幸せはここから


 晴れ渡る青い空には太陽が輝き、綿あめみたいな白い雲がふわふわと浮かんでいる。教会の大聖堂からはパイプオルガンの調子を確かめる音が春風に乗って外に流れてきた。
「いい天気で本当によかったわ」
「確かに。先日の雨が嘘のようだ」
 もうすぐ五十を迎えるとは思えない若々しい婦人は、ゆっくりとした足取りでホールへ向かう老人の腕を支えた。
「ジョージはまだかね」
「もうすぐ来るはずですわ。お父様」
 そう言って朗らかに微笑む彼女を、今では関係者がほとんど残っていない北米大陸横断レースの走破者、ジョニィ・ジョースターは穏やかな目で見つめた。息子のジョージと結婚したエリザベスは美しく、聡明で気高い女性だ。ジョニィが甘やかしてしまったせいか、少し頼りないところがある息子にはもったいないほどの人格者だった。
「お母様、それにお爺様!」
 二人の姿を見つけた年若い娘が奥から駆けてくる。
「あらまぁ、気合いが入っていること」
 エリザベスはクスッと笑い、ジョニィも同じく笑顔を見せた。
 手には小さなブーケ、アップした髪にきらきら輝く飾りを乗せ、淡い水色のドレスを着た夢主は、ジョージとエリザベスの間に出来た四人兄弟のうちの次女だ。
「見て、お爺様。可愛いドレスでしょう?」
「とても似合っているよ。さすが私の自慢の孫だ」
「うふふ、お爺様大好き」
 夢主はそう言って祖父と挨拶のキスを交わす。ぎゅっと強く抱きしめてくる彼女がジョニィは愛しくて仕方がない。
 下半身不随という大きなハンデをものともせず、過酷なレースを走り抜けたジョニィを誰よりも尊敬し、暇さえあればその話を聞きたがるので祖父の寵愛を一番に受けているのも彼女だった。
「もう、おじいちゃん子なんだから……」
 母親からの呆れた声に夢主は肩を竦める。
「だって、ジョースター家の英雄だもん」
 レース当時から何十年も過ぎた今、それでもジョニィの活躍は本や映画となって伝えられている。夢主はそんな偉大な人物を祖父に持てたことが誇らしくて仕方がなかった。ジョニィは微笑んでそんな孫の晴れ姿に目を細める。十九歳の自分では想像も出来なかった幸せで豊かな老後生活だ。
「おーい、夢主! スージーの準備が……」
 不意にドアの奥から姿を見せた青年が大声で話しかけてくる。薄いグレースーツの胸元に花を飾った相手は、夢主の姿を見てすぐに声を無くした。
「今行くわ、シーザー」
 祖父の腕から離れ、夢主は弟の親友であるシーザーの元へ向かった。ふわふわの金色の髪に優しい緑色の目、薄い唇は女を惑わす甘言を囁くためにある。知り合った当時、夢主はそれにどれほど心を揺らしただろう。
「今日は一段と素敵だな、シニョリーナ」
「ありがとう、シーザー。あなたも素敵よ。ここに取り巻きの女の子たちが居たら、揉みくちゃにされるわね」
 花嫁の付き添い人として着飾った夢主はそう言ってくすくすと笑った。シーザーは照れつつも、困ったように眉尻を下げる。
「スージーの準備が終わったのね? ジョセフの方はどう?」
「ああ……あのスカタン、まだ二日酔いでぶっ倒れてる」
「まぁ、呆れた……独身最後だからって羽目を外すからよ」
「悪い。だけど、それは夢主たちだって同じだろう?」
 マリッジブルーになっていたスージーを外へ引っ張り出して、何人かの友人と朝から騒ぎ倒した事を夢主は思い出す。女だけの落ち着けるパーティのおかげでスージーは不安の全てを吐き出すことが出来た。弟のジョセフには感謝してほしいくらいだ。
「私たちはお酒で酔い潰れたりしません」
 ちくりとした嫌味にシーザーは苦笑をこぼした。
