序幕


 アスワンのざわめく街の向こうに太陽がゆっくりと沈んでいくのが見える。早めに夕食を終えた夢主は何日ぶりかのシャワーを思う存分に浴びて、これまで蓄積された汚れと疲労感を洗い流した。綺麗になった髪をタオルで拭きつつ、まだ人でごった返す大通りを窓から見下ろした。
「市場かぁ……ちょっと行ってみたいな」
 夢主の言葉にそれまでベッドで雑誌を読んでいた承太郎がジロリと睨んできた。これまで何人ものスタンド使いを倒してきた彼は、不良学生だった頃とは比べ物にならないほど凄みが増した。これでは復学したときにまたよからぬ噂が流れそうだ。
「ウソ、冗談だよ。やだなぁ! 一人でうろうろしないよ」
 死に際にンドゥールが残した言葉ではまだ八人もDIOの部下が残っているらしい。エジプト九栄神なるスタンド使いたちはジョースター御一行を倒すべく、あらゆる手段を使って攻撃してくるだろう。
「明日、アヴドゥルさん退院できるんだよね? 花京院は……やっぱりこのままリタイアするの?」
 夢主は首にタオルを掛けて承太郎のベッドに腰掛けた。幼馴染みのいとこ同士という事もあって彼らはこれまでずっと相部屋で過ごしてきた。野宿するときは承太郎とジョセフに挟まれて眠り、羨ましがるポルナレフに花京院が呆れた口調で肩を竦めるのがもはや定番のやり取りだ。
 数時間前、その花京院がンドゥールの攻撃によって目を負傷し、アヴドゥルも首を浅く切られてしまった。
「かもな」
 医者に入院を勧められるほど失明の可能性が高い。承太郎は表情を変えずぽつりと言った。
「……」
 三十日もの間、日本を出てから共に戦い、長らく旅をしてきた彼と別れるのは思う以上に辛かった。学生同士、学校や勉強、教師の話で盛り上がり、他愛ない話を満天の星空や砂丘の上で繰り返したことが脳裏に浮かぶ。これまでスタンドが見える友達がおらず、一線を引いてきたという花京院は同じような境遇の夢主と似たところがあった。ただ夢主には頼りになる一つ上のいとこが幼いときから側にいたので、孤独を味わずに済んだだけの事だ。
「腕のいい医者をつけてある。失明は免れるはずだ」
「そうだといいけど……」
 足を抱え込んだ夢主は後ろで横になる承太郎のお腹にもたれかかった。以前から鍛えてあった腹筋は、ここ最近、また固くなったようだ。厳しい条件が続く旅路で自然と鍛えられてしまうのだろう。
 承太郎は腹に押しつけられる柔らかい肌を味わってから夢主の少し濡れた髪を引っ張った。
「何だ。もしかしてお前、花京院に惚れてるのか?」
「ハァ!? ちょ、何言ってんの!」
 承太郎の唐突すぎる言葉に夢主はベッドから転げ落ちてしまった。慌てて身を起こし、こちらを面白そうに見つめる承太郎の腹を殴ってやった。
「痛ぇ」
「承太郎が変なコト言うからでしょ! 花京院は友達! それ以下でも以上でもないよ! 大体、こんな危険な旅してるときに恋愛とか……ありえないよ」
「お前はそうでも花京院はどうだろうな」
 時々、花京院が夢主に向ける眼差しは見ているこちらが苦しく思うほど真剣だ。きっとポルナレフやアヴドゥルあたりは気付いているだろう。それでも、一度もからかったりしないのは夢主の言うように不謹慎だからか、単に花京院からの報復が怖いのかもしれない。
「あのね、承太郎。花京院にだって好みがあるんだよ? 知り合ってまだ一ヶ月で何が分かるの」
「一目惚れって事もある。それに一ヶ月もあれば十分だと俺は思うがな」
「もう……そんな話、どうだっていいよ。聖子ママを助けるのにあと二週間しかないっていうのに」
 本当の母親よりも母として慕うホリィの命の期限が迫っている。その事実が重く心にのし掛かってきて夢主は顔を歪めた。
「あっ! ごめん! 承太郎、ごめんなさい」
 きっと誰よりも母の容態を気にしているはずだ。改めて口にした事で彼の不安を煽ってしまったのではないかと夢主は青ざめながら謝った。
