他人以上、親友未満


 話し声でざわめく大学講堂に一歩足を踏み入れると、ほんの一瞬だけ音が止む。
 生まれながらにして黄金色の髪を持った男性が歩けば、薬剤を使って染めた茶髪などまったくお話にならない事がよく分かる。アイスブルーの目が空いた席に向くと近くにいた何名かがびくりと身を震わせた。彼はそこにいるだけであまりに圧倒的だ。
 そんな周囲からの遠慮ない視線を無視し、英国からやってきたディエゴ・ブランドーは仕立てのいいコートとマフラーを脱いで隅の方の離れた座席に腰掛けた。
「ハーイ、ディエゴ」
「……」
 ディエゴは声を掛けてきた相手を見てあからさまな溜息を付く。その失礼な態度に夢主は誰からも見えない位置で彼の足を蹴り上げてやった。
「痛っ……この野郎、何しやがる」
「誰が野郎よ! この前借りてたノート、せっかく返しに来たのに」
 夢主は頬を膨らませ、彼の前にノートをバサッと乱暴に投げた。
「もう見るのもウンザリでしょうけど、これもおまけであげるわ」
 そう言って机の上に転がったのは小さくて紙に包まれた四角い形のチョコだ。
「本当に見るのもウンザリだ。この国の風習はイカレてるな」
 ディエゴは足下に置いた紙袋に視線を落とす。ぎゅうぎゅうに詰め込んだ甘い色の箱を見るだけで胸焼けを起こしそうになる。
「そろそろ日本のバレンタインに慣れてもいい頃じゃない? こっちに戻ってきて何年目だっけ?」
「まだ二年目だ。まったく飽きないよな、あいつら」
 何時にも増してそわそわと落ち着きのない男女を眺め、軽く肩を竦めた。
「人気者は辛いわね〜。でもおかげで競争相手が減って、私は嬉しい限りよ」
「何だ、まだ奴の尻を追いかけてるのか?」
「尻だなんてやめてよね。空条教授はアンタより素敵な人よ」
 ムッとする夢主の顔をディエゴは笑い飛ばした。自分も見た事はあるがこの親友……いや友人……というか悪友は、あんな寡黙な学者タイプが好みだったらしい。
「さっさとオトせよ。お得意だろ、色仕掛けは」
「ちょっと! 誤解を生むようなコト言わないでくれる? 清楚路線で押してるんだから」
 清楚と聞いてディエゴは盛大に吹き出してしまった。彼女との付き合いはそこそこ長く、ディエゴがまだイギリスで高校生として暮らしていた時からだ。
「前の学校で三股してたくせに、それはないだろ」
「このクソ野郎……それ以上言ったらブッ殺すからね。何、勘違いしてんのよあれは偶然で……」
「分かってる、分かってる。偶然、な」
 クックッと忍び笑いするディエゴの頭を夢主は指で弾いてやった。
「うるさいなぁ、もう……! 何でみんなこんな奴がいいの? あんたの正体を知ったら、ゾッとすると思うけど」
「馬鹿、わざわざ本性を見せると思うか? こんなどうでもいい奴らに」
 ディエゴは熱心にこちらを見つめてくる女学生のグループへ当てつけるように微笑みかける。彼女たちはきゃあと叫んで講堂内に黄色い声を響かせた。
「単純で可愛い奴らだよな。俺が笑って話しかけるだけで、服を脱いでくれるんだぜ?」
「あーあー、今までの会話、全部翻訳して聞かせてあげたい」
「フン、わざわざスペイン語で話してる意味を忘れてないか?」
 ディエゴは嫌味な笑いを浮かべて、帰国子女の夢主を眺める。彼女はとても好奇心旺盛だ。はるばるやってきたイギリスのスクールで、日本のテストには決して出ない様々な語学のスラングを覚えてしまった。
「お綺麗な英語を使ってたお前が懐かしいなァ」
「何よ、ディエゴだってお綺麗な日本語で喋ればいいじゃない。ますますファンが増えそうだけど」
 神に愛された顔を持っているくせに、心は悪魔に売り渡してしまったようだ。ねじ曲がった性格のディエゴに夢主はニタニタと笑いかけた。きっと彼が本気になれば落とせない女は居ないだろう。夢主には心に決めた人がいるし、ディエゴのたちの悪い本性を知っているので除くとしても、大抵の女はこの美貌に呑み込まれてしまうのがオチだ。
「嫌だね。日本語は好きな女の前と必要な時にしか使わないって決めてるんだ」
「はいはい、知ってる知ってる」
「チッ……お前、席は向こうだろ? さっさと戻れよ」