「……あなた達、いつまでじゃれあってるの。ほら早くスージーの様子を見てきなさい」
 母親に急かされて夢主は恥ずかしそうに頬を染める。
「こんにちは、ジョースター卿。それにミセス。ジョセフの事は俺に任せて下さい」
 シーザーはジョニィとエリザベスに一礼し、夢主と共に花嫁と花婿、それぞれの控え室へ戻っていく。彼らの若い後ろ姿にジョニィは何かを感じ取った。
「あの二人……まだ付き合っておらんのかね?」
「ええ。でも、どちらも相手の事が気になって仕方がないようね。付き合うのも時間の問題だと思いますわ」
「そうか……それはいい」
 今は無きネアポリス王国からアメリカへ、海を渡ってきたツェペリ一家と親身に付き合ってきたジョニィとしては喜ばしい事だ。息子夫婦の娘とジャイロの弟の息子……再び彼と繋がりが持てたようで嬉しい。
「俺はあなたと共にこの大陸を走り抜けた祖父と同じ名を持てたことに、何よりも誇りを持っています」
 ジュリアス・シーザー・ツェペリ、ジャイロと同じ名を受け継いだ彼は、最初の挨拶の後にそう言った。その時の驚きと感動を思い出すとジョニィの胸に熱い思いが込み上げてくる。
「孫の結婚式というのはいいものだな……」
 早くひ孫が見たい、そう思うのはさすがに気が早すぎるだろうか。今でも馬の手綱を操る老いた手を撫でて、ジョニィは優しい笑みを浮かべた。


「汝、病めるときも健やかなるときも……」
 静まりかえった聖堂内で神父の厳かな声だけが響きわたっている。
 うっすらと頬を染めるスージーの姿に花嫁側に立った夢主は思わず泣きそうになった。小さい頃からふざけてばかりの弟・ジョセフも、今日ばかりは真剣な表情で花嫁が宣誓する声を聞いているようだ。
「俺も誓うぜ、スージー……一生、お前だけを愛し続ける」
 ジョセフはそんな誓いの言葉の後、スージーの顔を覆うベールをそっと外し、控えめながらも情熱的なキスを交わした。夢主は側にいた友人と歓声を上げ、たくさんの拍手を送る。同じくジョセフ側の友人達もワッと声を上げて二人を祝福した。
 抱き合うジョセフとスージーは少し長めのキスをした後、くすぐったそうに笑った。幸せそうに微笑み合う彼らに夢主の胸は一杯になって涙を堪えることが出来なくなった。

 この後に控えたライスシャワーの準備に追われる中、シーザーはふと、物陰で涙を拭う夢主の姿を見つけた。
「大丈夫か?」
 近づいて声を掛ければ、夢主は恥ずかしそうに背を向ける。
「平気……大丈夫よ」
「君までマリッジブルーとはな……ジョセフが居なくなるのがそんなに寂しいか?」
 寂しくないわけがない。だって家族なのだから。お茶目で少し意地悪で、でもとても優しい弟が夢主は大好きだった。家族のムードメーカーとしていつも明るい笑顔を振りまいていたように思う。
「可愛い君に涙は似合わない。ほら、こっち向いて。俺がその涙を拭ってやるから」
「ありがとう、シーザー……でもこんな顔、あなたに見られたくないわ。すぐに戻って準備を手伝うから……ごめんなさい」
 化粧が落ちた目元はきっと酷い有様だろう。夢主はハンカチで顔を隠し、その場をそっと後にした。
「……参ったな」
 去っていく夢主の背に向けてシーザーはぽつりと漏らす。
 喧嘩仲間のジョセフから姉を紹介された時、正直なところ絶対に嘘だと思った。195センチもある大柄なジョセフの姉だ。彼を女装させたような人物を想像していただけに、母親の美しさをそのまま引き継いだ姿を見た時は衝撃が隠しきれなかった。
「おいおい、会ったばかりの親友の姉を口説こうとするか、フツー?」
 なんてジョセフにはからかわれたが、シーザーの体に流れるラテンの血が騒ぐのだから仕方がない。
