14


 それまで無理矢理に水底へ沈められるような、そんな息苦しさを抱えていた夢主は体がフッと楽になる感覚を覚えた。
 目を覚ますとそこは倒れた裏路地ではなく見慣れたDIOの部屋だ。一体、何時ここへ帰ってきたのだろう? 
「DIO……?」
 首だけを動かしてその姿を探すと彼はいつものようにすぐ隣で本を開いてた。
「DIOが……助けてくれたの?」
「随分探したぞ。やはり、お前には首輪と鎖を付けなければいけないようだな」
 苦々しく笑ってDIOは本をパタンと閉じる。夢主は夢を見ているような気持ちでそっと手を伸ばした。人間味の無い肌と触れ合ってこれは本物だと知る。
 花京院に捕まって承太郎に見下ろされたとき死を覚悟した。もうDIOに会えないと思っていた。
「……!」
 何も言わず、急に腕へ抱きついてくる夢主にDIOは驚きを隠せなかった。
「どうした? おい……、まさか泣いているのか?」
 呆れた言葉の後で後頭部を優しく撫でられてしまった。無事にここへ帰って来られた喜びで心はぐちゃぐちゃになる。夢主は彼の肩に顔を埋めて泣きに泣いた。
「体調はどうだ? もう熱は下がったのか」
 DIOに静かに聞かれて夢主はようやく涙を引っ込めた。痛みや苦しみはもうどこにも感じ取れない。袖で顔を擦って、取り乱した恥ずかしさを隠しながら頷いてみせる。
「茨のスタンドを奪ってごめんね……でも、もう後悔してないよ」
 どこか晴れやかに言われてDIOは苦笑するしかない。
「……少しだけその本を貸してくれる?」
 夢主はDIOが持っていた本を指差す。何をする気なのか……DIOが言われるがままに手渡すとあの茨のスタンドでページを撫でた。DIOが思う以上に使いこなしているようだ。
 スタンドが触れるとそこに書かれてあった文字は消え、いくつかの見知らぬ顔を浮かび上がらせる。
「こいつらは誰だ?」
「DIOの……子供たち」
 夢主の言葉にDIOは目を丸くさせた。
「……エンヤのお婆ちゃんに教えてもらったの」
 夢主はそんな嘘を言って一人だけ黒髪を持った可愛らしい子供を指差した。
「ジョルノだよ。ほら、肩に星型のアザがあるでしょう?」
 夢主の言葉をDIOは黙って聞いている。急にこんなことを言い始めた彼女が不思議で仕方ないらしい。
「汐華初流乃、イタリア語ではジョルノ・ジョバァーナ。ウンガロにリキエル、それからドナテロだね」
 完全に自分の物になったスタンドを試すために使ったが、まさか彼らが映るとは夢主も思っていなかった。しかしそれならそれで好都合だ。この後のことを思うと彼らの顔をDIOに知っていて欲しかった。DIOのことなので認知すらしていないのだろう。それなら余計に見て欲しかった。たとえ下らない余計な事だと思われても構わない。
「初めて息子を見た感想は?」
「……別にこれといって何の感情も湧かぬな」
 実にDIOらしくて夢主は吹き出してしまう。
「せめて名前くらい覚えてあげてよ」
 DIOはページに視線を落とすが、やはり何の興味も湧かなかったのかすぐに本を閉じてしまった。
「お前は時々、理解しがたいことをする……」
 子供の顔を見せられてもそれに心が揺れ動かされる事はなかった。不可解そうに眉を寄せるDIOを夢主はただ見つめ返す。まだ遠い未来がこれから先どうなるのか……全てを知っているはずなのに胸には不安しか込み上げてこない。
「もう少し寝ておけ」
 DIOの気遣うような声に頷きそうになって夢主はハッと思いとどまった。
「……ペットショップは?」
 DIOはその問いに沈黙した。それがすべての答えなのだろう。
 夢主も状況を察して押し黙った。彼の部下はあと四人しか残されていない。怪我の治療を受けたイギーと共に承太郎たちは明日にでもここへやってくるだろう……残された時間は本当にわずかだ。
(そんな……残された時間だなんて……)
 止まった涙が再びあふれてしまいそうだ。もう自分には何も出来ないのだろうか……
 肩を落とし、絶望に顔を歪めそうになって……夢主はそれをやめた。
「……DIO、彼はどこ?」
 沈む心を吹き飛ばすようにシーツを蹴り上げ、夢主はベッドから飛び起きる。
「彼……とは誰のことだ?」
「いいの、テレンスさんに聞くから!」
 こうしている時間すらもったいない。夢主はパッと背を向けてDIOの私室を飛び出していく。階段を一足飛びに駆け下りる足音が静かな館内のあちこちに響いた。



