15


 どれほどそうしていただろう。部屋の前をバタバタと複数の足音が駆けていく音で夢主はようやく意識を取り戻した。
(DIOは何て……?)
 聞き間違いだろうか。それとも自分勝手な幻聴だろうか。
 夢主は早鐘を打つ自分の胸を手で押さえた。
 聞き返したく思っても彼はもうここには居ない。待っているだけでは明日も明後日も、いつまで経ってもこの場に戻ることはないだろう。夢主にはそれが分かっている。
「……やるしかない」
 DIOが生きる世界を夢主は望む。それがどういう結果をもたらすのか、その世界を知らない夢主に未来は見えない。それでも踵を返すことは出来なかった。
「この不調はいつまで続くの?」
『彼の心音が止まりました。もうあなたの物です』
 スタンドの言葉が終わらないうちに体に感じていた重みが無くなる。夢主はベッドから立ち上がって素早くパジャマを脱ぎ捨てた。手近にあった服を着込んで涙で濡れた顔を水でザバザバと洗い流した。
「DIOは待っていろって言うけど、そんなの出来ない」
 与えられた二つの腕輪を夢主は見つめ下ろす。これが最後の形見になるなんて思いたくなかった。
「力を貸して。私は今からDIOを助けに行く」
 スタンドと自分自身に向けて宣言した。助けたい、ではなく、助けに行くのだ。
 恭しく礼をするスタンドの手のひらを夢主はしっかりと握りしめた。


 承太郎とポルナレフ、ジョセフと花京院が二手に分かれてDIOを挟み撃ちで追う間に、夢主は館から抜け出てカイロの夜を走り抜けた。
「まずは時計塔へ……そこから見える屋上タンクを探さなきゃ」
 これから起こる出来事を知識として知る夢主が誰よりも有利だ。DIOと共に外を歩き、公衆電話を探して地図を何度も確認したことで近道が出来る通りを覚えてある。
 以前、車から見たあの大きな時計塔の近くで夢主は物陰に身を隠した。スタンドはすでに忍ばせてある。ここなら彼らからは見えず、夢主には全てが見渡せるだろう。
「花京院が殺されるのが5時15分だから……あと10分……」
 夢主は震える体とはやる鼓動を抑えるのに苦労した。
 全てがうまく行くように夢主は祈りを込めて屋上を眺め続ける。
 そしてきっかり10分が過ぎたときのことだ。不意に近くの別の塔が破壊されて地面に向かって崩れ落ちていくのが見えた。
「!」
 夢主はハッとして空を見上げる。そこには移動途中のジョセフと、DIOと対峙した花京院がハイエロファントの結界を張って今まさに攻撃しようとしているところだった。
 彼らの名を叫ぼうとする自分の口を寸前で押さえ込む。
 ドワヮン! とザ・ワールドが時を止める音がした。崩れ落ちる塔、ハーミットを伸ばすジョセフ、花京院が放ったエメラルドスプラッシュ、すべてが活動を停止する世界だ。DIOは花京院に近づいて彼の胸へザ・ワールドの腕を突き入れた。
「!」
 途中でキャンセルしたとは言え、DIOの能力を知り、僅かな間でも体現した夢主は彼と同じ空間に居ることが出来るようだ。時を止めた世界で夢主はそれらを認識する。
 時が動き出すと花京院は勢いよく吹き飛ばされて屋上に設置された水タンクに全身を打ち付けた。その鈍い衝撃音に夢主は顔を歪める。失われていく彼の力と精神力に涙がこぼれ落ちそうになった。
 花京院が最後のエメラルドスプラッシュを時計塔に放ち、時計の針がその攻撃によって打ち砕かれる。そこから能力の正体にジョセフがヒントを得て、逃げる彼の後をDIOが追いかけていった。
 二人の姿が見えなくなったところで夢主は忍ばせていたスタンドを自分の元へ戻した。
「よかった……」
 全てが上手くいってホッとする。夢主が呟くと同時に、タンクに身を沈める花京院の前から薄い霧が空中に散っていく……それが消える頃、彼の腹に開いた穴は無かった。
「ケニーGに感謝しないとね……」
