15


 ゴールを決めたはずの7thステージから1stステージへ、凄まじい勢いで馬が逆走してサンディエゴに戻るのをディエゴは指輪の輪に囲まれた空間内から眺めていた。
「おい、どうなってる。これは何だ?」
 振り向いた先にいるのは先ほどのスタンドで、その足元に横たわる夢主の上に天秤をかざしたままピクリとも動かない。
「訳が分からない……一巡前、とか言っていたがどういう意味だ?」
 ぶつぶつ言いながら出口を探してみるが、狭い輪の中にそれはもとより見つからなかった。
「クソ……お前のせいだぞ」
 ブーツの先で夢主の体を軽く突いてみる。死んだようにも見えるが、胸は確かに上下しているので生きているらしい。
 大きな溜息をつく頃には周りの景色はレース開幕時をとっくに過ぎ去って、見たこともない動物や恐竜が死と生を繰り返していた。そのうち暗闇に包まれた中でディエゴはかすかに揺れる天秤を覗き込む。
「……減ってるな」
 そこにあったいくつかの輝きが順番に失われていく様子にディエゴはしばらく魅入った。
「なぁ、おい……記憶と思い出だけは残してやれよ。次に起きた時、また記憶喪失なのは面倒だ。ここまで付き合ってやった俺のことをすっかり忘れるなんて……許せると思うか?」
 そう言って天秤台を指先で叩くとディエゴから二つの輝きが抜け落ちる。それがスタンド能力ではないことに安堵しつつ、金の腕輪が再び彼女の左腕に通されるのを見てディエゴはその手を取った。
「今まで詳しく見たことがなかったが……これは男物か?」
 何となく気になってその内側を見る。
「DIO?」
 そこに彫られた文字を口にした途端、ディエゴは指輪内から放り出された。
 夢主もスタンドも瞬時に消え失せて、花が香る月夜の庭先にドサッと腰を強く打ち付ける。
 目の前のあまりの移り変わりように頭痛を覚えながら立ち上がろうとすると、パチンと剪定ばさみを響かせる音がすぐ側で聞こえた。
「……DIO様?」
 訝しむ声と共に姿を見せたのは顔に妙な模様を描く一人の男だ。
「何をやられているのです? その馬はどこから?」
「……誰だ?」
 いつでも攻撃出来るよう、爪先を鋭くさせながらディエゴは身構える。
「誰だとは心外な……執事のテレンスでございます。まさか、寝ぼけていらっしゃるのではないでしょうね? それともイタリアワインの飲み過ぎで酔っておられるのでしょうか」
 まったく聞き覚えも、見覚えもない相手にディエゴは眉を寄せる。どうやら似通った誰かと間違えているのだとは分かったが……
「おい、DIOという奴を知っているのか。知っているならここに呼べ」
「……」
 たっぷりと間をあけて、執事とやらがディエゴの顔を覗き込んでくる。角度を変えて何度も確認し、唸りながらなぜか目の色と耳たぶを眺めた。
「……何の騒ぎだ? 妙な気配がするが……」
 不意に室内から姿を見せた男にディエゴは今度こそ声を失った。
 同じ金色の髪に双子かと思うほど似通った顔立ち、体格こそ相手の方が大きいが同じ血の流れを感じずにはいられない男が不審そうに眉を寄せて立っている。
「……? 何だ、此奴は?」
 首を傾げ、腕を組むそこに、先ほどディエゴが触れて確認した同じ腕輪があることに気付いた。
「DIO様、突然現れたのです。しかも馬を連れて」
 執事の一言でディエゴは嫌と言うほど理解した。目の前の男がDIOという人物で、夢主にあの腕輪を贈り、おそらくはこいつに会うためにすべてを捨ててまで願いを叶えてもらったのだと。
「ほう? 私に酷く似ているな……ドッペルゲンガーか? 名はあるのか?」
「ディエゴ・ブランドー、通称はDioだ」
 忌々しげに答えると、相手は目を見開いて驚きに彩られた表情で見下ろしてくる。
「ブランドー……まさかとは思うが、お前の父親は……」
「そんなことはどうでもいい。それより夢主はどこだ? あいつはどこにいる?」
 苛立ちを乗せた声にその場の空気が変わった。
「何ッ!? 貴様……!」
「あなた、夢主様を知っているのですか!」
「知っているも何も……いや、待て、ここにはいないのか?」
 飛びかかってくる勢いの二人を押しのけて、ディエゴはシルバー・バレットのところまで下がる。馬の呼吸は落ち着いていて、その息は幻でも何でもなかった。
「私たちは夢主様を探しているのです。少しでも手掛かりがあればと……」
「知っていることを教えろ。殺されたくなければ」
 距離を取って離れたはずがいつの間にか元に戻っている。ディエゴは今にも噛み付きそうな表情で胸ぐらを掴んでくる相手の手を振り払いながら、その背後に構えるスタンドを見た。それがDIOという男が持つスタンドで、今まさに能力を使ったのだろう。
「その前にここはどこだ? 俺たちはフィラデルフィアに居たはずだが……」
「フィラデルフィアですって? アメリカの……? ここはイタリアのナポリですよ」
 テレンスの説明にディエゴも眉を寄せる。あまりにかけ離れた場所にさすがに混乱が隠せなくなってきた。
「お前がそこに居たのはいつの話だ。夢主も……そこに居たのだな?」
「ああ。俺たちはレースの最中だった。7thのゴールを決めたのは……12月28日の15時頃だ」
「レース? 何のレースです? まさか競馬ですか?」
 テレンスは庭の雑草を食べ始めた馬を見て言う。
「この時期にレースと聞けば、スティール・ボール・ランレースしかないだろう。子供でも知ってる事だぞ」
 どうにも話が噛み合わない。テレンスは意見を求めてDIOを見る。
「どうやら……今宵は長くなりそうだ。中に入るがいい。詳しく聞かせろ」
 背を向けてリビングに戻るDIOに、ディエゴは少し躊躇いつつも結局はその後を追った。
 ソファーに腰を下ろす彼らを余所にシルバー・バレットはたてがみを震わせ、潮風に鼻を鳴らしながら月を仰いだ。