 ペットショップが居なくなったと聞いたのが昨日の話だ。
 日本を発って四十五日目の今日、彼らはここへやってくる。
 それなのに未だ熱を宿した体は言うことを聞いてくれず、夢主を深い眠りへと誘い続けていた。
 しかしさすがに館全体が激しく揺れ動けば眠りに落ちていた夢主も飛び起きずにはいられなかった。
「な、なに?」
 隣ではDIOが優雅に本を読み、長い足を伸ばしてくつろいでいる。いつもの様子だがどこか妙だ……暗い部屋には血の香りが充満しているし、そして何よりあの激しい音はどこから聞こえてくるのだろう。
 再びズズンッと低い音がして部屋が揺れ動いた。
「下でアイスが派手に暴れているだけだ」
 DIOの言葉に夢主はこれまでの状況を理解する。
「承太郎たちが来たの?! テレンスさんは……負けちゃったの?」
「ああ」
 これほど近くまで承太郎たちが来ているというのにDIOは冷静そのものだ。本を読み、ワインまで傾けていた。
 一方、夢主はとうとうこの時が来たのだと青ざめる顔をぎゅっと引き締めた。
「怖いか?」
 DIOに聞かれて夢主は首を振った。
「ううん……むしろこの日を待ってた」
 夢主の目には揺るがない強い決意が宿っていた。DIOはそんな彼女を見て小さく笑うと、読んでいた本を閉じてしまった。
「お前はここにいろ。全てが終わるまでここで私の帰りを待て」
「DIO!」
 諭すような声に夢主は声を荒げた。
「そんなの絶対いや……!」
「熱のあるお前が居ては足手まといだ」
「そ、それは……そうだけど……」
 夢主が悔しそうに呟いた時、また館が揺れ動いた。階下でアイスとポルナレフが死闘を繰り広げているのだろう。
「待てるだろう?」
 駄々をこねる子供を優しくなだめるような声だった。
(そんな……そんなのってないよ)
 どこまでも妖しく美しく、不敵な笑みを浮かべるDIOを見つめて押し黙る。
「それほど不安か……? それならこれを預かっていろ。後で取りに戻る」
 そう言ってDIOは片方の腕から金色の腕輪を取り外した。以前、夢主にプレゼントした腕輪と同じものだ。夢主に一つあげたのでもう片方と数が揃わないままだった。
「やだ、DIO……そんなの受け取れない!」
 死に行く者が言うような台詞に夢主はますます不安に陥っていく。堪らず涙をこぼす相手にDIOは目を見張り、楽しそうに笑って右腕に腕輪を付け与えた。
「安心しろ。戻ってきたら……お前の全てを奪ってやる」
「すべて……?」
「ああ。褒美としてこの身をもらうぞ。もはや我慢はしない。この肌も唇も……私の物にする」
 DIOは長い指先を頬から唇、胸へと滑らせていった。夢主はようやく彼の言わんとすることが理解できた。
「!? こ、こんな時に……」
 DIOの言うことが信じられず夢主の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。
 その様子にDIOは笑いながら立ち上がると、黄色い上着を着込んでザ・ワールドと揃いの額飾りを付けた。
 今まで赤かった夢主の顔がすぐに青くなる。
 いつの間にかアイスの破壊音が消えていた。館内は静寂そのものだ。その静けさとDIOが行ってしまう恐怖に夢主は打ち震える。
「DIO……」
 廊下へ出ようとするDIOの足が夢主の声を聞いて立ち止まる。DIOはベッド際へ戻ってきて、必死に見上げてくる夢主の頬を撫でた。
「このDIOが……おかしなものだな。お前の声を聞くと、どうしても触れてしまいたくなる」
 困惑するような……それでもどこか嬉しそうだった。二人で居る時に見せてくれた飾らない表情で夢主を見下ろし、涙で濡れる手を取った。
「処女の身を抱いて大人しく待っていろ。私がこの世に立つ姿をその目で見届けるまで」
 そう言って金の腕輪にキスを落とす。
「夢主……お前を愛している」
 DIOの言葉に夢主は何も言えなかった。あまりの衝撃に世界が止まってしまったようだ。
 ゆっくりと離れていくDIOをその目に映し、パタンと音を立てて扉が閉まっても夢主はただ呆然と座り込む事しか出来なかった。




- ナノ -