 彼のスタンド、ティナー・サックスが見せたのはDIOの攻撃を受けて絶命していく花京院の幻だ。本当の彼はその攻撃を受けず、ただ吹き飛ばされて体を強打した。
 視覚から聴覚、あらゆる五感を惑わす強力な能力のおかげで、きっと花京院本人も腹に攻撃を受けたと勘違いしているだろう。
 全身と頭を打った衝撃で気絶した花京院は目を覚まさない。でもそれで良いと思った。
「本当によかった……」
 夢主はもう一度同じことを呟いて屋上を見上げる。
「花京院……生きて日本に帰ってね」
 今まで分かり合える友達がいなかった彼には承太郎と学園生活を楽しんで欲しい。親にも迷惑を掛けただろうから親孝行をたっぷりしてもらいたい。彼が今後どうなるかは夢主にも分からない……しかし、生きているのなら未来は明るいはずだ。
「次はあの大きな橋へ行かないと……」
 DIOが停止させる時間の中を夢主は息を乱しながら走った。ジョセフには悪いとは思うが輸血で生き返る強運の持ち主の彼は見過ごすしかなかった。
 今まで以上に時間が惜しい。彼の血を吸ってDIOと承太郎が戦うまでの時間はとても短いのだから。



 夢主はスタンドと共に走りに走った。信号を無視し、人を押しのけ、ナイル川の向こうにピラミッドが見える橋まで無我夢中で駆けた。
 息を整えることも忘れて、辿り着いた橋の欄干から身を乗り出しナイル川と橋の間に潜り込んだ。
「チャンスは一度だけ……」
 夢主は震える手を押さえながら深呼吸を繰り返す。ほんの一瞬、針の先のような一瞬にこれからの生と死が掛かっている。息を殺し、心を落ち着かせてそれを見極めなくてはならない。
 緊張で汗ばむ手を何度も拭い、スタンドを出して隠れ待つ夢主の耳に男たちが殴り合う声が届いた。
 ハッと見上げた橋の上にDIOに殴られた承太郎が落ちてきて、ズザァーッと地面を激しく擦る音がした。そして今から数秒で決着が付いてしまう。
(まだ駄目、もう少し……!)
 残り三秒の時点で体を震わせる鈍い音が響いてきた。ロードローラーが橋を揺るがす音だ。DIOと承太郎が雄叫びをあげ、激しく拳を突き出す場面を夢主は欄干の下から確認する。
 DIOはジョセフの血を吸って完全に馴染んだ肉体を得たためか、高揚する心を抑えられないようだ。もはやベッドの上で見せた柔和な姿は無く、破壊活動に悦びを見出した獣のようだった。
(それでも……それでも私は……)
 迷いを断ち切って覚悟を決めた。
 九秒の時点で時を止めた承太郎がDIOの片足を打ち砕くと、DIOは驚愕の表情で地面に転がった。
(あと少し……承太郎がザ・ワールドの足を砕くその瞬間まで!)
 血の目つぶしで一瞬見えなくなっている承太郎のわずかな隙を突かなくてはならない。夢主は息と瞬きを止めてその時を待った。
「勝ったッ! 死ねいッ!」
「オラァッ!」
 スタープラチナが繰り出した拳がザ・ワールドの左足を砕くと、そこからDIOの体に大きな亀裂が走り抜ける。
「な、なにィ……!」
 DIOは驚きと絶望が入り交じった声を上げ、血を辺りにまき散らし巨木が根本から折れるように背後へ倒れ込んだ。
 いくつかの肉片を道路に残しつつ、体の多くは吹き上げる血と共にサラサラと砂に還っていく。彼が身に付けていた服と装飾品だけがその場に残り、金のブレスレットは円を描きながら転がって最後に軽い音を立てて地面に伏した。
 それがDIOの最後のすべてだった。
「テメーの敗因はたった一つだぜ……たった一つのシンプルな答えだ……」
 承太郎の静かな声がその場に響きわたる。
 長いような短いような静寂が続いた後、SPW財団の救急車が一人佇む彼の後ろに駆けつけた。
「ジョセフ・ジョースターの遺体をこちらに回収してあります」
「申し訳ないがすでに心配停止の状態でして……」
「心配停止……か。奴のおかげで心臓を動かしたり止めたりする方法はすでに練習済みだ。輸血の用意をしてくれ、足りなければ俺から取ればいい」