 会う度に軽口は減り、その分本気が増した。大親友のスージーの恋心を応援し、一生懸命になる夢主の姿にますます想いは募った。祖父の代からの縁もあってこれはもう運命だと思う。
「どうも勘違いしてる……俺にはただ一人、君だけなのに」
 この前、街で偶然出会った女友達に囲まれてお茶をしている場面を夢主に見られてしまった。それがあまりに決定的だったのか、こうして距離を置かれ始めている。シーザーは大きなため息を付いて今日のために整えた髪をぐしゃりとかき混ぜた。



「あら、ジョセフ。タイが曲がってるわよ」
「ん? そうか? 悪いな、スージーQ」
 神に誓い合い、夫婦になったばかりの二人は人目も気にせずさっきからこの調子でくっついている。涙で崩れた化粧を直した夢主は新婚夫婦のそんなやりとりに肩を竦め、甘い雰囲気をかき消すように咳払いをした。
「二人とも顔が緩みきってるわよ。式はまだ続いてるんだから気を抜かないで」
「何だよ、夢主。やけにご機嫌ナナメじゃねーの。いい加減、シーザーを許してやれよ」
「あら、夢主とシーザーは喧嘩してるの?」
「つまんねー事でな。だから俺は最初に注意しただろ。あいつはスケコマシだって」
「うふふ、シーザーは女の子に人気者だもんね。でも気にすること無いわ。だって彼……」
「二人ともッ! お喋りはそれくらいにして準備をして!」
 夢主はスージーの言葉をピシャリと遮り、用意してあったブーケトス用の花束を彼女に手渡した。
「おー怖ぇ。昔から怒ると怖いんだよなぁ、夢主ちゃんは」
「まぁ、ジョセフったら。あなたが怒らせるようなことばかりするからよ」
 再び睦み合い始めた二人に夢主は額を覆ってドアに足を向ける。
「もう……これだから新婚は……」
 感動してさっきまで涙していた自分が何だか馬鹿らしくなった。
「夢主、あなたに向けてブーケを投げるからね」
「お! スージー、そりゃあいい考えだぜ。ジョースター家で結婚してないのは、とうとう夢主だけになっちまったからなぁ」
「心配しなくても夢主なら大丈夫よ」
「どうだか……せっかくいい感じなんだ。早くシーザーと仲直りしておけよ」
 そんなジョセフの言葉に対、夢主は顔を歪めて舌を出した。扉を閉める頃にはさっきまでのしんみりとした気分は吹き飛び、いつものジョセフの軽口だと分かっていながらも、ムカムカと腹が立ってくる。
「ん、あの二人はどうした?」
 外に出る途中、シーザーに話しかけられたが夢主はライスシャワーのカゴを素っ気なく手渡した。
「ははぁ……ジョセフに何か言われたな? 気にするな。あいつ浮かれきってるんだ」
 すぐに原因を察した彼はそう言って髪を軽く撫でてくる。最初は驚いて喜んだその行為も、女なら誰にでも同じ事をするのかと思うと素直に喜べなくなった。その気がないのなら優しくしないでほしい。気のある素振りを見せられる度に夢主の純情は彼のせいで今やボロボロだ。
 感情が高まり、違う意味で泣きたくなってきた夢主はシーザーの優しい手から逃れるように一歩引いた。
「……なぁ、夢主。どうか逃げないで欲しい。多分、君は誤解してる」
「気に障ったのならごめんなさい、シーザー。でも私……軽く思われたくないの」
「まさか。君は今まで出会った中で一番の淑女さ」
 やはりあの女友達のことを誤解しているようだ。シーザーは確信を持ってそう思う。それはつまり、夢主もシーザーの事を気にかけているということだ。間違いでなければきっと二人の想いはお互いに向き合っている。再び泣き出してしまいそうな相手の顔を眺めつつ、シーザーは心のどこかで安堵した。
