12


 早朝からすでに天候は悪く、時間が経つにつれて雪と風の勢いは強くなった。
 北緯45度を越えてゴールのヒューロン湖に向かう6thステージは、砂漠に次ぐほどの過酷なコースだ。雪と寒さが人馬に襲いかかり、体力と気力を容赦なく奪っていく。風が背後と横から来る時だけ進行し、前方から吹き付ける時は足を止めてやり過ごさなければ自滅するだけだというのに、足止めを食らって焦れた選手がまた何人も飛び出していった。無謀なその行為をディエゴはチェック・ポイントの寒村から見送ってすぐに戸を閉める。
「このステージでかなり人数が削られそうだ」
 スタート時に3852名いた選手は、減りに減って今や374名。その中でも6thのゴールをくぐり抜けられるのはおそらく半数以下だろう。
「夕飯が出来ましたよ〜」
 ホテル代わりに与えられた平屋には簡素ながら煮炊きが出来るかまどが残されていた。そこに火を熾し、湯を沸かして温かな食事を取ることは、外で凍える他の選手たちからみれば垂涎の的だろう。そうでなくても馬の世話や身の回りの雑事を夢主に任せ、自身は休むことが出来るその状況を羨ましく思う輩は多い。
「パンとスープか、外の奴らに比べたらこれでも贅沢だな」
「肉も野菜もたっぷり入ってますからね」
 木の板をトレー代わりにして今日の夕飯をディエゴに渡す。用意していた栄養たっぷりな飼い葉を桶に入れ、柱に打たれた釘に引っかけると、何もないリビングに押し込められたシルバー・バレットは喜んで餌を食べ始めた。
「それにしても嫌な天気……明日は晴れるでしょうか?」
「そう願いたいな」
 シルバー・バレットの世話を終え、馬具の手入れや荷物の準備も終えている。あとは出発するだけなのに、雪と風がまだそれを許してはくれないようだ。
「この後はどうします?」
「片付けたらさっさと寝るぞ。起きていても体力の無駄だからな」
 その言葉通り、食事を終えたディエゴはすぐに寝床の準備に取りかかった。何もない村で支給されたのはこの平屋と馬のための藁だ。それを少し多く分けてもらい、シルバー・バレットの横に積み重ねる。
 夢主はその間に湯を沸かし、携帯用の水筒へこぼれないように注ぎ入れた。簡易的な湯たんぽを藁の中に置いて、広げた毛布の中へ二人で潜り込む。
「あれほど金をせしめておきながら、こんな宿しか用意出来ないとは……大会側の不備にも程があるぜ」
「仕方ないですよ。ここが唯一残された村ですから」
 列車も滅多に止まらない寂れた所だ。厳しい寒さにここでの暮らしを諦め、他の土地に移る者が後を絶たないと聞かされた夢主は、そんな慰めの言葉を口にする。
「フン……こんなところ俺は二度と来る気はない」
 脱いだブーツを毛布の外に置いて二人は素足を合わせる。熱いスープを飲んだおかげか、どちらの足先もそれなりに温まっていた。
「隙間を作るな」
「ごめんなさい。これでどうです?」
 相手を毛布で包み、足を絡めながらぴたりと身を寄せる。鍛え上げられたディエゴの太股に挟まれると、改めて立派な騎手だと言うことを思い知らされるようだ。
「……いいぞ。寒くはないな」
 そう言いながらディエゴは彼女の服の中へ手を滑り込ませ、滑らかな背中にくっつけた。
「……ぅ」
「どうした、冷たいか?」
「少し……あと、くすぐったいです」
「すぐに気にならなくなる。ランプも消える頃だ」
 その言葉が終わらないうちに、小屋を照らしていた唯一の明かりがなくなった。暗がりの中で響くのは猛烈に吹き付けるブリザードの轟音と、シルバー・バレットの鼻息、そしてディエゴの心音だけになる。
「明日こそミシガン湖を渡れるといいですね」
「そうだな……原住民のルートを知る今なら上位に食い込めるはずだ」
 指輪を背に受けた夢主は記憶と共に念写の力を手に入れた。紫色をした長い茨をミシガン湖周辺の地図に叩きつけると、バシャッと何かを撮すような音がして新たな模様が刻みつけられる。湖の対岸へと続く一本の線がディエゴの言うルートを示しているのだろう。彼はそれをペンでなぞり、よくやったと褒めてくれたのが昨日のことだ。
「役に立てたなら嬉しいです」
 微笑む夢主をちらりと見たディエゴは、胸に沸き立つ知らない感情に眉を寄せる。
 温かな相手をこのまま抱きしめ続け、己の腕の中に閉じ込めておきたい。誰の目にも触れさせず、屋敷の奥へ隠しておきたいような……そんな気持ちがあふれそうになってしまう。
「……このレースが終わったらどうするつもりだ?」