 ディエゴは頬杖をつきながら夢主が居た席を指差す。また密やかな歓声がどこからか上がったがもはや雑音だ。気にもならない。
「あのね、私が意味もなく話しかけると思う? アンタのファンって怖いんだから」
「それは初めて知ったな。で、用は何だ?」
 ずいっと差し出された手を見つめてディエゴは首を傾げる。ひらひらと動かされても何の事か分からなかった。
「もう忘れたの?! この頭はただの飾り? ノックしてもカラカラ言うだけ? アンタ、ホテル代が足りないからって、私から一万円借りたでしょ!」
「ああ、そう言えば……そうだったかもしれないな」
 わざとらしい口調のディエゴに夢主は再び指で弾こうとする。今度はスッと避けられてしまったので、上手く命中させる事は出来なかった。
「利子付けて返しなさいよ。まったく……女癖も悪いけど金にも汚いんだから」
「そればかりは親譲りだ、仕方ないだろ?」
 ディエゴは笑って夢主の手にひらりと一万円札だけを返した。
「で……ホテルに行ったってことは、とうとう本命をオトしたわけ?」
 なるほど。それが話しかけてきた本当の理由なのだと知る。女の噂話好きはどこに行っても同じらしい。
「お前、分かってて聞いてるだろ? そうなら今頃、ベッドの中で愛を囁き合ってる」
 それを聞いた夢主は吹き出しそうな口元を隠しつつ、密やかに笑いこけた。
「プッ……何よ、アンタこそまだオトせてないじゃない!」
 ゲラゲラと笑われないだけマシだとは思うが、それでも十分に不愉快だ。ディエゴは夢主を睨んで追い払うように手を振った。
「まぁ、別にディエゴが誰と寝ようと勝手だけど、いつか刺されても知らないからね。私は嘘でも“ディエゴくんはとってもいい人でした”なーんて言いたくないんだから」
 笑った際に握りしめてしまったお金を伸ばしながら夢主はニヤニヤと笑う。彼に落とせない女は、自分以外にもう一人存在したようだ。
「アンタのプリンセスはどこまで鈍感なの? ただの頑固者? それとも単にディエゴが下手クソなだけ?」
「ウルサイ……いい加減、口を閉じろ。お前が追いかけ回してる教授を少しは見習え。用は済んだだろ? さっさと戻れよ」
「チッ、都合悪くなるといっつもそれよね……はいはい、言われなくても戻りますよ。性病うつされて死ね、このイケメン野郎」
 早口の汚い言葉でまくし立てつつ、周囲にはにこりと笑顔を向ける。才女で有名な夢主には大事なカモフラージュだ。同じく日本語が不慣れな美男子と周囲に思われているディエゴは、それはそれは美しい笑みで迎え撃った。
 密かに中指を突き立てながら席に戻ろうとした夢主は、ふと足を止めて振り返る。
「あ、そうだディエゴ……知ってる? 日本のバレンタインチョコには義理と本命があるの。私があげたのはもちろん言うまでもなく義理の義理だけど。アンタの本命はその紙袋の中身と同じ、愛がこもったチョコをくれるかしら?」
 底意地の悪い魔女のような笑みを浮かべる悪友にディエゴは思い切り眉を顰めた。
「もうお前にはノートを貸してやらない」
「それは私のセリフよ。分からなくても空条教授からじっくり教えてもらうからいいの」
 笑いながらふいっと背を向け、かなり離れた席に戻っていく彼女を眺める。席に着いた途端、黄色い歓声を上げていた女子たちに囲まれ、「ディエゴくんと何話してたの!?」「そのお金は何!?」とせっつかれている。
「電車代が無くて困ってたから彼に貸してあげただけ。それより、今日はチョコをもらえてすごく嬉しいって言ってたわよ。渡すのなら今がチャンスじゃない?」
 なんてほざいてる。全く、どうしてあいつはああなのだろう。ディエゴは我先にとこちらに駆けてくる女の子たちに内心ウンザリとした。そしてそのどれもが本気なのかと思うと寒気がした。
「何がチョコだ、バレンタインだ……クソッ」
 本当に欲しいものはただ一つなのに、なかなか手に入らないのがあまりに焦れったい。ディエゴは悪態を吐きながら忌々しそうに紙袋を足で蹴った。




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