「とにかく聞いてくれ。ジョセフから色々と聞かされているとは思うが……すべてが真実な訳じゃあない。君は親友の姉で、尊敬するジョースター卿の孫娘だ。誓って軽い気持ちで口説いたつもりはない」
 シーザーの目は真剣な色を帯びて、こちらをひたすらに見つめてくる。熱い想いを含んだその目に夢主は堪らず視線を泳がせた。招待客から少し離れたところにいる事だけが幸いだ。
「でも……」
 聞きたいことや、言いたいことはたくさんあったはずなのに、喉に込み上げてくる感情に遮られてどうしても言葉にならない。夢主は腕に持ったままのカゴを手持ち無沙汰にいじりながら、教会の扉が大きく開くのを見た。ふと、こちらの様子を見つめる母親と祖父の視線に気付いた夢主は自分の今の役割を思い出した。
「シーザー、話はまた後で……」
 これから姿を見せるジョセフとスージーのために早く列に戻らなければならない。背を向けようとする夢主の腕をシーザーはとっさに掴む。
「離して」「待ってくれ」とお互いの言葉が飛び交うより先に花嫁の明るい声が辺りに響いた。
「ちょっとぉ! 二人ともどうしてそんなに遠くにいるの?」
「スージー、いいからもう投げちまえよ」
 ジョセフに言われるまま、スージーは大きく腕を振って手に持っていたブーケを放り投げた。それは意外にも大きな弧を描いて招待客の頭上を越えて飛んで行ってしまう。
「あのバカ夫婦……」
 ブーケトスはライスシャワーの後の予定だ。先に終わらせてどうする……シーザーは呆れつつも、軽く飛び上がってこちらに向かって飛んできた花束を捕らえた。
「あら? どうしよう、シーザーが取っちゃった」
「今回ばかりはそれが正解のようだぜ」
 花嫁と花婿の声、それと招待客の視線、あらゆるものすべてを無視してシーザーは地面に片膝を付いた。
「偉大な祖父から受け継いだツェペリの名に誓って言う。俺は君だけを愛してる。どうか結婚を前提に付き合って欲しい」
 一族に対する誇りの高さを知っている夢主は彼の言葉に胸が締め付けられてしまった。それは神に誓うよりも重々しい一言だ。
「本当に?」
「信じられないなら何度でも言うさ。ジュリアス・シーザー・ツェペリの名にかけて、君を俺の花嫁に迎えたい。証人はここにいる招待客と親愛なるジョースター卿だ」
 それまで成り行きを見ていたジョニィは急に名を出されて我に返った。二人の間で行き違いがあったようだが、シーザーはやはりツェペリ家の男児だ。まっすぐで譲らない誰かを思いだしてジョニィは微笑んだ。
「夢主の返事は……私が聞かなくても、もう決まっているようだ」
 ジョニィの言葉が終わらないうちに夢主は膝を付いたままのシーザーに抱きついていた。
「あらまぁ……ようやくね。おめでとう」
 エリザベスは手にしたライスシャワーを彼らに向けて振りまく。それらがパラパラと落ちてくる中でシーザーは夢主の唇を優しく奪った。
「おいおい……今日の主役はこっちだぜ? 分かってる? シーザーちゃ〜ん」
「ジョセフ、野暮なことは言いっこナシよ」
 スージーはくすっと笑って、白く着飾った花婿の腕を抱いた。
「でもちょっと残念ね。私も花嫁の付き添い人やりたかったなぁ」
「馬鹿、あれは未婚の女だけだろ。それによぉ、スージーQ……お前には花嫁姿が何より一番似合ってるぜ」
 スージーはその言葉にぽっと頬を染め、嬉しそうな笑顔を見せる。
「うふふ、ジョセフったら……もうっ!」
 扉の前で戯れ始める新郎新婦と、熱い囁きを交わしあうその友人たち……招待客は目のやり場に困りながらも、惜しみない祝福を送るのだった。

 終




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