 連絡を受けた財団関係者と承太郎の会話、それに何人もの慌ただしい足音がして最後にバタンと後部ドアを閉める音がした。救急車が市内に走り去っていくのを夢主は息を潜めて物陰から見届ける。
 耳が痛いほどの静けさが戻ってきた頃、夢主は強張っている体と足をどうにか動かしてそっと橋の上を窺う。生々しい血の痕と捨て置かれたロードローラーだけが残り、そこに誰の姿も無かった。
 隠れていた狭い足場から欄干を再びくぐり抜け、橋の上に体を持ち上げる。二人の戦いは常人には本当に一瞬の出来事だっただろう。
 飛び散ったDIOの肉片は財団がすべて回収したらしく、血塗れの装飾品だけが残されていた。
「う……うぅ……」
 緊張の極みにあった夢主は自分でも気付かないうちに涙を流していたらしい。流れ落ちる涙をそのままに、隣にいたスタンドを消すとそれまで隠されていた物が露わになる。
 薄い霧が晴れた向こうには体を二つに引き裂かれたDIOの姿があった。猟奇殺人並みのその光景に普通ならゾッとするだろう。
 しかし夢主は恐れる事なく走り寄ってその体を調べた。傷は脳に達するギリギリのところで止まり、意識は無いが呼吸はかすかにある。生きている証拠に体は元に戻ろうとゆっくりと癒着し始めていた。
「DIO……」
 彼が砂になって消える姿は承太郎に見せた幻覚だ。そうと分かっていても夢主の心まで粉々にするようだった。
 不安と緊張から一転して安堵が身を包む。
 だが、彼の体にすがりついて泣こうとする夢主の耳にパトカーのサイレン音が響いた。DIOと承太郎が戦ったことでカイロ市内は未だにパニック状態らしい。きっとここにも警官が駆けつけてくるだろう。
「……どうしよう」
 今度は違う意味で青ざめてくる。今まで暮らした館にはもう戻れない。DIOは太陽の下では生きられない吸血鬼だ。病院に運んで看てもらうことだって出来ない。彼の部下はすべて承太郎たちに倒されてしまった。無事なのは夢主ただ一人だけ……頼れるすべてを失った今、自分しか彼を助けられない。
「どこか日の当たらない……いつも闇がある場所へ……でも、そんなのどこにあるの?!」
 夢主はきょろきょろと辺りに目を向ける。そこにあるのは夜に包まれたカイロの街並みだ。日が昇る前にここを立ち去らなくてはならない。近づいてくるサイレンと共に野次馬たちも大勢ここにやってくるだろう。
「どうしよう……どうしよう……! あ……ああ!?」
 ふと目に入った巨大な建造物に目を奪われる。
 あの中なら絶対に日は差し込んでこない。観光客用のルートから外れればDIOが隠れる場所だって少しはあるはずだ。
「ギザのピラミッド!」
 希望を見出して笑顔になる。スタンドと共に負傷したDIOの体を支え、夢主は長く暮らしたカイロの街に背を向けて歩き始める。橋の反対側の通りでタクシーを捕まえるとDIOの傷に驚く運転手を無視して叫ぶように目的地を告げた。



 忍び込んだそこは夢主が暮らした館の中よりもさらに深い闇に覆われていた。
 乗車を断ろうとするタクシーの運転手は幻で出来た黄金を見せて黙らせたし、ピラミッドの周囲に残っていた観光客は偽の砂嵐で宿に帰ってもらい、警備のスタッフたちには恐ろしい幻惑をいくつも見せて外に追い出した。
 そうして静かになったピラミッド内部を冥府のような闇に向かって歩いている。暗闇の中をひたすら前進し、正規ルートから離れたところで夢主はDIOの体を地面に横たえた。
 途端に疲労感がドッと押し寄せてくる。有事には普段より倍の力を発揮するというが、それに加えて制限以上にスタンドを使ったせいだろう。
「DIO……」
 夢主は相手の胸に両手をついてゼェゼェと激しく喘いだ。気分が悪く、頭痛と吐き気と熱が同時にやってくる。全身を圧迫されているようで呼吸をするのも辛いほどだ。
「お願い……目を開けて!」
 触れた胸から鼓動する心臓の動きが伝わってくる。彼は生きている。しかし目を覚まさない……喜びと不安が入り交じる涙がDIOの顔にいくつも落ちた。