「この馬鹿。気にしちゃいねぇよ」
「……うん」
 承太郎の胸に頭を置いて夢主は彼の心音を聞く。近所の怖い犬に追いかけられたとき、いじめっ子に泣かされたとき、迷子になって帰り道が分からなくなったとき、いつもこうして側にいてくれたのは彼だ。ぽんと背中を撫でてくるその優しさがいつだって夢主の痛む心を慰めてくれる。
「私のスタンドもスタープラチナみたいな強いスタンドだったら良かったのに。そうしたら聖子ママを苦しませるDIOをボッコボコに殴ってやれたのになぁ」
 夢主はそう言って溜息をついた。彼女のスタンドはとても戦闘向きではない、あまりにひ弱な死神姿だった。
「お前のは殴らなくても迫力だけであの世に連れて行けそうだな」
「ふふ、だよね。初めて見たときなんか、もう怖くて漏らしそうだったもん」
「実際、漏らしてただろーが」
「そ、それは承太郎の思い違いだよ。やだなぁ……暑くて記憶まで溶け出しちゃったんじゃない?」
 必死で誤魔化そうとする夢主に承太郎は肩を揺らして笑い声を上げる。その時のあまりに情けない姿を思い出してしまったからだ。昔は分からなかったが、こうしてスタンドが見えるようになってからは当時の彼女の恐怖を理解する事が出来た。
「承太郎……絶ッ対に花京院やポルナレフに教えないでよ?」
「冷蔵庫から冷えたコーラを持ってきてくれるなら、考えないでもないぜ」
 むくれた顔を見せる可愛いいとこを承太郎は薄い緑色の目に映し込む。昔から何かと手の掛かる存在だが、一度だって邪魔に思った事はない。もはや家族同然で、少しばかり口煩い妹みたいなものだ。
「まったく、やれやれだぜ!」
 承太郎の口真似をしながら夢主は冷蔵庫に飛びつく。
 そうして明るく振る舞う彼らの向こうで街は夜の闇に覆われ、限りある明日がひたひたと迫ってきていた。




 大好きなホリィを助けたい一心で夢主はジョセフに無理を言ってここまで着いてきた。しかし結局のところ、自分はあまりに無力だということを思い知らされただけではないだろうか。
 夢主はボロボロになったイギーとアヴドゥルの両腕を抱きしめ、花京院の物言わぬ遺体の前で呆然と立ちつくしている。DIOに立ち向かったところでパワーを持たないスタンドとただの人間である夢主など、彼の前ではまさに蟻のごとき存在だった。軽くなぎ払われただけで夢主の体は吹っ飛び、肩と手足をいくつも骨折しながら商店に突っ込んで意識を失った。
 怪我を負いつつ、命だけは助かったものの、仲間たちの変わり果てた姿を見ても夢主は涙を流す事しか出来ない。
「辛いのは分かるが……そろそろ行くぞ」
 夢主はジョセフに促されるまま大きなワゴン車に乗り込んだ。
「……ポルナレフは?」
「あいつは病院じゃ。最後の始末はわしらが行う」
 ジョセフは回収されたDIOの死体を覆う固いケースを指先でコンコンと叩いた。それをシートに深く腰掛けた承太郎が無言で見ている。誰もが血で汚れ、酷い有様だった。
「コレ、どうするの?」
 夢主は今にも噴火してしまいそうな心に重たい氷を無理矢理に押し込める。感情のままに爆発させたところでジョセフが優しく慰めてくれるだけだ。死んだ彼らはそんな事では蘇らない。
 震えつつも冷静を保った声で夢主はジョースター家を苦しめた宿敵を見下ろした。
「吸血鬼の弱点である太陽に晒すのが一番じゃろう。砂漠で灰にしようと思う」
 ジョセフの声を遠くに聞きながら夢主が項垂れていると、耳にそっと風が吹き込まれた。ザラザラとした声はまるで冥府からの誘いのようだ。自身のスタンドながら背筋がざわめき、鳥肌が立った。
『我に差し出せ。見返りを求めよ』
 きっと悪魔との契約もこうして行われるのだろう。抜き差しならない状況下で断り切れないのを見越して優しく囁いてくるのだ。夢主はゴクリと喉を鳴らし、自分の能力を行使する判断を迫られている事に気付いた。このまま仲間と永遠に別れるか、それともスタンドが言うように差し出して見返りを求めるのか。