「そうですねぇ……私を知っている人がすぐに見つかればいいんですけど……」
 これほどディエゴの側にいるのに、ここから離れていく夢主の姿を想像すると途端に気分が悪くなる。獲物を横から奪われるような不快感に、見つからなければいいとさえ思った。
「そうじゃあない場合は……もう少しだけお世話になってもいいですか?」
「少しなら考えてもいいぜ」
 名乗りを上げる者を片っ端から葬り去っていけば、いつかはディエゴだけのものになるだろうか。柔らかな体とこの素直な心が手に入るのなら、それをやるだけの価値はあるように思えた。
「無理ならいいんです。仕方ないですよね、レースで忙しい訳ですし……その時はホット・パンツさんにお願いするので気にしないで下さい」
「……は? なぜここで奴の名が出てくる?」
「駄目ならスティール氏でもいいんですけど……」
「おいおい、あのロリコン野郎が何の役に立つって言うんだ?」
 それまでのふわふわした気持ちが見事に吹っ飛んでいく。ディエゴは耐えきれずに勢いよく身を起こした。
「だって大会主催者な訳ですし……ホット・パンツさんもヴァチカンの関係者なら少しは……」
「どちらもいいように使われるだけだ。その点、俺ならこのままバレットとして生活を保障してやれるぞ」
「でも……」
「うるさい! 何も言うな。黙って寝ろ」
 言葉を続けようとした夢主を遮って、ディエゴはバサリと毛布を被り直す。入ってきた冷気はすぐに二人の体温で温められ、程よいぬくもりへと変化した。
「……」
 喋るなと言われた夢主は許しを請うかのようにディエゴの髪を撫でる。記憶の中にちらりと出て来たそれと同じ色合いに気付きながら、知らない振りをした。
「……クソ、子供扱いするな」
 ディエゴはそう言いつつも夢主の柔らかな胸に顔を寄せて、心の奥でぐるりと唸る声を押し込めた。


 難なくミシガン湖を越えてゴールを迎えたディエゴは、近くに張り出された順位表に目を止める。1位はジャイロ、2位はジョニィ、3位はポコロコといつものトップグループだ。一方、ディエゴは20位という着順だ。決して良くはないが、馬の調子から考えれば悪くもないだろう。
(あの場所で休めたのは幸運だったな……)
 強烈なブリザードが吹き荒れる中、小屋から動かずに温かな中で養生することが出来たのが何よりも大きい。シルバー・バレットの調子が戻ってきた今、再びトップに返り咲くのは容易だろう。
「ディエゴ!」
 補給所から駆け寄ってきた専属のバレットは今にも泣きそうな笑顔を見せている。着外だった4thと5thを思えばそんな顔にもなるのだろう。
「夢主」
「はい!」
 馬から下りつつ名を呼べば、元気な返事が返ってくる。
「シルバー・バレットに水をやってくれ」
「任せて下さい」
 手綱を引く彼女の肩を抱きながらディエゴは補給所へ向かう。凍てつく寒さは消えて、もうどこにも感じられなかった。


 12月7日にスタートした7thステージはマッキーノ・シティからゴールのフィラデルフィアまで1300キロの道のりだ。そこを抜ければ最終ゴール地点のニューヨークまで残りわずかとなる事から、ディエゴの意気込みはこれまで以上だった。
「指輪のことは後回しだ。ここはとにかくゴールすることを優先する」
 ジョニィとジャイロが指輪を探し出すなら、ディエゴが気に掛けなくてもいずれは集めきるだろう。
「フィラデルフィアで俺は総取りを狙いにいく。お前は先に市庁舎に潜り込んでおけ」
 レースの優勝も指輪の争奪も最後にはすべて手に入れる。そう豪語するディエゴを7thのチェック・ポイントから眩しそうに見送って、夢主は先にゴール地点へ移動した。
 荷物の整理に追われながら市庁舎の周囲を探る日々が何日か過ぎた頃、トップグループがゴールに近付いている事を聞く。ディエゴがここへやってくるのももう時間の問題だ。
 意を決した夢主はシカゴ以来、厳しくなった警備の中を慎重に移動し、市庁舎内へ足を踏み入れた。
 3階に辿り着くと同時にガチャリと音がして近くの部屋の扉が開く。中から出て来たのは水差しを手にしたファーストレディだ。夢主は足音を消して近付き、そっと話しかけた。
「ルーシー」
「ひっ!」
 急に名を呼ばれて驚く彼女の手から水差しが滑り落ちる。とっさにそれを掴んでルーシーの手に戻しながら、夢主は顔だけをちらりと見せた。
「あなた! ああっ……」
「どこか人目のないところはある?」
 頷くルーシーの後を追いかけて小さな部屋に二人だけで入る。スタンドを解除すると彼女はあからさまに安堵した表情になった。
