただけなのだろう。そう思い至った夢主は力を抜きソファーから立ち上がった。
「おいおい、怒るな。少し言い方を間違えただけだ」
「怒ってないよ、ディエゴ……大丈夫、紅茶を飲もうと思ったの」
「本当か?」
「本当、本当。だからほら、早くレポート仕上げなきゃ。徹夜になっちゃうよ」
 そう言ってキッチンに駆け込んでいく夢主からディエゴは手元のノートパソコンに視線を移す。意味もなく冷蔵庫や戸棚を開け閉めする彼女の気配が一人残されたリビングにも伝わってきた。
「……驚いただけ、か」
 奥歯で笑いを噛み殺しながらディエゴは再び作業を再開する。滑らかに日本語を入力していく彼の脳裏に、さきほどの夢主の表情が思い浮かんだ。
 早くキスして抱きしめたい。今にも溢れそうな劣情をその体に叩きつけたい。酷く優しく何度も抱いて奥深いところで愛し合いたい。
 しかし、この愉快で幸せなひとときをもう少しだけ味わいたいのも間違いなく本心だった。

 終




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