「出来るの?」
 夢主の言葉に骸骨が笑った。真っ黒な口の向こうから新緑を思わせる爽やかな春風が吹いてくる。迷いを消し去った本体の覚悟を知ったスタンドは、見るも無惨なイギーの体に向けて指の間からフーッと息を吹きつける。
「ここらでいいだろう。車を止めてくれ」
 ジョセフの声に従って財団職員はブレーキをかける。路肩に止まった車の後部ドアを大きく開け、ストレッチャーに乗ったDIOを外に運び出していく。承太郎とジョセフが車を降りる中、夢主はシートに腰掛けたまま動かなかった。
「イギー?」
 返事をするように胸の中でぴこっと愛らしい耳が動いた。そのうち尻尾が動き、冷たかった体に暖かな体温が戻る。大きな目に夢主を映し、不思議そうに首を傾げるイギーを見て夢主は頬にいくつもの涙を流した。
『見返りを求めよ』
 感動の再会を遮るようにまたスタンドが囁きかけてくる。彼が手に持つ大鎌には新たにイギーの名が彫られ、横に並んだ夢主の寿命が削られている事に気付く。このまま花京院とアヴドゥルにも能力を使いたいが、生き返った瞬間、夢主の命の方が先に尽きそうだ。
「これで終わりじゃな」
 思い悩むその向こうでジョセフがケースを開き、DIOの体に太陽の光を浴びせかけた。灰になり、風に吹かれて崩れ去る姿を二人が静かに見守っている。
「待って! おじいちゃん! 待って!」
 夢主はイギーをジョセフに押しつけると、そのすべてがどこかに消え去る前に両手一杯に灰を抱え込む。
「これをあげる。だから花京院とアヴドゥルを返して」
 飛び跳ねるイギーにジョセフと承太郎が驚いている隙に夢主はDIOの灰を己のスタンドに放った。散りゆくそれは死神の吐息を受けて新たな体を再び取り戻していく。
 反り返った靴先、黄色の衣装にハートの膝当て、妖しい腰回りと逞しい胸板、両腕から続く肩に星のアザは無いが、思わず見惚れるほどの造形美を持つその人物を一から作り上げていった。
「テメェ……DIO!?」
「夢主ッ! お、お前、今、何をした!?」
 承太郎とジョセフが叫ぶ中、車の中からよろよろとアヴドゥルが外に出てくる。三人の足下ではイギーが耳の裏を後ろ足で掻いていた。
「どこだ、ここは……? 承太郎に、ジョセフ? ナイフで止めを刺したはずだが……」
 自分を殴り飛ばした相手を見上げて夢主はホッと息をついた。アヴドゥルが戻ってきたのなら花京院も今頃は同じように状況が掴めなくてきょとんとした顔で辺りを見回しているだろう。
「まぁいい……どけ、小娘。邪魔だ」
 スタンドを出して臨戦態勢に入っている承太郎を見て、DIOも同じくスタンドを出現させる。ザ・ワールドの大きな拳が夢主の眼前に迫り、フッと空を切った。
「?」
 一瞬、不思議に思うもDIOはすぐに体勢を立て直した。スタンドは向かってくるスタープラチナの相手に回し、己の拳で夢主の頭蓋骨を殴りつける。
「どういうことだ?」
 不意にピタリと動きを止めた自身の腕を訝しく思いながらDIOは初めて夢主を正面から見下ろした。
「ジョースター家と聖子ママを散々苦しめてくれたお礼だよ。良かったね、地獄に行く前で」
 睨みつける目にこれまでの怒りを込めながら、夢主は相手を鼻で笑ってやった。背後にいるスタンドがカタカタと歯を鳴らして嬉しそうに笑うのが聞こえてくる。鎌にはイギーとアヴドゥル、花京院に加えてDIOの名が刻まれ、彼の不死性を示すように大量の命が夢主を含む四人に分け与えられていた。
「これまで奪った分、利子付きで返してもらうから」
 夢主はDIOの動かない腕を払い落とし、昇りゆく太陽の下でにこりと微笑んだ。

 終




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