 ……勝者のインタビューを終えて控え室に戻り、荷物をまとめて外に出るとすでにテレンスが車を回して待っていた。最初はすぐに酔ってしまったこの乗り物にもようやく慣れてきた。ディエゴは後部座席に腰を下ろすと、疲れた体を背もたれに預ける。
 あれから二年が過ぎて、ディエゴは以前と同じ騎手の生活に戻った。DIOの息が掛かった馬主はディエゴに惜しみなく速い馬を預けてくれるし、何もかもが発達したこの時代は目まぐるしくはあるが、あらゆる物があふれていてとても豊かだ。
「ディエゴ様、今夜はいかが致しましょう」
 あの夜の会談の結果、DIOの遠い親戚ということで落ち着いた彼をテレンスはそう呼ぶようになった。ディエゴは窓に映るナポリの街並みをぼんやりと眺めながら夕食は屋敷で取ると返す。
「あいつはまだ見つからないのか?」
「ええ。探してはいるのですが……」
 イタリア競馬界に突然現れて勝ち鞍を稼ぐディエゴを国内外の様々なメディアが取り上げたにも関わらず、一番欲しい情報は彼の元へやってこない。どこかに隠匿され、情報操作でもされているのではないかと疑いたくなるほど、夢主の居場所は依然として掴めないままだった。
 しばらく車で移動して広い屋敷に戻ると、うんざりするほどの暗闇が待ち構えている。その中を慣れた様子で歩きバスルームで汗を洗い流すと、半裸の状態でリビングから広い庭先に足を向けた。
「シルバー・バレット」
 名を呼ぶと奥の茂みから面長の顔を見せる。駆け寄ってきた愛馬を撫でて鞍のない裸の背に乗ると、涼しい夜風がディエゴの髪を撫でた。
「……テレンスの奴め、いつまで経っても下手だな」
 後ろを歩いただけで蹴ってくるような体の大きな動物は嫌いらしい。それがある限り手入れは上達しないし、シルバー・バレットもそんな相手に触れられたくはないだろう。ディエゴはガタガタに切られたたてがみを撫でつつ、そこに体を預ける。
「お前もあいつに手入れされたいだろう」
 乗馬服姿で懸命にブラシを掛ける彼女の姿を思い出すと、小さな痛みを含んだ苛立ちが沸き起こる。あの時、掴んでしまったことに後悔はないが、これほど待たされ続けるとは思いも寄らなかった。
 競馬場の場内か、それとも街角か……いつか出会えた時には叱りつけて、文句の一つでも言ってやらないと気が済まない。
「シルバー・バレット、俺が許す。軽く噛んでやれ」
 その時を思うと心が躍るようだ。馬に体を預けきって今日の疲れを癒やしてもらいながら、夢主の体の柔らかさを思い返す。そのうちに漂ってきた夕飯の香りに誘われて地面に足をつけると、体をほぐしながらレース中でもそれ以前でも味わえなかった美食を求めてダイニングへ歩いて行った。


 レースのない翌日を与えられた広い客間で目を覚ましたディエゴは、体に残る酒の酔いをシャワーで洗い流した。開くことが許されないカーテンのせいで太陽は拝めないが、時計を見れば十時を過ぎている。朝食としては遅く、昼飯には早いが、何か軽く食べたい……そう思って部屋を後にし、一階へ続く階段を降り始めると下でテレンスの声が響き渡った。
「なっ……夢主様ッ!?」
 勢いよく手すりから身を乗り出して覗き込めば、確かに彼女の姿だ。服装こそ違うが、あの時から何も変わらない様子に安堵しつつ、わずかな不安が生まれる。取引で彼女の記憶と思い出は残したはずだが、それが守られているかディエゴには分からない。
「……チッ」
 わずかに躊躇う彼の鼻先に廊下の奥からDIOの臭いが近づいてくる。のんびりしている暇はない、すぐにでも行動しないと自分によく似た相手に掻っ攫われてしまう……そう感じた次の瞬間には恐竜化して力強く手すりを蹴っていた。
「テレンスさ……ッ!?」
 夢主が執事との再会を喜んでいると、突然、頭上から現れた誰かに抱きしめられて息を詰める。顔を上げようとしても力強く押さえつけられて、少しも身動きが取れない。
「あの……ちょっと……!」
 誰かの腕の中で藻掻いていると、今度は背後から腕が回されて胴を締め上げられてしまった。
「なぜお前がここに居る。さっさと部屋に戻れ」
「それはこっちの台詞だぜ。お前こそ書斎に戻れよ」
 目を赤く燃やすDIOと、青い目で冷たく見返すディエゴ……彼らに前と後ろから抱き込まれた夢主は、どちらも聞き覚えのある声に歓喜に震えながら名を呼んだ。
「……ディエゴ? ……DIO?」
 少しだけ緩まった腕からどうにか上を向くと、今にも泣いてしまいそうなほど顔を歪め、しかし心から嬉しそうな深い笑みを浮かべた二人がいる。
「「夢主」」
 重なる甘い声に嬉しそうな笑顔を返す彼女を、彼らはきつく抱きしめて離さなかった。

 終




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