「……ぅ」
 不意に凛々しい眉が寄せられてDIOが低く呻いた。暗闇の中に淡い琥珀色の目が開くのを見て、それまで夢主の中にあった死の恐怖が和らいでいった。
「……夢主?」
 相手の声を耳にしてわぁっと泣いた。体は疲れ切っていても涙だけは後から後からあふれ出てきた。
「……ここはどこだ? 私は……、!」
 DIOの脳裏で承太郎に体を裂かれた記憶がフラッシュバックする。痛む頭を手で押さえようとしたが腕は震えるだけで少しも動かない。
「私は……生きているのか?」
 DIOは信じられないといった顔で呟いた。
「ここは前に二人で来たピラミッドの中だよ。館にはもう戻れないから……」
 DIOは目だけを動かして涙を流し続ける夢主の顔を見る。
「お前に助けられたか……」
「待っていられなくてごめんね……」
 夢主は呼吸に喘ぎながら言った。喋ることも息をする事すら苦しい。DIOの体に縋り付いた夢主は冷たい汗を流し、浅い呼吸を何度も繰り返した。
「私に出来ることは……もうこれくらいしか残されてないから……」
 そう言って震える腕をスタンドに向けて差し出す。
「まさか……」
 DIOの前で振り下ろされたスタンドの手刀が夢主の皮膚を切り裂く。鮮血がDIOの顔にバッと降り注ぎ、その場は一瞬にして芳しい香りで満たされた。
「……の、飲んで……」
 ジョセフのように体を馴染ませる効果は無いが、少しでも回復の助けになるだろう。そう思ってDIOの唇に腕を押し当てる。
 DIOはそこから喉を通って流れ込んでくる血の味に目眩がするほど酔った。どの女でも満たされることはなかった豊かで甘くそれでいて薫り高い……この世のものとは思えぬ美酒だった。
 あまりの血の旨さにDIOはその白い肌に牙を突き立て、すべてを吸い出したい欲望に駆られる。今まで犬歯で吸血したことはないがその鋭い歯が耐えかねるようにぴくぴくと動いた。
「もう、よ、せ……十分だ……!」
 わずかに残った理性で腕から顔を背けた。これ以上の血を流しては夢主の体調はさらに悪化してしまうだろう。それにまだ人である彼女をこのまま失いたくなかった。
「……DIO」
 紙のように蒼白になりながら夢主は優しい目でDIOを見つめた。血で汚れた彼の頬をなぞり、愛おしそうに撫でる。
 彼を助けることが出来て嬉しい。彼が生きていてくれて嬉しい……素直にそう思う。
「よかった……」
 ぽつりとそう言い残した後、夢主はDIOの頬から手を落として冷たい地面に倒れ込んでいく。DIOの心にゾッとした冷気が走り抜け、動かない体を無理に動かして彼は夢主を引き寄せようとする。
「死ぬにはまだ早い……私の血で生き返るはずだ……!」
 今度は自分の腕を切ろうとするDIOの手を夢主の側に居たスタンドが止めた。
 夢主のスタンドは存在している。死んだのならこのスタンドも消えるはずだ。DIOは地面から伝わる夢主の脈拍を知った。
「ヒヤリとしたぞ……!」
 ホッとするDIOを見下ろしながらスタンドは夢主の体に腕を伸ばす。
 本体は気を失ったというのにスタンドは自我を保っているようだ。驚きで目が離せないDIOを前にぐったりとして意識のない夢主をその細い腕に抱え上げた。
『今から眠りにつきます』
「……眠り、だと?」
 制限を超えると膨大な休息を必要とする……そう教えたのは目の前のスタンドだ。
『望めばいずれまた巡り会うでしょう。彼女もそれを望むはず』
 暗がりに光が生まれ、その輝きにDIOは目を細める。
「……夢主」
 求めるように名を呼ぶと、気を失った夢主の代わりにスタンドが微笑んだ。
 淡い光の中へ溶け込む彼女たちをDIOはただ見ていることしか出来なかった。


 終 (4部に続く)




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