「指輪はどう? まだ持ってる?」
「ええ。ここにあるわ」
 ルーシーはスカートのポケットを上から押さえる。
「大統領の様子は?」
「いつも通りよ。でも……数日前、夜の予定を変更してどこかへ出かけたみたい」
 ジョニィたちと連絡が取れない事がもどかしい。何かがあって、奪われたのだとしたら今のうちに取り返すのが最善だろうか。敵地のど真ん中、だからこそ相手は油断するに違いない。
「この建物内でまだ入っていない部屋はある?」
「そうね……大広間と大統領の寝室かしら……」
 シカゴで見た夫人の無残な姿を思い出して二人は同時にぶるりと震える。再びあのようなスタンド攻撃を食らうのは避けたいが、大統領を守るスタンド使いは必ず居るだろう。
「私も探してみる。ルーシーはどうする?」
「大統領からお茶に誘われているの。抜け出すことは出来ないと思う」
 憂鬱そうな彼女を元気づけようと言葉を探すが、何も見つからなかった。ルーシーが笑顔を取り戻す時は何もかもすべてが終わった時だ。
「寝室を調べた後で向かうね。気を付けて」
「ええ、あなたも」
 ルーシーが開けてくれたドアをくぐって廊下に出る。教えられた部屋に向かうと、大きなベットが整えられた状態で待ち構えていた。シーツの上を探り、枕を返し、ベッド下を覗き込んでみるがそれらしい物はどこにもない。チェストの中やカーテン裏も探してみるがやはり見つからなかった。
 すぐに諦めてルーシーが大統領とお茶をするという大広間へ戻ってみる。
「しばらく二人きりにして欲しい。30分は用件を取りつぐな」
 部下にそう命令する大統領を横目に部屋に入ると、息を乱し汗を流すルーシーが立ち竦んでいた。
「?」
 話しかけられる状態ではないのはすぐに分かる。大統領が戻ってきて部屋の扉を閉めると、テーブルにあったナプキンとカトラリーをすべて床に落としてしまった。
「??」
 何がしたいのか分からない夢主の前で、広いテーブル上にルーシーの体が抑え込まれてしまった。服を脱ぎ、脱がせる意味が分からず、その場で戸惑っているとルーシーの口から悲鳴が上がる。それを聞いて緊急事態だと悟った夢主は近くの椅子を掴んだ。
「この……離して!」
 そのまま大統領の頭に向けて振り下ろすのと、ルーシーの顔に付いていた肉スプレーが移動するのは同時だった。
「ぐっ……何だとッ!?」
 気絶した大統領をテーブルから落とし、ルーシーの体を助け起こす。
「大丈夫?!」
「た、助かったわ……」
「一体何が……」
「指輪を……指輪を見つけたの! 早く手に入れなければ!」
 ポケットから勝手に転がり出た指輪は、すぐ近くの小部屋に入ってしまった。きっとそこにこれまで集めてきたものが揃えられているのだろう。ルーシーは急いでそこに飛び込むと、明かりのない暗がりを這いながら探し回る。
「指輪……」
 夢主は気絶した大統領をチラリと見てから彼女を追いかけた。ルーシーを隠して逃げるのはまだ可能だが、何より大事で欲しいのは指輪のありかだ。せめて触れるだけでも……と考えた夢主は小部屋に鍵を掛けてソファーや椅子の下を覗き込む。
「どこ? どこにあるの?」
「分からない……でもこの部屋なの! 必ずあるはずよ!」
 二人で必死になって探していると、コツ、と革靴の音が部屋の外で響いた。ぴたりと動きを止める彼女たちの向こうで、大統領が脅しをかけてくる。
「ルーシー・スティール……そしてもう一人居るな? ホット・パンツか? まぁ、どうでもいい。中に入れば分かることだ……今からそちらに行くが、無駄な抵抗はするなよ」
 ドアを壊す音に絶望したルーシーが暖炉に身を寄せた時だった。
 太陽のように明るい光が部屋中に満ちて、そのあまりの輝きに夢主は目を眩ませる。
「ひぃいいいい」
「ルーシー!?」
 彼女の悲鳴を頼りに手を伸ばした瞬間、光の中にいくつもの天使像が垣間見える。ぐるぐると周囲を飛び回るそれらが収束し、ルーシーの体を包み込むのを見ながら夢主は彼女の足を掴む。
「!」
 遠のく意識の中で記憶という記憶が奔流となって突き抜けていく。息も出来ないその中で、きらりと光る何かを見た。自身のスタンドが先行して導くそこにすべてが隠されてある。
「ああっ……DIO……!」
 暗闇に潜む男性がその声に微笑むのを最後に、夢主は意識を失ってその場に倒れ込んだ。




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